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″時間″についての雑感

こんにちは
今日もまた思いついたままにとりあえず書き残そうかと思います。

前回「時間」について思うことを少し書かせてもらいました。ゆっくりと″自分″の時間を過ごしたい、ざっくり言ってしまえばそんなことです。
今日はそのように感じるようになった自分なりの考察をもう少し深掘りしてみたいと思います。

前回書いたように、コロナの頃に時間に対する考え方が変わっていきました。この頃の変化としては、もちろん行動制限なんかもありましたが、仕事がリモートワークになったということが大きいのかなと思われます。
同じ時間に起き、トイレに朝食、はみがきに着替え。家を飛び出して同じ時間の電車。同じホーム、同じ扉から乗り込む。小一時間かけて出社して、いざ稼働開始。この繰り返されるルーチンから解放されたことは非常にありがたかったですよね。シンプルに自由時間が得られたので。
その代わり新たに生じたのは、トイレに行く間も削がれるzoom祭り。ひとつ終えては次。それを終えてまた次。と、ただただzoomからzoomへの往来が一日中続く毎日。ま、もともと打ち合わせの多い会社文化なので仕方のない側面もあろうかと思います。が、連続してくると何をやってるんだろうかと自問自答もしたくなります。打ち合わせの多さに辟易してたところを、zoomという打ち合わせスタイルが余計に嫌気を増長したのかもしれません。
このようなところから、そもそもなんのためにこんだけミーティングを″こなしているのか″。やりたいことをする上で、これらのミーティングには意味があるのか。そんなことを考えるようになってきました。ずっとこんなのが続くのでよいの?やりたいことはできているの?

よい意味では、50歳という節目が近づいていたタイミングで、考えるきっかけが得られたと言えます。悪い意味では、今もなお続くモヤモヤの始まりとも言えます。

ただ、仕事の仕方の疑問が、仕事そのものへの疑問へと変わっていったのは良かったのかなと思ってます。時間の価値観の変化から、仕事観の変化へと課題のポイントが昇華していったと言えるのかなと。仕事に対するwhatやhowではなく、whyを変えたいと思う自分がいることに気づけたこと。これが収穫と言えると感じてます。課題の収穫はできたけど、どう調理するか。どんな料理にするのか。そこの問答をまだ続ける必要があります。

ちょっと抽象度が上がってしまい、何言ってるのか分かりにくくなってしまいました😓
もう少し話を構造化しないといけませんね。それはおいおい。

今日もまた拙い話におつきあいありがとうございました。
では、また👋


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