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読書メモ『感じて、ゆるす仏教』

最近、東洋思想というか禅に関する本を何冊か続けて読んでいて、いま読み直している『感じて、ゆるす仏教』に、「面白いな」となんとなく思っていた批評家・東浩紀さんの記事がリンクしたので、忘れないうちにメモっておく。

この本は、禅僧・藤田一照と著述家・魚川祐二の「感じて、ゆるす」仏教を巡る対談をもとに構成されている。
藤田さんというのはけっこう変わった経歴を持つ禅僧で、灘高から東大に進学、ある日、東洋医学を学ぶ途中で偶然出会った座禅に心惹かれて、そのままお坊さんになってしまったという、まあ言ってしまえばエリート街道を突然転げ落ちた(と書くと大変失礼なのだが)禅僧である。世界的にも有名な方らしく、アメリカを中心に禅を普及する活動を続けている人だ。
一方の魚川さんも東大出身、大学で東洋哲学をガッチリ学んだ後、ミャンマーやタイに居住して現地にてテーラワーダ仏教を実践している。ぼくは魚川さんをTwitterで知って(『ニー仏』さん、といえば知ってる人は知ってると思う)、それをきっかけに、この本を読んだことがあった。

タイトルにもある「藤田さんが提唱する『感じて、ゆるす仏教』ってそもそもなに?」という話なのだが、ざっくりと説明すると、これまで当たり前だと思われていた『ガンバリズムの仏教』、つまり「キツい修行をガンガンやるマッチョな仏教」から、「力を費やしすぎず、心を費やしすぎないゆるい仏教」へのシフトが重要である、という話だ。

藤田さんの修行の経緯についてざっくり説明すると、若かりし頃はけっこう修行を黙々とがんばっていたんだけど、ある日、お師匠さんに「おまえ、アメリカにいって禅を普及してこい」と言われて、急にアメリカで禅の先生になることになってしまった。なれない英語で外国人相手に先生になるだけでも大変なのに、これまたある日、とある女性から「あなた、このまま独りで修行していても、ただの変人になって終わるわよ」と言われて、なんとその女性と結婚することになった。後年、お子さんも2人生まれた。
そういった変遷の中で「あれ?俺ってキツい修行をやってればそれでいいと思ってたけど、じつはそれだけじゃダメなんじゃね?」と考えを変えるようになり、現在の『感じて、ゆるす仏教』を提唱するようになった。

で、藤田さんと魚川さんの対談は「なんで感じて、ゆるすようになったの?」「どうやってそれを実践するの?」「どういう人生論なの?」の3部構成になっているんだけど、この真ん中の「どうやってそれを実践するの?」という議論の中で、魚川さんが藤田さんに鋭い問いかけを投げかけている。

簡単にいうと「『感じて、ゆるす仏教』自体はよくわかります。それを実践しておられる藤田さんが偉大な禅僧ということも疑いようがありません。でもそれって、藤田さんが『ガンバリズムの仏教』で必死に修行したからこそたどり着けた境地ではないですか?素人がいきなり『感じて、ゆるす仏教』を実践しても、なかなか難しいんじゃないですか?」というものだ。
実際、禅宗にはいくつかの宗派があるらしく、「不生禅」、つまり「われわれは生まれながらにモノを感じる力を持っているんだから、その力を大切にしている人は、もうすでに御仏の心にたどり着いているんだよ」と主張した禅僧がいて、一方でその禅僧を「けしからん」と批判した禅僧がいた。そのどちらも悟りの境地にたどり着いているんだけど、結果的に、優秀な弟子をより多く育てたのは後者の、つまり「なにもしないで悟れるわけないだろ。修行は大事」と主張した禅僧の方で、前者の禅僧にはほとんど弟子が育たなかった。こういう背景もあって、魚川さんの藤田さんへの上記の問いかけにつながるわけだ。

これに対して藤田さんは「結果的に見たら、ぼくが段階を経てそこに至っているのは、もうまぎれもない事実です」と認めている。
ただ「その上で、ぼくは二段階目の、つまり『感じて、ゆるす』モードに入っているんだから、二段階目の自分から見えているものを、正直に皆さんにお伝えする方が望ましいと考えています」と続けているのだ。

これを読んで思い出したのが、冒頭にも書いた東浩紀さんの記事だ。
以下リンクと一部抜粋を貼り付けておく(短いし面白いので興味ある人は全文読んでみてください)。

ぼくは、世界は変わるかと尋ねられれば、絶対に変わるはずがないと答える。それがもっとも誠実で正直な答えだと思うから。世の中には、若者に対してやたらと期待を煽る中高年が多いですが、ぼくに言わせれば、彼らはみんなバカか詐欺師かどちらかです。あるていど長く生きていれば、世界がそんな単純じゃないことはわかっているはずです。ぼくはそういう嘘はつきたくない。でもね、それを無視するのもまたあなたの自由です。というか、おそらくは無視しなければ、あなたはなにもできません。というわけで、あなたは、自分のために、ぼくの話など無視するべきだと思います。いいかえれば、「自分の人生の最適化」のためにこそ、「世界の最適化なんて放り出」すことはしないべきだと思います。それは逆説的なことなのですが、人生とはそういうものです。

ここで東さんが回答しているのは「まあ世界を変えるとか絶対に無理だし、それが誠実な態度だと思う。かといって、世界を変えようと思った若いころの自分がいなかったなら、いまの自分はいないだろう」ということだ。

東さんの「昔はわからんなりにいろいろ世界は変わると信じてたけど、変わるわけねえじゃん」という回答は、まさに藤田さんの「『ガンバリズム』の仏教でやってたけど、じつはそうじゃなかったんじゃね?」という悟りそのものじゃないかと思う。ただ藤田さんと東さんが違うのは、藤田さんは「自分と同じ頑張りを後進たちにはさせたくない。最大限の配慮をしつつも、やっぱり最初から『感じて、ゆるす仏教』でやるべきだと思う」という考えを持っているのに対して、東さんは「あの頃、がむしゃらに頑張った自分がいるから、いまの自分がいる。最初から世界を放り投げてたら、いまの自分はいない」という考えを持っているという点だ。

いろいろ考えはあるだろうし、そもそも異なる話題についてお二人とも語られているので、一概には比較できないんだけど、どちらかというと個人的には東さんの考えを支持してしまう。というのも、一周回ってはじめてたどり着ける境地ってのはやっぱりあると思うからだ。

有名な寓話に『アメリカの旅行客とメキシコの漁師』というものがある。たぶん知ってる人も多いだろう。
知らない人のために簡単に説明すると「メキシコの漁師は『ボートで釣りをして家族と過ごせればそれで満足だ』という。アメリカの旅行客はいろいろメキシコの漁師と会話をして『もっと余った時間でお金を稼げばいいのに』と言うんだけど、『稼いだお金でなにをするの?』というメキシコの漁師の問いかけに『ボートで釣りをして家族と過ごすのさ!!』と答える」という内容である。

要は「お金に縛られてるのってなんかおかしくね?」ってのを皮肉った寓話なんだけど、ぼくはあんまりこの寓話が好きではない。
というのも、最初からボートに楽しみを見出していた、というか、人生に選択の余地などなく、最初からボートに楽しみを見出すほかになかったメキシコの漁師と、いろいろ頑張って最終的にボートにたどり着く(たどり着けないかもしれないが)アメリカの旅行客、どっちがいいかと言われると、ぼくはアメリカの旅行客でいたいからだ。
もちろんこの寓話でのアメリカの旅行客は「お金に身を縛られてやりたいことができない愚か者」の典型として描かれているので、そっくりそのままそれになりたいかと言われると、もちろんなりたくない。
そうではなくて、ここで言いたいのは「いろいろ頑張って最終的にある境地にたどり着く人」と「もともとその境地にたどり着いていた人」だと、ゴールとしての「境地」は一見同じかもしれないけれど、じつはあとあとその「境地」にたどり着いてから軽視されてしまう「プロセス」こそに値打ちがあるんじゃないかな、なんてことを思うからだ。

なので、藤田さんと魚川さんの対談に戻るけれども、藤田さんはいまの自分から見える『感じて、ゆるす仏教』を説かれていて、それはそれでとても大事なことだと思う一方で、やっぱり「ガンバリズム」に時間をかけた時期って、藤田さんにとっては、というかみんなにとっても大事なんじゃないかなと思う。

『感じて、ゆるす仏教』はけっこう面白いのでみんな読んでみてください。ここまで書いて、あんまりなにも頑張っていない自分にブッ刺さって胸が痛くなったのでメモを終わります。

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