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共通善は人々を動かすことができるか。『実力も運のうち』読書メモ

(以下の文章は、友人との読書会後に友人の読書会レジメを参照しつつ書いたものです。)

サンデルの『実力も運のうち 能力主義は正義か?』を読んだ。


本書におけるサンデルの主張は、これまでの著作同様「人々は共通善を取り戻すべきだ」ということになるのだが、今作は能力主義とその問題点に焦点を当てている。
彼の主張をものすごいザックリ要約すると、以下の通りになる。

【サンデルの主張要約】

・能力主義社会における競争の過程で、勝者は恩恵を見逃してしまう。
・機会の平等ではなく、不平等自体に対処する必要がある(p.39)。完全な能力主義の弱点は、勝者がおごるようになること(p.40)。
・能力主義社会では、非エリートは勝者に見下されたように感じる(p.41)。それに気づいて、(少なくとも表面的に)寄り添ったのがドナルド・トランプ(p.43-p44)
・「出世のレトリック」の基本的意味は、能力があれば成功できる。暗黙の意味は、成功できなかった人は能力がない(p.108)
・「出世のレトリック」以外に、能力主義を有害なものにした3要素。
(1)連帯を蝕み、自信を失わせる、(2)学歴偏重の偏見を生み出す、(3)テクノクラートのうぬぼれが、民主制を腐敗させ、市民の力を奪う(p.109-p.110)


【以下、読書メモ】

サンデルは「貴族主義vs能力主義」の構図で後者の問題点を論じている(p.167)。

能力主義は「いまだ果たされていない遠い約束」であり、そもそも、その理念自体に問題があるのだ(p.177)。つまり、能力主義社会は勝者のあいだにおごりと不安を、敗者のあいだに屈辱と怒りを生み出し、共通善を腐食する(p.178)。
そもそも、アメリカンドリームは、もはやアメリカンではない(p.111)。アメリカの経済的流動性はほかの多くの国々よりも低く、デンマークとカナダの子供は、アメリカの子供とくらべ、貧困を脱して裕福になれる可能性がはるかに高い(p.113)。

ここで一歩立ち止まって考えてみたい。ではなぜ、いまだに「デンマークドリーム」といった単語ではなく、「アメリカンドリーム」という単語が人々を駆り立てるのか?


つまり、こういうことだ。アメリカ人はそれを信じている。アメリカ人は貴族主義(アリストクラシー)のような社会に住みながら、能力主義(メリトクラシー)の社会に住んでいると信じているのが実態なのではなかろうか。そして、重要なのは、この「信じる」という部分にあるのではないだろうか。
つまり、この「努力は報われるという夢物語を信じる」ということが、アメリカに住まう人々を駆り立てているのではないか。

サンデルの指摘は正しい。どこまでも正しい。なるほど、能力主義は社会の共通善を腐食するだろう。能力主義が果たされたとしても、人々のおごりや屈辱は消えないだろう。しかし、彼の唱える「共通善」は、はたして人々を駆り立てることができるのか?


これが『実力も運のうち』の致命的な弱点だ。「共通善」を取り戻すために具体的な解決策的なものがない。もしあったとしても、それは人々を駆り立てない。

たとえばサンデルは受験制度にくじ引きを導入することを提案する。第6章から引用しよう。

四万人超の出願者のうち、ハーバード大学やスタンフォード大学では伸びない生徒、勉強についていく資質がなく、仲間の学生の教育に貢献できない生徒を除外する。そうすると、入試委員会の手元に的確な受験者として残るのは三万人、あるいは二万五〇〇〇人か二万人というところだろう。そのうちの誰かが抜きんでて優秀かを予測するという極度に困難かつ不確実な課題に取り組むのはやめて、入学者をくじ引きで決めるのだ。言い換えれば、適格な出願者の書類を階段の上からばらまき、そのなかから二〇〇〇人を選んで、それで決まりということにする(p.266)。

このくじ引きによる選抜があれば、人々の能力主義志向に歯止めをかけ、共通善の腐食を食い止められるのではないかとサンデルは提案する。しかし、実際に受験生の立場になって考えてみよう。

あなたは東京大学を目指す高校生だ。東大に入るために、日々、難しい数学の過去問を解き、英単語帳を片手に通学している。日々の努力も、ギリギリまで本番の点数を一点でも高く獲得するためだ。しかし、ある日、東京大学がこんな告知を出した。「適格な出願者の書類を階段の上からばらまき、そのなかから二〇〇〇人を選んで、それで決まりということにします」、要は、足切りを受けないための努力は必要になるが、それさえクリアしてしまえば、あとは運しだいなのだ。

どうだろうか?あなたがどう思うかはわからない。しかし、パッと思いつくだけでも、以下の問題点がありそうだ。

・もし、ある程度の点数以上を取ればすべて運任せになるのであれば、東大という日本首位の大学、および東大に通う学生の威信を傷つけはしないか。すなわち「東京大学をくぐりぬけたのは、ある程度は運がよかったから」となってしまう。「東大の学生は優秀である」「東大は頑張って目指すだけの価値がある」、こういった前提を損なうことにならないか。なにより、運がよかったから、という理由で合格させることが、どうして共通善を取り戻すことに繋がるのだろうか。
・(これはぼくが思ったことだが)もし、上記の制度でぼくが東大に合格したら、ぼくはこう思うに違いない。「ぼくには能力もあった。その上、運もあった」、これは選民思想の始まりにほかならない。

サンデルの提案は、確かに能力主義には歯止めをかけられそうだ。しかし、歯止めをかけた結果、共通善の獲得につながるかどうかは甚だ疑問である。もし、共通善の獲得につながったとしても、これは受験生のやる気をそいでしまう。

サンデルは「勝者のおごりと敗者の屈辱」を否定すべきものとして書いている。しかし、そもそもこれらは否定されるべきものなのだろうか?

「頑張った人間は報われる」という言葉には確かに問題点が多い。それはサンデルが論じたとおりだ。しかし、「頑張った人間は報われる」と信じているからこそ、人々は頑張ることができるのだという当たり前の事実をサンデルは見逃している。

サンデルの議論は正しい。しかし、いや、そうであるがゆえに、人々を駆り立てない。

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