どうして『ノルウェイの森』がぼくの心をつかんだのか

【あなたにとって特別な本はなんですか?】 

「あなたにとって特別な本はなんですか?」、そう聞かれたとき、どんな本を思い浮かべるだろうか。いろんな本があると思う。あらためてこの問いに対して向き合ったとき、いくつもの本がぼくの頭の中に浮かんでは消えたけれども、あえて選ばなければならない本があるとするなら、『ぼくは勉強ができない』と『ノルウェイの森』の2冊だった。今日は『ノルウェイ』の森についてすこし書いてみようと思う。

【ぼくと村上春樹について】 

ちなみにぼくは熱心な村上春樹小説の読者ではない。あえて「村上春樹小説」と「小説」に限定したのは、彼のエッセイに関しては熱心な読者だからである。ほぼすべてのエッセイを読んでいるし、『やがて悲しき外国語』『遠い太鼓』『走ることについて語るときに僕の語ること』なんかは本当に何度も読み直した大好きなエッセイだ。彼のエッセイがいかに素晴らしいかということを語るだけで別の記事が書けてしまうので、今回は書かないが。

その一方、彼の小説については、正直なところ魅力がよくわからなかった。『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『ダンス・ダンス・ダンス』『国境の南、太陽の西』『スプートニクの恋人』『1Q84』あたりは読んだけど、「まあまあかな」という感想しか持っていないし、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』あたりに至っては、「なにが面白いのかわからない」といった感じである。前2つについては途中で読むことすら放棄してしまった。なのでぼくはハルキスト(「小説家」村上春樹の熱狂的なファンのこと)ではない。

でも『ノルウェイの森』だけは違った。小学生の頃、両親の本棚に赤と緑の表紙があったことを鮮明に覚えている。一回読んでみたのだが、小学生のぼくに理解できるはずもなく、そのまま挫折した。次にこの本に出会ったのが大学生の頃だ。通読したのはこれが初めてだと思う。最初に読み終わった時の感想は「やっぱりよくわからない」だった。でも、そこから大学の数年間、気がつけば幾度となく読み直していた。社会人になってからその回数は加速度的にあがった。間違いなく通算で数十回は読み直している。数ある村上春樹小説の中でも、何故この本だけがぼくの心をこれほどまでにつかんだのか。

【ノルウェイの森とはいったいどういう小説なのか】

この本についての紹介文を文庫本の上下巻の背表紙からそのまま引用してみる。

暗く重たい雨雲をくぐり抜け、飛行機がハンブルク空港に着陸すると、天井のスピーカーから小さな音でビートルズの『ノルウェイの森』が流れ出した。僕は一九六九年、もうすぐ二十歳になろうとする秋のできごとを思い出し、激しく混乱し、動揺していた。限りない喪失と再生を描き新境地を拓いた長編小説。(上巻より)
あらゆる物事を深刻に考えすぎないようにすること、あらゆる物事と自分の間にしかるべき距離を置くこと―。あたらしい僕の大学生活はこうしてはじまった。自殺した親友キズキ、その恋人の直子、同じ学部の緑。等身大の人物を登場させ、心の震えや感動、そして哀しみを淡々とせつないまでに描いた作品。(下巻より)

1987年の発売当初、この本の帯には「100%の恋愛小説」と書かれていたそうだ。この記事を書いている2020年現在においても、amazonのPR文章の中には「激しくて、物静かで哀しい、100パーセントの恋愛小説!」と書かれているし、実際そう捉えている人は少なくないだろう。確かに『ノルウェイの森』で主人公は死んだ親友の恋人である直子、そして同じ学部の友人である緑にそれぞれ恋をする。しかし、ある物語が恋愛を描いているからといって、そのことはその小説が恋愛小説であることを必ずしも意味しない。ぼく自身は『ノルウェイの森』は恋愛小説ではないと考えている。なぜか。理由はシンプルで本編の中にその答えがある。高校時代、自殺してしまった親友キズキに対し、ぼんやりとした何かを感じた主人公はそのかたちをこのような言葉に置き換えた。

死は生の対極としてではなく、その一部として存在している。(上巻p.54より)

『ノルウェイの森』全編を通して、唯一この文章だけが太字で書かれている。よって『ノルウェイの森』のテーマは明らかだ。「生と死」についてである。

『ノルウェイの森』には以下の人物が登場する。主人公である『ワタナベ』。恋人の死後、不安定になったヒロイン『直子』 。同じ学部の女子大生である『緑』。主人公の高校生時代の親友『キズキ』。地図が大好きな変わったルームメイト『突撃隊』。学生寮の先輩でありハンサムな孤高の天才『永沢』。永沢の恋人『ハツミ』。直子が入院する療養所で暮らしている『レイコ』。この8人のうち、『直子』『キズキ』『ハツミ』は自ら死を選び、死を中心に物語は展開していく。『ノルウェイの森』において、恋愛というファクターは、登場人物の「生と死」を載せる入れ物として機能しているのだ。

「生と死」を抱えて生きること

おいキズキ、と僕は思った。お前とちがって俺は生きると決めたし、それも俺なりにきちんと生きると決めたんだ。お前だってきっと辛かっただろうけど、俺だって辛いんだ。本当だよ。これと言うのもお前が直子を残して死んじゃったせいなんだぜ。でも俺は彼女を見捨てないよ。何故なら俺は彼女が好きだし、彼女よりは俺の方が強いからだ。そして俺は今よりももっと強くなる。そして成熟する。大人になるんだよ。そうしなくてはならないからだ。俺はこれまでできることなら十七や十八のままで痛いと思っていた。でも今はそうは思わない。俺はもう十代の少年じゃないんだよ。俺は責任というものを感じるんだ。なあキズキ、俺はもうお前と一緒にいた頃の俺じゃないんだよ。俺はもう二十歳になったんだよ。そして俺は生きつづけるための代償をきちっと払わなきゃならないんだよ。(下巻p.204より)
おいキズキ、お前はとうとう直子を手に入れたんだな、と僕は思った。まあいいさ、彼女はもともとお前のものだったんだ。結局そこが彼女の行くべき場所だったのだろう、たぶん。でもこの世界で、この不完全な生者の世界で、俺は直子に対して俺なりのベストを尽くしたんだよ。そして俺は直子と二人でなんとか新しい生き方をうちたてようと努力したんだよ。でもいいよ、キズキ。直子はお前にやるよ。直子はお前の方を選んだんだものな。彼女自身の心みたいに暗い森の奥で直子は首をくくったんだ。なあキズキ、お前は昔俺の一部を死者の世界にひきずり混んでいった。そして今、直子が俺の一部を死者の世界にひきずりこんでいった。ときどき俺は自分が博物館の管理人になったような気がするよ。誰一人訪れるものもないガランとした博物館でね、俺は俺自身のためのそこの管理をしているんだ。(下巻p.258より)

上記の引用はそれぞれ直子の生前、死後で主人公が亡き親友キズキに語りかけるシーンだ。愛する人のために全てを引き受ける覚悟をした主人公だったが、その愛する人は自ら主人公のもとを離れることを選択した。主人公の一部と共に。

『ノルウェイの森』について書こうとする前に、何人かのレビューを読んだ。中にはこういったレビューがあった。

1 若い時期に、近親者・同級生に自殺者が存在している
2 死(極めて身近な範囲の)と、若い時期に深く接触している
3 恋人や友人やその他の近しい存在に重度の精神病者がいる・彼らの存在が消えている
4 周囲で発生した自殺の数が多い
5 読者自身が精神疾患もしくは近似した感覚を有している
6 身内の介護に取り組んだことがあり、糞尿等の介助実体験がある
7 職業として日常的に精神疾患者の対応をしており、その生活を間近に見ている
8 性について虚無感を抱いており、ゲーム性をもって性交を積み重ねたことがある
9 学生時代に、学生寮に住んだことがある
10人生放棄に近い状態で、全国を野宿旅などで放浪したことがある
条件9や条件10は正直どうでもいいが、とりあえず、上記の条件1・条件2・条件3の体験は必須だと思う。それがあれば、この小説は正しく読める。これらに該当する体験が皆無ならば、この小説を正しく読みこなすことは不可能で、『共感性』を抱くことはまったくできないと思う。よく意味の分からない小説になると思う。この小説を読む以前に『死の周辺』に関する体験がない人は、「やれエロ小説だ、やれ意味不明だ」という感想になるのも致し方ない。

ぼくは必ずしもこうは思わない。なぜならば他ならぬぼく自身がこれらの条件に当てはまらないのにも関わらず、『ノルウェイの森』という小説に深く心を動かされた人間の一人だからだ。そもそも、もしこの本が死についての経験を持ち得たものにしか理解できない小説であるとするならば、なぜこの本が1000万部を超える大ベストセラーとなり、時代や国境を越えて、ぼくを含む多くの人々の心を動かし続けることができるのだろうか?

人間は生の中に死を内包している。だが『ノルウェイの森』がテーマとして持つ『生と死』は必ずしも実際の死だけを意味しているわけではない。かつていた場所、かつて仲のよかった誰か、繰り返し聴いたあの曲。そういった、しかし記憶から確実に遠ざかっていくこの世全てのものについてこの作品は語っているのだ。誰かの記憶から完全に消えたとき、それらは完全な死を迎える。いずれ忘れ去られていくものを抱えてぼくたちは生きている。永遠なんてものは、絶対の愛なんてものはこの世に存在しない。にも関わらず、ぼくたちは日々を生きていくしかない。

『ノルウェイの森』で語られた生と死のテーマは「永遠なんてものはないけれど、前を向いて生きていこう」というようなポジティブなものではない。これは大人になった主人公が若かりし頃の自分を思い出す形で綴られた作品だからだ。大切なものはもうすでに主人公の手からこぼれ落ちている。しかし主人公は生きている、生きていかざるを得ない。いずれ忘れゆくもの、それを失った喪失感と共に生きていくこと。このメッセージがぼくをとらえて離さない。

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