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2022年度のオンライン授業ふりかえり

2022年度の授業もそろそろフィナーレをむかえるので,このあたりで今年度の授業形態について手びかえもかねてかいておきたい.

対面授業の復活

いつのまにか“対面授業”というレトロニムがうまれ,あたりまえのように市民権をえた.ネット空間にながらく身をおく者としては“オンライン”の対義語は“オフライン”であるはずなのだが,オンラインに軸足をおいた見方が“オフライン”なのだとすると,“対面授業”というレトロニムからはあくまで授業のメインフィールドは生身が対面する空間なのだぞ,という何者かの意地を感じとれる.これを“オフライン授業”といってしまうと,もはやオフラインでのいとなみはオンラインの付随物にすぎない感じがしてしまうのかもしれない.ただ,オンラインにせよオフラインにせよお互いの顔をみせあう状況であればそれは“対面”という見方もできるかもしれぬが,対面授業ということばの“対面”にはそれ以上のコノテーション(i.e. “Xである対面”)が意図されているのかもしれない.

それはともかく,フルオンラインだった2020年度,オンとオフが半々だった2021年度から,2022年度はずいぶんオンライン授業の比率がさがった.文科省による卒業に必要な単位数にしめるオンライン授業の単位数の制限が復活したこともあり,カリキュラム編成にあたっては,何をオンライン授業でおこなうかを慎重に計算しなければならなくなった(i.e. 卒業要件の単位数に対して60単位まで).

オンライン授業の位置づけ

文科省の方針転換にともなって,カリキュラム全体に対するオンライン授業の比率は,卒業間際になって学生がこまることがないよう,事前に予測をたてて配分する必要がうまれた.

カリキュラム編成の大枠からみると,感染対策で教室収容定員を2分の1にした結果,受講者が教室にはいりきらない授業についてはオンライン授業でおこなうことになった.ただし,Zoom等をもちいたリアルタイムでのオンライン授業は不可となり,事前収録によるオンデマンド教材の配信がおこなわれた(これは,2021年度も同様).Zoomによるリアルタイムオンライン授業がみとめられなかったのは,学内にオンライン授業を受講する空き教室がないためである.

それぞれの授業レベルでみると,1コマ15回に対して7回まではオンライン授業でおこなってもよく,これにより受講者の同意をえたうえで,オンオフを柔軟にきりかえることができ,これはコロナ禍をへて授業形態がDXされた部分であるように考えられる(ただし,それ以上になるとコマ全体がオンライン授業の扱いになるので注意が必要).ただ,この方法がみとめられているかどうかは大学によりけりで,2022年度はなにがなんでも対面授業しかみとめない大学もあるときく.

オンライン授業の活用方法

このような変化により,オンライン授業はオンデマンド授業(i.e. オンデマンド講義動画+課題)を配信する完全オンラインのものと,きめられたコマ数の範囲内で状況に応じてオンオフをきりかえるものとにわかれた.

オンデマンド授業については2021年度から同じことをやっていて,同じことをくりかえす虚無感にさいなまれるようになった.しかしオンデマンド配信を数回おえた段階で『プレゼンテーションZen』という本にであい,2021年度同様にWorkFlowyに事前に書き込んだ板書をよみあげていくスタイルだったのをやめてビジュアルスライドによる講義に変更したところ,スライドづくりがたのしくなった.

オンオフを適宜きりかえるスタイルの授業については,オフライン(!)で使用する教室があたえられているので,オンラインにきりかえたとしても,その日対面授業もある学生が不利益をこうむることはなかった.コロナ禍にはいり,すべての学生がノートパソコンをもつことが推奨されており,校舎内のWi-Fi環境も数年をへてようやく増強されている.

また,対面授業で授業をおこなうにしても,板書とトークをZoom経由で教室のスクリーンに映しだすことで授業の録画が可能になり,出席あつかいにはできないのだが,感染や濃厚接触によって登校できない学生にアーカイブ動画を提供することが可能になった(ただし,毎回やるわけではなく,希望があったばあいのみ).これも,ハイフレックス授業をどうやってやればいいかという模索からうまれた地味だが現実味のあるDXのひとつだと思う.

次年度どうなるのか

さて,次年度がどうなるのか.大規模講義のオンデマンド化はつづくようである.これは気が重い.板《モニター》に向かって孤独なのに楽しそうにしゃべる苦行が4月からもつづく(ちなみに,非常勤先は全体の学生数がすくないために教室に余裕があり,100人ごえの大規模講義でもすでに対面授業をおこなっている).動画に時事雑談をもりこまずタイムレス教材を収録して毎年つかいまわすという禁じ手もあるが,これをやると教員として終わりだと思う.季節感をさしはさみながら,講義内容もアップデートしていかないと,リアリティのある教材にはならないと考える.

コロナ禍もまる3年になって,もう霧が晴れるようにすべてがクリアになることはないだろうな,という気分になっている.マスクをとればいいじゃないか,ということではなく,ただ息をすることだけにも得体の知れない緊張感を覚えないといけない,周囲の人々から心理的・物理的な距離をとらなければいけない強迫感が持続している.これまで意識する必要がなかったことがらに脳のリソースが常にさかれている感覚があり,憂鬱になる.これに比例してデジタル空間での人とのやりとり,人々のいとなみの垣間見が大幅にふえた.いとなんでいる人がふえてそれが目につきやすくなったともいえる.

ぼーっと海を眺めながらパンを焼いて暮らしたい気分になることがあるが,過去が美化される感覚と同じなのだろう.

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