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インタビュー vol.06:小田付まちのひと「これからも水を守ってほしい」

重伝建に住むということはどういうことなのでしょうか。テクノアカデミー会津観光プロデュース学科の学生たちが重伝建にお住まいのみなさんに、建築・ 水路・ 小田付での思い出について伺いました。

矢部 善兵衛さん
元呉服商である喜多方の名家に生まれる。座敷蔵など複数の蔵が国登録有形文化財であり、中でも蔵座敷は、黒漆喰観音開き扉の先は銘木を贅沢に使った座敷だ。おたづき蔵通りの入口に一際目をひく煉瓦造りの洋館は喜多方の景色の一つとして親しまれている。

ーーー大きな赤いレンガの立派な建物がご自宅と聞いたのですが本当ですか?


ありがとうございます。今から18年ぐらい前、平成に建てられたものです。屋根瓦だけは区別して赤瓦にしています。もともと、なぜ小田付の町はこのような区画かというと、昔の地図をご覧になるとわかりますが、北の岩月の方からここの建物の前の菅井屋さんの薬屋さんまでで道路が止まっていました。そこから東に行くと熊倉に行き、西に行くと田付川を越えて小荒井にいくという街道で、それが昭和41、2年頃に、南のほうまでずーっと国道ということで道路が通りました。もともとこの建物は、今ある道路の大体中心のあたりまでが敷地だったですけど、道路が通ったために蔵の母屋がなくなってしまって、代わりにレンガの倉庫を上に伸ばして建てたということです。

蔵は中々暗くてね、遊びに行くのが怖かった。ただ、蔵の中に卓球台があってピンポンをやったりしていましたね。あと、野球が好きだから蔵の壁にボールを当ててね、1人の時はピッチングの練習をしていましたね。

 昔は太鼓台を預かっていたので、それを骨組みから組み立てるところを見ていましたね。昔はこのあたりでもベーゴマ、ビー玉、それから「ぺった」(めんこ)が流行って、そんなのを蔵の中でやったりしていましたね。

 後は、この街に2軒ばかり子供の駄菓子屋さんがありましたね。そこに行くと、10円で引ける甘納豆のくじがあった。10~50円ぐらいのおもちゃがあったりしてね。そういう所に子供達が集まったりしていました。

 小田付は、小荒井みたいに、にぎやかな競争の激しい町ではなかったけど、雑貨屋さんがあったり、落ち着いた町並みでした。

Zoomを使ってのインタビュー
インタビュアーは、テクノアカデミー会津 観光プロデュース学科2年生

ーーー建物にまつわる家での思い出を教えてください。


先ほど話したように、子供の頃は今の敷地と違っていたから、表のほうは町で建物が建っていたのですが、裏の南のほうはもうずっと田んぼでした。私が、子供の時の昭和30〜40年ぐらいまでそうでした。柿の木があったり、小川が流れていたり、というように自然の中に町があるという感じだったですね。だんだん人が移住して住宅が増えるようになりまして、今のような状況になっているんですけども昭和30何年くらい、私の子供のころ、裏にヤギを飼っていたり、田植えが終わった後の早苗饗さなぶり(田の神を送る祭りその祝宴や休日)なんてのが昔はありまして、早苗饗のあと、蔵の中で映写会なんてやっていましたね。小田付の町といっても、田んぼが裏にあって、米蔵はずいぶんありました。その中で映写会なんかをやっていました。

蔵の思い出というと、よく悪いことすると蔵に閉じ込められましたね。どこの家でもそんな思い出があるんじゃないかな。重い扉で開かないし、泣いても喚いても出してくれなくてね。おしっこ漏らしたりして大変だった思い出はありますね(笑)。

蔵座敷なんていうものは、建物の中でも奥の座敷だったので、子供たちはあまり行かない場所でした。大切なお客さんが来るとそこにお通しして、お茶会をする場所でした。当時は呉服屋もやっていたものですから、退職された人たちが、年に2回同窓会というものをやって、先輩にあたる年寄り70〜80歳の方が集まって、そこで宴会をやったり、そんなときのことは覚えてます。他には、蔵の上に梯子があって、軒に鳥の巣があってね。それを私が取りに行ったとか、子供の時はそんなこともした思い出もあります。

ーーー建物や家でのお気に入りの場所アピールしたい場所はありますか?


今となると、敷地の配置がこのようになってしまってはいるのですけど、蔵座敷は残りまして、これは、明治30年にできましたので喜多方では古い蔵座敷かなと思います。蔵と庭は明治30年にできたものですから、あとはほぼ江戸時代の蔵が多いですね。その建物が、江戸、明治、そして大正・昭和がなくてレンガの建物が平成ですから、比較的古い建物が多いということかなと思います。古い米蔵が多いですね、それ以外はたぶん座敷蔵と隠居ですかね。

蔵ではないですが、隠居というのは普通の木造建築です。江戸時代からあるから、特定物件の中に入れたのだと思います。何に使用しているかっていうのは、座敷蔵はお客様用に使っています。登録文化財になっているものが3件あります。登録文化財になっているものは昔、綿蔵という綿を入れていた蔵。1号蔵っていうのもそうでして、第1号だから1号蔵というのでしょう、江戸時代のもの。ここには、少し中を書庫で図書館みたいな、自分たちで本とかを並べる場所に今はしようかなと思っています。あと残りは、ほぼ倉庫用なものですから、今でも米蔵なんかで営業倉庫として国交省の認可をもらって、お客様のものを保管する蔵として利用しています。

ーーー小田付の思い出を教えてください。


もうこれは、待ちに待った祭りでしたね。小荒井は諏方神社で、小田付は出雲神社が中心でしたから。そこに7台の太鼓台が練り歩いていくのですけども、町によって、着るものが違うんですよ。昔は麦わら帽子に浴衣を着てね。ゆったりと歩いていました。昭和20年~30年代は、子供たちもいっぱいいましたからね。とても賑やかで楽しかったです。露店もいっぱい出ましたね。新道のずっと先のほうまで、随分長い露店が道の両側にできましたね。子供達は化粧をしたり、浴衣を来たりしてましたね。お神輿がぐるっとまわるんですけど、先頭に天狗のお面を被った人が一本足の下駄で鉄の棒を持って歩いて、羽織、袴を着た町の町内会長さんが続いて歩いて行列を作って、その後ろをお神輿を持ってしずしずと歩いて出雲神社の方へ行くんですね。これはお祭りの始まる前ですけどね。すると、暑いですから、その台を置いて休む。そこでカルピスや麦茶が出されたり、スイカが出されたりしてね、休みながら町を練り歩く。楽しい思い出でしたね。

昔は紙芝居なんてのがありましたね。テレビも無いでしょ。西幼稚園の辺りに紙芝居のおじさんが来るんですね。水飴が1円か5円で、買った人だけ見れる。買わない人は遠くの方から見る。5円は、今でいうと50円ではきかない。子供が普通の時は持てるお金ではなかった。ただ、お祭りの時は10円持たしてもらっていました。

写真屋さんがあったりしましたね。何かあるとプロの人に撮ってもらうんだといってね。自分の家で何かあると来てもらったり、七五三の時とか出雲神社に行った帰りに写真屋さんに寄って写真を撮ってもらっていました。

私は大体、幼稚園ぐらいまで小田付に住んでいたんですね。その後は小荒井にもお店が出きたものですから、そちらに住むようになりました。子供の時はやっぱり、小田付と比べると小荒井のほうが賑やかだなあという感じがしましたね。今より小田付も賑やかでしたけど。緑町を通って小荒井に行くんですけどね。あの頃は車がないので歩きか自転車でしたね。小田付は比較的、昔から住んでる人が多い町なんですね。大体、江戸時代とか、遅くても明治ぐらいからの人たちが住んでいる町なんです。ですから家のことがみんなそれぞれ分かり合っている。新しい人が入らず、代々受け継いだ地域だった。それに比べると小荒井は新しい、やる気のある商売の人が入ってきたり、変わったりがあったと思うんです。それから小学校の頃ですと、会津若松に行くことは都会に行くっていう1つの楽しみでした。電車もしくはバスに乗っていくんですけど、都会だなぁ、喜多方は田舎だなぁと子供の時は思っていました。小学校の時の遠足は郡山でしたね。海を見たことがないですから、大体普通は猪苗代湖に湖水浴に行く。ここは、スキーが盛んで、冬になるとスキー教室があって歩いていっていたんですよ。小塩山が西のほうにあってね。そこまで先生に引きつられていくんですよ。リフトも何もなかったけど、上ったり降りたりを繰り返していました。

ーーー小田付にはきれいな水が流れていたと聞きましたが、小学生の頃の水にまつわる思い出を聞かせてください。


私は小学生の頃から小荒井のほうに移ったのですけども、あの頃は田付川の北のほうに製紙工場があって、有毒性のものが流されるので、泳いでは行けないって言われて、昭和20~40年ぐらいまでは泳げない場所でした。その前はなかったとは思います。ですから、泳ぎに行くのは、遠いですけど西側の方に、歩いたり、自転車で行ったりしていました。小田付の人はみんな西側に泳ぎに行っていたんじゃないかな、プールはずっと後にできました。

このあたりの川を、自転車で遠くまで、竹竿を持って釣りに行っていました。田んぼのそばにはドジョウがいたり、秋はイナゴが取れたので、イナゴの佃煮を食べたりしていましたね。魚屋の前には樽があってドジョウがうようよと泳いでいた。それでお母さんが買って、よく食べていました。昔はそんなに流通がよくなくて海から遠いですから、川魚が多かったです。大体塩引きとか、海のタラやニシンの乾燥したものを買って、水で戻したり、焼いて食べたり、地場のものを中心に食べていました。ですから、春なら山菜を食べるとか、季節、季節に地場でできるものを食べていました。まだ、スーパーマーケットがなかったから、八百屋さんで買うか、自分のところで栽培するか、農家からもらうか、農家の方がリヤカーやかごで回って売りに来ることも随分ありました。

川で遊ぶっていうと、小学生のころは田付川で河原にいってチャンバラごっことか、爆竹みたいなのをシュッとつけて投げ合うヤンチャな男の子がいましたね。

ーーー今と昔の水路の違いはどのようなところでしょうか?


原則的に戦後と今の水路はほぼ変わってないと思います。ただ、大体家の中に中堀があって、一番表に流れる水路が道路の端にありますね。南町なんかは、その後ろのほうに中堀があったと思います。あと、調べてみないとわからないけど、一番後ろにも通っているはず。その昔は、表の川で野菜を洗っていたと思うんです。私の小さいころは、水道がなくて井戸水だったんです。井戸でも水が良くないところがあるんです。お酒屋さんや味噌屋さんがあるところは、たまたまなのか良い水が出るんだけど、いくつかの地下水の水脈があって赤水が出たり水質が悪いところがあるんですよ。そうゆうところは、西のほうから向こうに井戸を掘って、東四ツ谷に農道を通して水路を持ってたりして使っていました。裏の通りも水路があって、北から南のほうに流れていく感じです。コンクリートではなくて、大体小さな石垣で囲まれたようなつくりでした。

いくつかの水路がうちの前のほうに集まっていて、結局農業用水になるそうです。北から南の田んぼに水をやっていた。その前は道の真ん中に水路があったという図面があります。屋根があって、馬の水飲み場があった。

ーーー今後、小田付の水路・水はどのように変わっていってほしいと思いますか?


現状を崩さないように。水の流れは自然の流れですから、今まで人口物は加えられてきましたが、これからも水を守ってほしいです。30年前、一度はまちづくりの中で、もう一度昔の風情に戻そうとアイディアが出たことがありました。今はこうして重伝健に登録され、町の形や水の水路の流れを守っていくということで、下水や排水も流れないようになりました。なので、将来川に魚が泳ぐようになったらいいなと思います。昔は、魚はいなかった。たまに紛れ込んで、フナとかいたけど、めったに町中で見ませんでした。

Presented by
みんなでつくろう小田付重伝建標識プロジェクト 2021
取材日時:令和3年8月25日(水)
取材協力:テクノアカデミー会津 観光プロデュース学科2年

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