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インタビュー vol.09:小田付まちのひと「建物を維持していくのが大変だっていうことは皆さんにわかってもらいたい」

重伝建に住むということはどういうことなのでしょうか。テクノアカデミー会津観光プロデュース学科の学生たちが重伝建にお住まいのみなさんに、建築・ 水路・ 小田付での思い出について伺いました。

伊関 聡さん
会津北方小田付郷町衆会現郷頭としてまちづくりに尽力。かつては小田付のメインストリートであった東町の「あづまさ」の門向かいに、美しく並ぶ板塀が印象的なお屋敷。お庭には今は殆どなくなってしまった水路から水を引く鯉が泳ぐ池がある。

ーーー郷頭とはどんな仕事を行っているのでしょうか?


郷頭は小田付の集まりの会長のことで、小田付の町衆会を立ち上げたときに名前をどうしようかということになりました。会長というよりかは、江戸時代のときから使われていた郷頭という役職があるので、「郷頭にしたらどうか」ということで郷頭となりました。

Zoomを使ってのインタビュー
インタビュアーは、テクノアカデミー会津 観光プロデュース学科2年生

ーーーご自宅は築何年の建物なのですか?


これは棟板という伊関家の2階の天井裏に今も上がっている板で、ここには昭和15年と書かれています。大工さんがこの建物がいつまでも残るようにということで記録に留めて置いたものです。天井裏に潜ったときに写真を撮っていて、今棟札が上がってますよってことで、昭和15年に建ったということがわかります。よく見てみると六月拾弐日と書いてある。大安の日なんです。計算すると70何年かは経っています。

伊関家の2階の天井裏に今も上がっている棟板の写真

ーーーお庭のお手入れはどうされているのですか?


昔は人を頼んで色々やっていたんですけど、最近はできるだけ自分でしています。草刈りや松の手入れはシルバー人材センターさんで頼んでいます。草刈は年に2、3回はします。池があるんですけど、川の水が入っているので毎年1回は泥上げをしなくちゃいけない。泥上げするのに半日かかるんですけど、大変なので結局水を入れるのはやめようかなという話が今出ています。空池にするような形。池の形はそのままで、水はないという形にするかもしれないです。昔は人が沢山いたりしましたが、池の泥も人力でまず水を汲みだすんです。今はポンプを使っています。でもポンプでも、朝5時に水を汲み上げて、8〜9時頃から泥上げを始めて、まあ午前中ぐらいで大体終わるんだけど、その作業が大変。水を抜く前には池の中の魚をまずあげなくちゃいけない。そんなこともあるので、大変だなということが今家族の中で話が出ています。これから先どうするか。やっぱり、その家の人の本当の努力でずっと長く住んでたりなんだりするということです。だからお金があるからどうのこうのではなくて、建物を維持していくのが大変だっていうことは皆さんにわかってもらいたいと思う。

庭園を望む縁側


ーーー家の大黒柱に欅を使用しているそうですが、大黒柱以外に欅を使用している場所はありますか?


欅のことね。書院造って分かります?日本の建物の造り方。床柱があって、床の間があって書院造という。書院造の脇のほうに欅が、使われています。あとは玄関だね。玄関にも欅のあがりかまちと欅の板が。建物を建てた昭和15年というのは、戦争が始まって、だんだん大変な時期なってきている時期だった。満州事変からはじまって、その時に結局みんな戦争、戦争という方向にいって物がない時代だった。だから、この建物を建てる時、釘を東京まで買いに行ったといいます。それから板とか柱とかも、大工さんがいろいろ苦労して、秋田に行ったり名古屋に行ったりして仕入れてきたという話を聞いています。物が豊富な時代ではない時に建てたから、そんなに良い材料は使っていない。先程言った欅の大黒柱は、結局この家が建ってたその前に、私のおじいちゃんとかそのお父さんとかが建てた家があって、そこに使っていた大黒柱を削ってこの家の大黒柱にしているんです。二代に渡ってこの柱があるっていうことはものすごいこと。200~300年前からの柱をそのまま使っている。再利用だけど、元の家の大黒柱をちゃんと取って、自分の新しい家の柱にしたという。それが自慢といえば自慢。

客間の仏壇の脇の大黒柱は、以前の建物から移築した 欅の柱


ーーー家での思い出を聞かせてください。


恥ずかしい話だけど、廊下の写真を撮った小さい頃の写真があります。その障子の下のほうが全部穴が開いてる、破られている。「これはあんた達がやったんだよ」と言って、今でもおばさんたちに言われ続けています。証拠が残っているから「やってない」なんて嘘をつけない。写真はちゃんと残っているから。

ーーー水について、飯豊山の伏流水を生活水として使用していたと聞きました。


そういう風に言うけど、この小田付でも東四ツ谷(ひがしよつや)地区は水が悪い。要するに地下水が悪い。昔から小田付とか、小田付の南側に並んで上高という部落があるんだけど、ちょっと南のほうに昔からの地名で井戸尻というところがある。井戸のお尻、ここまで行ってはダメですよっていう。昔からここは水が悪くて、金気水っていって鉄をものすごく含んでいる。だからこの辺で、冬場に地下水で消雪に散水の水が出ているけど、あれも地下水だから当然金気水が出るから道路が赤くなる。それだけ水がよくないので、昔は水をどうしていたかというと、ガチャガチャポンプで水を汲み上げて樽に入れる。普通の家に皆樽があった。樽のところに砂どうしという仕掛けがあって、そこに砂とか炭が入っていて、水を色々から引いて、最終的に一番下に濾過されて金気がとれた水が出てくる。だからこの家も樽がありました。水をポンプで樽に入れて、使う分だけガーっと汲んで、水がずーんと沈んできて、そこから金気がなくなった水を使っていました。家によっては、大きい1m20〜30cmぐらいの樽を屋根の上までポンプで水を上げて、そこからずーんと落としていました。それで、普通の家と同じく蛇口ひねれば水が出ていたっていう状態。だからそういう装置の家と、台所の横に樽を置いて水を出していたっていう家があるっていう記憶があります。皆さん必ず年に1回はその中の砂を全部出して、新しい砂とか砂利とか入れて炭とか入れ直してまた使えるようにしていました。井戸尻は、水については困ったところ。なので、喜多方の水道事業が始まった時に一番先にできたのはここなんです。

樽が家の台所の横にあったの。だからそこから水を汲んで、飲んだりしていました。普通の家は、みんな蛇口があったけどそうではなかった。昔の本当の話ね。自分が二十歳の頃だから50年ぐらい前に水道が通ったね。喜多方市で一番最初に水道が通ったっていうのは、ここの水が悪くて、だから最初に水道が整備されたということ。

ーーー池での子供の時の思い出は?


飲む水はみんな苦労していたけど、流れている水は、昔は本当に奇麗でした。池に鰻がいたり、ニジマスがいたりもしました。それから、水がだんだん悪くなって、今は農薬のほうもあんまり使われないけど、強い農薬が流れてきて鯉が死んだりして。水がものすごく悪くなった時期から比べると、今はそれほど悪くなクテ、少しは良くなってきている。下水が通れば、上流から流れている川の水は綺麗になると思う。要するに生活排水が入らなくなれば、水はおのずと綺麗になる。だから生活排水が入ってくると結局川の水が汚れるっていうのがその通りで、池の水も本当に酷かった時期もある。最近だとそれほど酷くない。年に3回か4回ぐらい池に入るところにある枡に砂が溜まるようになるので、それをとって、また水がちゃんと入ってくるようにするっていうようなそんな作業もあります。だから、家の管理も大変だなということです。私はもう70歳ですから、もうあと何年やれるか。池は、やっぱりかわいそうだけど、もう空池にするしかないかな。

お金を出して池の魚を買ったことはないけど、誰かが持ってきてくれた鯉とかが、以前は7〜8匹いたのだけど亡くなってきて、今鯉は3匹くらいかな。あとは自然に増えた鮒とか雑魚みたいなのが入っている。だからわざわざ増やすことはないです。川とつながっているから、川からくるのです。

ーーー子供のころはお祭りにも行かれていたのですか?


太鼓台に乗って、お祭りに参加した記憶はあります。私の父親が若い頃太鼓台の一番上に乗って、家に引いてある電線を持ち上げながら太鼓台が通ったというのが写真にあります。家の近所にお地蔵さまがあって、三本松というこの町内の端っこにあるのだけど、それが1年に1回だけ、こちらの町内に来て、おいわけ地蔵さんというお祭りをやって、賑わいがあったなという記憶があります。今も続いていて、町内の役員さん達が1年に1回、8月14、15日に町内の旧手代木自転車の前に広場があって、そこに建物を仮に建ててお地蔵さんをやって、2日間お祭りをするというお祭りがあります。8月10、11日は小田付の出雲神社のお祭りだし、8月の2、3日は小荒井の諏方神社のお祭りがあります。喜多方だけが昔からお祭りが2回、初市も2回となっている。町のつくりで、小田付村と小荒井村が一緒になって喜多方町になったので、お祭りもそのまま、初市もそのままちゃんと受け継いでいるということ。だから同じ町で年に2回お祭りがあって初市もあるっていうのが喜多方。塩川とか若松とか坂下には年に1回しかない。


ーーー昔は自宅に蔵があったのですか?


この建物を建てたときに、蔵も当然建てる予定でした。昔から喜多方は、40歳になったら蔵を建てるという言い伝えというか習わしがありました。この建物を私の祖父が建てましたが、当然祖父も蔵を建てるべく設計書をもらってきていました。私も見たことがあります 。ところが、この建物建てた当時、昭和15年でしょ。それから1年2年たって、昭和17〜18年と戦争が一番大変で日本が負けて。その時に蔵を建てるのはどうなのでしょうとなって、結局、その私の祖父の母親、ばあちゃんが「今は蔵は建てるな」ということで、結局蔵は作られなかった。私の子供のころはそこが畑になっていて、そのあと昭和32、3年かな。そのころに私の父が蔵を建てた。蔵といっても、そのころは鉄筋コンクリート蔵というのが流行っていて、木造の蔵ではなくて、鉄筋コンクリートの蔵を建てたの。今もそれが残っているのですが、鉄筋コンクリートの蔵は、流行したのだろうけど、しけるんですね、どうしても。木造の蔵とは違って、コンクリートの建物は湿気がすごくて、湿気で壁がカビだらけになったりして、もういろいろ大変。今、その蔵は部屋が3つ、2階に2部屋、下に1部屋あって、全部屋に断熱材を撒いて、それで今は使っています。だけど、コンクリート建物だから蓄熱といって熱が溜まる。断熱がよくないので、もうコンクリートのその温かさがずっと部屋までくる。夏は本当に暑いし、冬は寒い、そのコンクリートの建物が、今家にある蔵だね。でも、壊すわけにもいかないから。蔵はあるけど昔の蔵ではないし、昔から建っていたわけではない。そういえば昔の家を壊すときはどうだったのか。昔の家は、農家みたいな家で、大きい屋根の古い家だったのだけど、それを壊すときに蔵があったのかどうか聞いてなかった。庭があるほうは別の人の家を買ったという話を聞いた。2、3軒ぐらい買ったというということで、家が広くなった。そこは私の祖父がやりました。

建物ができてその後、塀だね。門構えの塀があって当然造ったんだけど、じいちゃんの話ではその塀がこの家よりも値段が高かったと。私もわからなかったけど、10年ぐらい前に大工さんが「あなたのうちの塀は節がないでしょ」と。節というのは木の丸い部分、枝があったりする。普通は必ず板というと節目がある。切っていくと節が必ず出てくる。ところが節がないというのはそれだけ吟味してつくったということ。だからよくよく見ると、家の塀は黒い板に節が1個もない。2枚だけ節があるところがあるのだけど、それは昔に車をぶつけて板が割れて、その当時ぶつけた人が補修してくれたんだけど、節がある板を使ったらしい。だから、私も知らなかったけど、そこなんだと思ってね。節がない板というのは大変値段が高かった。家よりも高かったとじいちゃんも言ってました。そのあと、庭ができたんだけど、じいちゃんが言うにはその庭に門がありますね。今見てる写真の奥のほうに五葉松という松がありますが、それは門をくぐってきた。もう今なんか、門をくぐれないほどでかくなっちゃった。

ーーー今後、若い世代に引き継いでほしいことはありますか?


じいちゃんが、自分の子どもたちに「なんかおかしくなったら、お前たち何とかしろよ」とそういうことを言っていたのは覚えています。この家をなくすなと、ここは昔からの家だから、伊関家だから、それをなくしちゃダメだということで。まあ、そんなのは言うだけで、なかなか生活が大変なのにみんながそんなできないけど、その気持ちだけね。じいちゃんが、ここの家を大事にしていたのはわかると思う。私はそれほど困ってはいないんだけど、やっぱり自分の建てた家だというのが、ずっとじいちゃんの気持ちにあったのだと思うね。

Presented by
みんなでつくろう小田付重伝建標識プロジェクト 2021
取材日時:令和3年9月9日(木)
取材協力:テクノアカデミー会津 観光プロデュース学科2年


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