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インタビュー vol.07:小田付まちのひと「昔の建物もですが、水を特に守っていきたいです」

重伝建に住むということはどういうことなのでしょうか。テクノアカデミー会津観光プロデュース学科の学生たちが重伝建にお住まいのみなさんに、建築・ 水路・ 小田付での思い出について伺いました。

東海林 伸夫さん
おたづき蔵通りの最北に位置する、北町にある老舗の酒蔵「夢心酒造」に生まれる。米は喜多方の契約農家さん、水は飯豊山の伏流水、酵母は県の「うつくしま夢酵母」、醸すのは、地元の職人という、「福島」にこだわった酒造りをしている。

ーーー古い建物のどのようなところが貴重なものだと思いますか?


小さい頃は目の前に蔵があって、当たり前なものだったけど、大人になって勉強すると、蔵一つ一つが貴重なものだと思います。例えば今、家を建てるとなると、一か月〜二か月で建てられると思うが、蔵は建てられない気がします。土を盛って乾燥させ、また土を盛って乾燥させ、なおかつ手できれいに窓際の型を取ったりするので、一つの蔵を建てるのに相当日数がかかってると思うんですよね。今から蔵を建てようとしても、もう建てられないかもしれない。

うちは酒蔵なので貯蔵の蔵がいっぱいあるんですよ。家や倉庫で使っている蔵から、酒造り、酒の貯蔵で使っている蔵まであり、大きくて古いです。明治初期くらいに作ったような蔵がいっぱいある。家で使っている蔵は2棟、全部で5~6棟くらいあります。

Zoomを使ってのインタビュー
インタビュアーは、テクノアカデミー会津 観光プロデュース学科2年生


ーーー子どもの頃の思い出を聞かせてください。


友達とキャッチボールをするんですが、友達がいないときは壁にボールを当てて遊んでいました。今、自分の子供がしていたいらやめろと言いますね。相当壁を崩しました。今思うとひどいことしたなと思っている。

あとは、酒蔵に遊びに行ったり、仕事の様子を見に行ったり、小さいころからしていました。「おじいちゃん、何やっているんだろう」という感じで見に行ってたので、そういう意味で遊び場というか散歩先のような感じ。蔵の中でお米を蒸したりするのですけど、蒸したお米を手でひねるとお餅ができる。それを食べに行っていました。粕はがしのお手伝いにも行っていました。家の中でみんなわさわさ動いていたので、興味本位で見に行っていました。

うちの裏に、水の神様がいる小さい池があってメダカがいたと思います。その界隈の小川でザリガニを取っていました。今もとれるのかもしれませんが、整備されて川では遊べませんので、今の子供は安全ですね。子どものころは、道路のわきの小川に入って遊んでいました。田付川ですと、昔の県立病院の跡地の近所に排水を流す工場があり、水が汚かったですが、上流はきれいだったので、そこに魚を捕りに行ったりしていました。きれいな水でした。

小田付には昔から商店がありました。駄菓子屋さんも何件かあったので楽しかったです。南町、北町の通り沿いに、酒屋があって、魚屋さんがあって、行くと誰かが声をかけてくれて「今日はどこ行くの?」とか、「早くかえっせよ~」いうことがありました。

ーーー蔵の中に昔のものが沢山しまってあるそうですがどんなものが?


お膳ですね。古い映画を見ると、宴会というと畳に座布団で座って、ひとりひとりお膳での食事のシーンがありますよね。そのお膳や、お椀、お皿ひとつひとつに家紋が入ってるんですよ。今でも、お彼岸とか仏壇にお膳を飾るので、そういう時だけ引っ張り出しています。なにかにつけて、蔵に昔から眠ってるもの、火鉢にしても何にしても家紋が入っています。東海林家ができて300年ちょっと、1700年頃、たぶん江戸時代から明治にかけてだと思います。財を成してきたのが明治からだと思うので、江戸末期から明治初期くらいのものではないかと思います。

ーーー夏祭りと初市の思い出を聞かせてください。


小田付エリアに同級生が、20人くらいいたんじゃないですかね。なので、楽しかったですよ。

小田付のお祭りが8月10、11日にあって、太鼓台が出て、小田付のまわりを練り歩くのが毎年、子供のころからの楽しみでした。小さい頃はただ引っ張るだけだったんですけど、小学校に入ると小太鼓や鐘をたたかせてもらったりしたので、太鼓台の後ろのほうで一緒に曲を鳴らしていました。夏祭りは、自分たちが太鼓台を引っ張ったりするので主催者側のイメージでした。出店に行ってみんなでわいわいする時間もなく、太鼓台を引っ張り演奏する側だったので、夕方の5時、6時に集会場に集まって、練り歩いて夜9時ごろに家に帰っていました。まち中をぐるぐる回って練り歩いて、2時間ぐらいみんなと一緒に演奏していて楽しかったです。小太鼓は人気があって、2つしかないので取り合いしながら交代で演奏していました。太鼓台は途中で飲み物やお菓子をもらった思い出があります。8月11日が夏休みのピークでした。昔から規制はありましたが、ちょっとくらい違反したところで周りの人に何か言われることはなく、怪我をしても自分の責任でした。今だと少しルールを外すこともダメで。良いことですが、今の若者はルールの中で遊んでいると感じます。私が子供のころは、ルールからギリギリ外れて遊んで、ルール+αでいました。

小田付の初市は1月17日で、出雲神社を中心に市がでていました。大人になった今は出雲神社に行ってお祈りしていますが、子供の頃は出店に行って食べ物を買って友達の家で食べていました。

ーーー水に味があり、おいしいと聞きましたが具体的に教えてください。


ぜひ、小田付のどこかで井戸水を飲んでみてください。井戸水と蛇口の水とコンビニの水と比べてみると、三種類の水の違いが判ります。水にも味があるのですけど、井戸水は柔らかいです。舌触りも違いますし、井戸水の面白いところが、取れるところで味が変わるところです。夢心と小原さんと東四ツ谷と、水源の土で味が変わると思います。子供のころは水道がなかったので井戸水でした。

小田付が重伝建になって、昔の建物もですが、水を特に守っていきたいです。水は無限ではないです。例えば、喜多方の地下水は飯豊連峰から流れてくるのですが、流れてくる途中に工場ができて、掘ってしまって、そこで水を汚してしまうと、下流の水は使えなくなってしまうのです。水は大切です。水道水も使えますが、日本で自然の水がきれいなところは中々ありませんし、日本全国に酒蔵さんが集まってあるところは、昔から水がきれいなところです。小田付も夢心と小原さんと井上さんのみそ蔵や、醤油を造っている星さんがあり、水を使う業種が何軒かあります。なので、昔から水がいい証拠ですので、それを守っていきたいです。建物なら壊れたら直せば再建しますが、水源の水は一度壊れてしまうと多分直せないので、水は守りたいです。

今、地下水の水量が減ってきています。うちは水を使う業種で、一気に使うと水の出が悪くなってしまうので、水道水と併用して使っていますが、もともと井戸水を使っているところで、水源である水が枯れてしまうと支障がきたしてきます。もし飲めなくなると、昔から飲んできたので悲しいです。無散水システムというのがあるのですが、道路の雪を積もらなくするために、井戸水を大量に使い、道路を温めて雪を解かすことです。このシステムを使うと、大量の水を使い、配管を通して水に戻しますが、配管に鉄分が含まれているので水をよごれてしまいます。小田付は、このシステムをやめて、必要な水しか使わないようにしています。無散水システムの時、小荒井地区の酒蔵さんでは水が出なくて困っていたました。水の質を落とさない前に、無散水システムをやめた小田付の判断はよかったと思います。


ーーー若い世代に引き継いでほしいものは?


特に古い町並みがあるので、若い世代にこの街並みを守るような取り組みをしてもらいたい。小田付出身の若い人に言うことは、「ぜひ戻ってきてください。」と。小田付に住んでいても、大人になり、どこかに家を建ててしまえば帰ってこなくなってしまいます。もし、家を一度出て行っても、最終的には戻ってきて、夏祭りも盛り上げてほしいです。夏祭りは子供がいなくて、運営も大変なんです。

人の数は以前の3分の2ぐらい。昔は町内で同学年が4~5人いましたが、今は学年で一人いるかいないかだと思います。お祭りをやろうと思うと、子供は4人しかいなかったですし、昔からいたおじちゃんやおばちゃんはいますが、その下の年齢の人がいません。ほかの町内も同じだと思います。

若い人たちに小田付に住んでほしいです。そして、何かに人が集まり、力を合わせて祭りや町内会に参加してほしい。高齢者が多いので、若い人がいれば子供も増えると思います。また、今は子供の声が聞こえないので、さびしいです。子供が多くなると、町が生きていると思いますし、子供の声が聞こえたほうが、安全で町内に目が届き、注意などもできると思います。人が多くなることで街が活性化にもつながると思います。


Presented by
みんなでつくろう小田付重伝建標識プロジェクト 2021
取材日時:令和3年8月26日(木)
取材協力:テクノアカデミー会津 観光プロデュース学科2年

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