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猫背はかっこいい

病院の名前で、苗字の後に記念病院って付いてるのがよくあるけど、何を記念に建てたのだろうか。設立した医者の『救った命の数、○○個突破記念』とか?まさか『救えなかった命の数○○個突破記念』なわけないだろうし。どうせポジティブな理由なんだろうけど何なんだろう。医者ってなるまでがめちゃ大変だから、『医者になれたよ記念』の可能性も全然あるな。そんでプライド高い奴は「いやいや、医者になれた程度で笑」つって記念してないんだろうな。

冷静に考えて欲しい。もし、この世にタイムマシンが存在し使用出来るならあなたはどうする?過去の自分に会いに行き、寄り良い未来へと変えるべく過去の自分に働きかけるのではないだろうか。ぼくならそうして億万長者を目指す。だが現実はタバコを買う金もろくにない。現在お金がないのは仕方の無いことであるが、未来の自分もお金持ちになれていないだろう。なにせぼくにまだぼくが会いに来ていないのだから。あなたもずっとあなたのまま生きていくんだ。あなたの選択した通りの未来が待っているだけで、将来のあなたが今のあなたに後悔しようともその選択が変更されることはない。タイムマシンなんてないんだから。これが事実なんだよ。いっつも通りに生きてるだけ。つまりタイムマシンがないからなんにも変わらないの。タイムマシンがあればぼくが世界のために頑張って、もっと面白い世界を作ってやるもん。少なくともぼくが死ぬまでには出来上がらないんだよタイムマシンは。

掃除機ってもうちょい簡単な形に出来ないもんかって掃除する度に思う。コードレスとかハンディタイプのやつが主流になりつつあるけど、ハンディタイプと言いつつ大して小さくもないし、もっと小さく、且つもっと威力の凄まじいやつを安価で手に入れたい。ぼくに残されている幼稚園に入る前の唯一の記憶が、母親が掃除機をかけている風景なんだよね。今の家に越してくる前の借家で、ぼくは掃除機のゴミを貯めるタイヤの付いてるあの部分に乗って操縦してたんだよ。こっちゴミあるよーとかこっち行きたいとか言って操縦してた。こういう、タイヤが付いてるし乗るのにちょうどいいサイズだなという思考からやってみようとなるみたいなのが好きなんだよね。これって言わばモノボケ的なテンションだと思うんだけど、今も「これってこうやって遊べそう」とか想像するのが好き。

大学の帰りに、田んぼに鴉が大量発生してた。一面が田んぼみたいなところなんだけど、その一部分にだけ鴉が大量にいて、道路もトコトコ歩いてやがるからスピード落として轢かないように気を付けてた。なんか、鳥ってあんなに種類豊富なの不思議に思えた。羽根が生えてるってだけでも大層な進化を遂げてるのに、孔雀やフラミンゴは羽根の色味が綺麗だったり、ダチョウはめちゃ足が速かったりとさ、羽根以外にも個性があるの卑怯だって。でも、ぼくは人間だからこうやって色んなこと考えられるし、それはあいつらには出来ない芸当なのは間違いないからね。ぼくはあいつらの羽根を羨ましいなって思ってるけど、あいつらはぼくを羨ましいと思うことが出来ないんだ。綺麗で空を飛べる羽根を持っている鳥と、羨ましがることの出来るぼく。どっちの方が幸せかな?

懐かしいという感覚って、今まで頑張って生きてきたからこそ得られるものなわけだから、大事にしたいなって思う。小学生の頃に見たYouTubeの動画が急におすすめに流れてきたりして、「あれ、こんなだったっけ?似てるけど違うやつなのかな?」とか「今見るとあんま面白くないな」みたいなのってすっごく楽しくなる。『ボブとブーブーズ』ってアニメを幼少期にめちゃ見てて、DVDも10本以上家にあったんだよ。それをなんかのタイミングの時にたまたま見て、OPの曲を頭の中で全部歌えてびっくりした。懐かしさを感じるってのはなんだか心が晴れるような気持ち良さがあるから好き。

猫背ってかっこいいと思うんだ。一見、陰湿さや根暗な感じがするけども、それもイマドキ風に言えばナードとも言えるんじゃないかな。服装ばっかりのナードなんてのはフェイクで、いくら美少女アニメを観てようが、いくらオタク臭いファッションをしていようが本物のナードには勝てないんだよ。猫背には取っ付きやすさと言うか、親しみやすさみたいなものもあると思う。カッコつけていない自然体さのかっこよさがある。ぼくは猫背が似合う。正しい姿勢と言われる姿勢をしてもむしろ不格好に見えて、良い姿勢をしようとしてるな感があって無様だ。猫背はぼくの本来の姿勢であるかの如く様になっている。

人ってそう簡単に変われない。変わろうとすること自体が一瞬の思いつきに過ぎない事もあるし、変化しようってのは本来の自分に嘘をつく行為であると言えると思うから、大変なのは明白だ。こうなりたいという理想形みたいなのは誰しもにあるのだろうが、そう思えてるのならそれに向かっていく気持ちがあるためまだしも、こうなるのが正解なのだろうなという形に無理になろうとするのは一苦労であろう。ぼくも己への理想はあるし、他人への理想もある。自分の理想のためにぼくは頑張りたいと思えるが、他人が結果的にぼくの思うようにならなくとも別に構わない。その程度の意識なのだなと失望はするが、大した意義も見出すことが出来ないのであればお手上げだ。

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