月と女優|ショートショート

「明日からムーンウッドへの移動ですが、準備はできていますか?」

佐々木は、尋ねた。鏡を覗き込んでいたアリサは、顔も上げずに「んー」とあいまいな音で返事をした。佐々木は長いマネージャー経験から、イエスの意味だと理解した。

トム・クルーズが初めて宇宙での映画撮影をしてからもう十年以上が経つ。いわゆる「宇宙ロケ」は、はじめこそハリウッドの独壇場だったが、一般旅行客向けのサービスが拡大するにつれて、より気軽に可能になった。早乙女アリサのような日本の若手女優にも、「ムーンウッド」と呼ばれる月面のスタジオでの撮影が入るまでになったのだ。


アリサは、月での撮影のために、約三ヶ月間のトレーニングをした。ホテルからスタジオまで移動する際に使用する宇宙服の着用練習、月の重力での移動や物の取り扱い方の微重力訓練、閉所に慣れるために三日ほどホテルに閉じこもったり、緊急時対応訓練もあった。

「明日は十時に宇宙空港に集合です。フライトは十四時です。到着は時差も入れて三日後となります。到着の次の日にムーンウッドで監督と顔合わせ……」
「月に行くのに、なんで時差があるわけ?」
「ムーンウッドはアメリカがつくったからですよ。」

佐々木は、アリサの注意を引いているうちに、急いで重要な情報を付け加えた。

「それと、前にも言いましたが、今度の監督は極度の秘密主義者で、台本は月でしか渡さないそうです。到着後、一週間は向こうの環境に慣れるためにトレーニングと台本を覚える期間です。撮影は二週間の予定と聞いています。」
「はいはい。『前にも言いました』は余計でしょ。でも、タイトルも筋書きもなんにも教えてくれないって不親切よね。」
「とにかく、私は今から空港へ向かって、今日の深夜の便で一足早く行きますから。顔合わせの日に、向こうのホテルに迎えにいきます。では。」

アリサは「了解」と手を振った。ドアを閉める間際に、佐々木はアリサの顔に、興奮と僅かな不安を読み取った。


五日後、佐々木は緊張した面持ちで月面ホテルに向かっていた。昨日到着してすぐに、ムーンウッドの撮影現場を見に行った。撮影の内容を知り、愕然とした。スタジオを見たらアリサはどう思うだろうか。そう考えると、自然と足取りも重くなった。

「フライトはどうでした?」
佐々木は月面車の車内で尋ねた。

「訓練と同じ。でも窓の外の景色は最高だった。」
宇宙服で表情は見えなかったが、声からは高揚が伝わってくる。

「着きました。スタジオこっちです。」建物に入り、ヘルメットを脱ぎながら案内する。
スタジオのドアを開ける。そこに広がる光景を目にして、アリサは息をのんだ。そこには、江戸時代の町屋が軒を連ねていた。


「今回は、宇宙初の時代劇だそうです。」
 

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