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エイプリルフールを忘れて

瞬く間に、時が過ぎた。

4月が始まったばかりだというのに、もうすでに疲労感でいっぱいだ。
一週間くらい過ぎたような体感とは裏腹に、まだ4月2日。

気付けば、嘘をつく暇もなく、エイプリルフールは過ぎた。

疲労は山積みで、体感は一瞬で、何が起きたのかはわからない。

子どもを初めての学童保育に送り届けて、職場に出勤して、新入職員の書類作りと患者さんの対応を行ったり来たりする。すると瞬きする間に午後になった。昼食をとり、午後の診療が始まると思えば、あっという間に終業時間になる。

何かを考える暇はなくて、やるべきことをやるだけの一日だった。

やるべきことをやるだけの一日というのは、ある意味では非常に楽だ。
いや、疲労感は間違いなくあり、身体的には負荷もあるので、楽ではない。
ある意味というのは、「考えること」を放棄するため、認知的負荷の側面で負荷が低いといえる。
人間は考える葦である、とどこかの哲学者が言ったように、僕らは考えることで人間であることを証明する。
考えないのであれば、命令を入力すれば動くロボットとも同じである。

だから、僕はあの日、ただの葦だった。いや、働いていたから、働く葦の方が正しい表現かもしれない。ただし、人間ではなかったのである。

朝起きて、仕事をして、帰って泥のように眠る。
あなたは、こんな生活を送っていないだろうか。

この生活を送っている人がすべて、何も考えていないと言っているのではない。ただ、何かを考える余裕もなく、忙殺されている人は多いのではないかと感じる。かくいう僕も、そういう経験は山のようにある。

この現象を作業療法士としての僕の知識でいうと、作業バランスが崩れている状態と表現できる。
作業バランスとは、一日に行っている行動のなかで、「やるべきこと(義務的な作業)」と「やりたいこと(願望的な作業)」の割合のことを言い、その人個人によって適切な割合は異なるため、他者が勝手に判断できることではない。
だけど、先に話した「朝起きて、仕事をして、帰って泥のように眠る。」という日は、明らかに義務的な作業ですべて埋められてしまっており、義務的作業が10割であることが " 適切 " な割合であることはありえない。なので、必然的に作業バランスが崩れていると判断できる。

こういう日は、誰にだってある。
こういう日は、時々、ある。

ただし、毎日が " こういう日 " だとしたら、注意が必要だ。

すぐさま外に出て、深呼吸をして、空を見上げてほしい。

空が滲んでいたら、なるべく近い日に、何もない予定のために休んでほしい。

その日だけは、あなたのためだけに使ってほしい。

エイプリルフールを忘れるほどに忙しかった昨日を思い起こして、筆を、いやキーボードに手を置きました。

どこかの誰かの、救いになれば。

suma



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