「廃」な写真は好きですか3 ちょっと旧い歴史を写真で残そう
はじめに
すこし前の休日、どこかでお昼でも食べようと、仙台駅ではない主要駅周辺をさまよって、込んでなくて手頃でうまそうな店を探したのですが、14時をまわっていたにもかかわらず目ぼしい店は人が入っていて、次の駅まであるいたらばったり飲食店がなくなり、ようやく*シローまで着いたら15時半なのに待ってる人がいて退散。昼食抜きになってしまい、たいした距離でもないのに足が上がらなくなり、通常の6割程度の速度でとぼとぼとようやくさっきの駅のバス停まで辿り着いたのでした。
いつも行く駅周辺とか繁華街行けば良かった…とは思ったのですが、しかし得てしてそういう街は人が多くて写真撮りにくいし、周囲をみまわしても新鮮な被写体をみつけだす視神経はダレきってしまい、バッグからカメラ取り出す気にもならない。
それにくらべれば、知らない街とまではいかなくても、あまり行かない、めったに降りない、ふだんは通らない道、そんな場所のほうが撮りたいという欲求と好奇心、探求心は強くなる気がします。
今回はそんな日常から近いのにある意味遠い場所で写した「廃」な写真をぽつぽつ上げてみます。いずれも仙台市内です。言わでもですが。
「交通安全のこけし塔」
かつて「交通安全のこけし塔」があった付近に残る民家の廃墟。
旧国鉄の線路を東西に跨ぐ跨線橋の間近にあったと思われますが、そんな近過去、1990年代から2000年代の街の歴史にはどこの自治体も冷淡なのか、再開発されると痕跡はおろか記憶さえも隠蔽しようとする傾向がありますよね。この家もいずれは拡幅工事であっけなく壊されて、なにもなかったことにされるのでしょう。
旧市街の古民家
こちらは上の2枚よりはずっと中心街に近いのですが。昔の家って2階家でも天地方向がぐっと低いのがわかりますね。大きなお邸に比べるとほとんど屋根裏、中二階サイズ。レンズを向けて気がついたのですが、背後の鉄筋アパートの最上階まで蔓草みたいなのが這い上がっているのがふぜいがあるといいうか、住人にとっては不気味か。
景観上は好ましくなくても
最後にこちらは近年開業した地下鉄駅ちかくなのですが、幹線道路沿いのお店の駐輪場がこんなに荒れ果てていたので。
そそくさと2枚写して立ち去ったのですが、ZUIKO50mmf1.4であまり絞らずにシャッター切ったらピントが甘い。
寒い日の疲れ目に一眼レフのピント合わせはきついときがある。
それにしてもこの放置状況、写真撮る側としてはいいですね。都市景観としてはよくないと排除されがちなのだが、その論理でいくと味のある建築もそこに付随するトマソンも、みんな例によってなかったことにされる。ささやかな抵抗として写真に残して、肉眼で記憶しておこうと思うわけなのです。
近過去の身近な歴史をフィルムで残そう
とかく歴史というとせいぜい昭和史どまり。平成初期だって30年以上前なのだから歴史がないとは言わせない、にしても。
わたしは昭和生まれだけど、中学卒業時には平成が始まっていたから、半分以上は平成時代を生きてきたわけです。平成が終わってから、もう元号なんて使わなくてもいいんじゃない?と思ったがそれはひとまず置いといて。
一般的な近現代史がカバーできているのは国家とか政府とか、いわば大きい単位でのできごとまでで、もっと生活に近いところで起きたこと、近くに存在したものの記録というのは、はっきり言うとなかったことにされる。
それに対峙するためには、個人の力が必要なのだと思いますが如何でしょう。
そのツールとして、写真は大変有効です。
できればHDDのクラッシュなどでいともかんたんに吹っ飛んでしまうデジタルデータではなく、フィルムに残しておくことをお勧めしたいのです。
必ずしも昔のプリントみたいなのが「フィルムらしい」とは思わないほうがいいと思います。フィルムの性能が上がっているので、レンズ次第では驚くほど精細で美しいことにがっかりされても残念ですので。いや逆か。フィルム写真の美しさに驚いてください。あくまでレンズ次第ではありますが、必ずしも高価なレンズである必要はありません。デジに比べると驚くほど種類も多く、かたちも機構もユニークで個性豊かだったりします。
そういう知識はあたまの隅に置いておくだけで良いので、見慣れた街が漂白される前にまずは撮ってみるといいでしょう。
楽しくなければ続きませんので、大義名分よりかはカメラ散歩をたのしんでもらえることを願っています。
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