「毒をもって毒を制す~ポイズン~」本編
○マンション・ダイニング(朝)
寝起きの慎吾(28)。
頭をかきながら、ダイニングに向かうと、半透明の人物(慎吾に似た
男)が、テーブルにつき、慎吾の朝食を勝手に食べている。
メニューは、味噌汁とごはんと焼き魚。
それが二人分。妻の陽菜(28)と、慎吾の分である。
慎吾「え、誰……?! どちらさまですか……?!」
流し台の前に立つ陽菜。
洗い物をしながら、背中を向けたきり、
陽菜「何言ってるの? 早くしないと会社遅刻しちゃうわよ」
慎吾「え、そこに、(おそるおそる)どちらさまですか……?」
陽菜「(腹立たし気に)だから、何寝ぼけてんのよ。さっさとしてよ。忙し
いんだから!」
慎吾「(妻の怒声に驚き)わかってるよ……。俺の朝メシ食ってるし……」
夢かと思い、何度も頬をつねってみるが、黙々と食べ続けるその男の
光景が、目の前に焼き付くのみである。
黙々と食べ続けてはいるが、料理はまったく減っていない。
慎吾は、徐々に胃が張ってくるのを感じる。
男は途端に食べるのをやめ、前方を見つめ出す。
瞬間、煙のように、霧散する。
慎吾「(呆然と)今日は、朝メシもういいや……」
陽菜「ったく、もう……!」
慎吾は、今見たことを全部忘れるように、洗面所に向かう。
スーツに着替え、手早く朝の支度を済ませる。
今日はゴミ出しの日だったので、無心に家中のゴミを集めて、家を出
る。
その間も、陽菜は流し台の前で、後ろを向いたきりである。
慎吾「行ってきます……」
玄関のドアを、やや乱暴に閉める。
〇エレベーター
エレベーターに乗り込もうとしたとき、ドアが閉まる寸前で、外から
すっと腕が伸びる。
陽菜が、背中を向けたきりのあの態勢で、弁当の包みを、慎吾の方に
突き出す。
陽菜「ったく、忘れてる……!」
慎吾「器械体操でも、やってたの……?!」
陽菜「早く受け取ってくれる? 疲れるの! 腕が!」
慎吾「(咄嗟に受け取る)ありがとう……」
陽菜「……」
慎吾「ありがとう……」
エレベーターが、ごーと閉まる。
慎吾「ありがとう……」
一階のボタンを押す。
○公園
午前中の外回りを終え、公園のベンチにぐったりと座る。
陽菜にもたされた弁当を広げると、固そうなごはんと、おかずのキン
ピラが、思い切り片側に寄っている。
慎吾「外回りも疲れるぜ……ぜー、ぜー(力なく、自分でエコーを作る)」
ふと、朝の出来事を思い出す。
慎吾「あれは、いったい何だったんだろうなァ……」
コンビニで買った野菜ジュースに、手探りでストローを指し、うやむ
やにすする。
食欲は失せており、ほとんど残した上で、弁当に蓋をする。
頭上を、無数の鳥が飛ぶ。
逆光でもないのに、長い影が伸びる。
墨汁に似た線が、飛行機雲のように、たなびくのを、ただ眺める。
○飲み屋街(夜)
仕事が終わると、同僚や後輩と飲み屋街をはしごする。
ふらふらと千鳥足で、完全に出来上がっている状態である。
慎吾「もっと飲もうぜえ。飲んじゃおうぜえ!」
後輩「もう、よしましょうよ……」
気弱そうな後輩(23)に、おいおいと詰め寄る。
上機嫌の同僚(28)と一緒に、
慎吾「いけるだろ! ジャンバルジャンにでも行こうぜ!」
後輩「どこですかそれ……。お店の名前ですか?」
同僚「おう、ジャンバルジャンに行こう!」
慎吾「ジャンバルジャン!」
同僚「ジャンバルジャン!」
肩を組み、激しく叫ぶ。
慎吾M「ジャンバルジャンなんて店、俺は知らない。口の中が切れたよう
に、苦い鉄の味がする。何故だろう。歓楽街の眩しい光に、溶けていくよ
うだ……」
同僚「ジャンバルジャン!」
慎吾「ジャンバルジャン!」
色とりどりのネオンが、会社員たちを染め上げる。
○マンション・ダイニング(朝)
翌朝、ひどい二日酔いで目が覚める。
おまけに今朝も半透明の男が、慎吾の朝食を勝手に食べているという
怪奇現象が続く。
まるで、空気でも食べているようである。
取り乱すことこそしなかったが、激しいため息をつくことで、半ば忘
れようと目を逸らす。
今朝のメニューは、味噌汁とごはんとハムエッグ。
心持ち、慎吾の分のハムエッグが焦げている。
陽菜は、相変わらず、流し台の前で、顔すら見せようとしない。
慎吾「(呆然と)今日も、朝メシいいや……」
陽菜「ったく、もう……!」
陽菜は、そう言いながらも、後ろ手に、水の入ったコップを渡す。
慎吾「あ、ありがとう……」
慎吾は、それを受け取り、ひと息に飲み干す。
おもむろにテーブルを振り返ると、あの男の存在をすっかり忘れてお
り、ハッと驚いてしまう。
恥ずかしそうに笑うが、陽菜はもちろん見ておらず、急激な寂しさに
包まれる。
陽菜が、弁当の包みを、ぐいと突き出す。
慎吾「器械体操でも、やってたの……?」
陽菜「そればっかり……」
慎吾「だって、すごい突き出すから……」
陽菜「そればっかり……」
慎吾「いやこれは、今初めて言ったし……」
陽菜「……」
弁当の包みを、受け取ると、代わりに飲み終えたコップを握らせる。
何だか、そこで、慎吾は、再び急激な寂しさに包まれる。
ごーと、まるでエレベーターの閉まる音が聞こえる。
○公園
午前中の外回りを終え、同僚と後輩と公園のベンチにぐったりと座
る。
慎吾以外、コンビニ弁当である。
同僚「良いよなあ。愛妻弁当」
後輩「羨ましい限りですよ」
慎吾の膝の上には、黄色くなったごはんと、漬け物が、独特の臭気を
あげている。
同僚「サフランライス……?」
慎吾「傷んだライス……」
同僚と後輩が、顔を見合わせ、何も見なかったことに決める。
慎吾「俺が作ると、まずいから……」
後輩「つまり、これは、先輩が作ったんですか……?」
慎吾「違う……。これは、妻が作ったやつ……。だけど、俺よりもひどくなっ
てる……」
同僚「奥さんって、プロの料理人だったよな?」
後輩「え、そうなんですか」
同僚「確か、フレンチだっけ」
慎吾「うん……現役の……」
同僚と後輩が、顔を見合わせ、何も聞かなかったことに決める。
慎吾「ははは……」
同僚「笑ってるよ」
後輩「笑ってますね。あ、そういえば、ジャンバルジャンって、貧しい職人
らしいですよ」
同僚「昨日、叫んでたやつか」
後輩「てっきりお店の名前かと思ったら、全然違うんで笑っちゃいました。
昔の世界文学に出てくる貧しい職人だそうです。テレビのクイズ番組で見
ました」
慎吾「言葉のノリで言っただけ……」
同僚「え?」
後輩「何ですか?」
慎吾「言葉のノリで……」
後輩「飲んで、忘れましょうよ!」
同僚「飲んでも、忘れられねェよ……」
後輩「胃が荒れると、肌も荒れるらしいですよ」
同僚「へえ。そうなんだ」
後輩「はい」
いっせいに、鳥が飛び立つ、
三人は同時に目で追うが、空に滲んで、はっきりしない。
○マンション・ダイニング(朝)
翌朝も、亡霊のような男が、慎吾の朝食を勝手に食べており、もはや
驚きはしないが、青ざめる。
今朝のメニューは、真っ黒に焦げたトーストと、こぼれまくったコー
ンポタージュスープ。
陽菜の朝食は、綺麗にあつらえられている。
慎吾の朝食は、食べられるのか判定に迷う汚さである。
しかし、あの男は、躊躇なく、コーンポタージュスープに口をつけ
る。
ところが、途端に喉をかきむしり、苦しみ出したかと思うと、テーブ
ルに伏せ、動かなくなってしまう。
うごめく音の渦が、室内を満たす。
無機質な音の波が、鳴りやまない。
慎吾は、陽菜のコーンポタージュスープのカップと、そのカップとを
即座にすり替える。
陽菜は、流し台の前で、後ろを向いたきり、ぼそりと呟く。
陽菜「私も、見えてるの……」
慎吾「へ……?」
慎吾の指に付いたコーンポタージュスープが、ぽたりと床に落ちる。
陽菜は、さらに声をひそめ、
陽菜「自分に似たものを、自分で始末するなんて、とうてい出来そうにない
じゃない……」
やや、間を開けてから、
陽菜「ありがとう……」
慎吾は、ぞわりと身震いする。
それから、
慎吾「どういたしまして……」
と答える。
陽菜の背中に、戦慄が走る。
陽菜に似た半透明の女が、倒れた男の向かい合わせ、そのテーブル
で、ふっと現れたかと思うと、ばたりとテーブルに伏せ、動かなくな
る。
陽菜M「料理を作る間、私は旅に出る。どこでもない道を歩いている。誰か
の指で夢を見ている。料理を作る間、私は旅に出る。現実では、想像もつ
かないことが巻き起こっていたりする。そして、巻き込まれていたりす
る」
茶色い小瓶を、後ろ手で差し出す。
(了)
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