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『Little House on the Prairie』を読んで

邦題『大草原の小さな家』。あまりにも名作過ぎて、読んだことがなくても名前くらいはなんと書くきいたことがある、という方も多いかもしれません。僕がまさにそうでした。


実は先週の火曜日にはこの本を読み終えていました。ただ、ちょうどその頃からアメリカでにわかに激しさを増しつつあったGeorge Floydさんの抗議デモの様子をポッドキャストで聞くにつけ、あまり簡単にこの本について述べたりするのはちょっとよしておこう、と思った次第です。

けれどまぁ、あれから一週間ほどが過ぎて事件の様子や背景なんかも随分クリアになったので、今こうしてちょっとここに雑感も含めて書き記しておこうと思います。

とても読みやすい英語

さてこの本ですが、ネイティブの小学生が読む本ですので、基本的にそんなに難しいわけではありません。実際にネイティブのアメリカ人が文法を学ぶ際に用いると言われているくらいシンプルな英語で書かれていて(ソースは忘れました)、英検2級から準一級以上、TOEIC700点台くらいから読み進められると思います(800点クラスの方が「多読用書籍」として用いるのがベストなレベル感だと思います)

本書は19世紀後半のアメリカを描いた、著者であるLaura Ingalls Wilderの半自叙伝的作品です。つまりちょっと昔の英語で書かれているわけで、文法こそ現代のものとさして違いはありませんが、使われている単語に若干現代英語では馴染みが薄いものが含まれています。

アメリカの西部開拓時代のお話です。主人公の家族が移動に用いる幌馬車、そこで用いる馬具、各種工具や大草原に生息する日本ではお目にかかることのほぼあり得ないアメリカの野生動物の英語名などは、なんぼ英検一級の僕でも知りません。

なので他の書籍と比べて辞書を引く回数は格段に増えますが、そんなのは別に気にしなくていいことです。よく、辞書をひくことに軽い罪悪感を覚える方がいらして、多分 未知の単語との遭遇→自分の語彙力の低さ→自分の英語力の足りなさ→この本は、果たして自分のレベルにあってるんだろうか?みたいな思考プロセスを経て凹まれたりするんですが、この本に関しては葬儀屋さんに勤めていない日本語ネイティブの方が、お経の種類や呼称に馴染みが薄いのと同じ現象なので、別に気にする必要はないです。

(でも、実にこの辺を気にされる方が多いです。「単語がわからない」にもいろんなグラデーションがある、ということをうっかり見過ごしてしまうせいで、変に英語が辛くなったりされています。知らない単語は、知る必要が生じた時に自然と覚えるというのが、単語習得における骨法です)

そんなわけなので、気にせずこの美しい文学的表現で書かれたシンプルな英語を味わってください。

でも、ちょっとまってください。

繰り返しますが、本書はとても美しい英語で書かれています。もちろん文学作品なので審美的な基準は完全に個人の趣味嗜好に属します。こういう英語が反吐が出るほど嫌いだ、という方もいるかもとは思いますが、僕は個人的に「美しいなぁ」と思いながら、読み始めた当初は、この世界的名作に原作で触れることができる幸せを噛み締めていました。

しかしながら、この美しさの中にたまに見え隠れする「現代人の感覚からするとちょっとNGなのでは…」が次第に目につくようになり、この小説の真善美を短絡的に評価してしまうことを留保するようになりました(そしてそれ以降は読むのがちょっと苦痛になりました)。

詳述は避けますが、この本はおそらく、今全米を席巻している「白人至上主義」の立場から見るとたいそう美しい、まさにあるべきアメリカの姿が書かれた小説、ということになると思います。

反対に、ネイティブ・インディアンやマイノリティの立場から見ると、本書は人種差別的な表現に溢れた本、ということにもなりうるんです。特に、この家族の母親がインディアンの容姿や生活スタイルに言及する時の言葉には、明らかに侮蔑や嘲笑のニュアンスが含まれています。

とはいえ、ではこの著者であるLaura Ingalls Wilderが人種差別主義者か、と言われればむしろ事実はその逆でしょう。同時代人としての彼女は当時としては出来うる限りの最大限の注意深さで、本書を書いていると言えそうです。事実彼女は大変なインテリであったようでもあります。

本書の中でも、著者自身であると思われる女の子はどちらかと言うとインディアンに好意的ですらあるわけで、少なくとも、著者の意図としては、この本がある種の差別やステレオタイプを助長する目的で書かれたものではない、ということは容易に見て取ることができます。

過去と現在が共存する国・アメリカ

突然ですが、僕は2017年の春、ルート66をシカゴから3週間ほどかけてカリフォルニアまで横断しました。(その時の様子はこちら↓)

ウィスコンシンーカンザスー(今話題の)ミネソターサウスダコタと旅をしたインガルス一家と違い、僕たちはイリノイからミズーリーオクラホマ・・・と彼らからは随分南にそれた道をひた走ったわけですが、それでも西へ西へと向かい、見渡す限りなにもない風景は、おそらくそんなには違わないだろうと思っています。

アメリカという国は、行ったことがある方はご存知だと思いますが、東京クラスの街(州都)があって、そこを外れると、あとは延々と「大草原の小さな家」のような、見渡す限りほとんどなにもない、という景色が延々と何百キロも続く、という国です。東京を出たら次は名古屋までなにもない。建物のない、人もいない。山さえもなくて、ただ平原。ざっくりとそんな感じをイメージしていただくといいでしょう。

これは日本という森林が7割をも占める島国に住んでいる私たちにはにわかに想像しがたいものです。(北海道とかはこれに近いものがあるのかもしれないけれど)。

このことは、アメリカ人がこの「大草原の〜」をある種のイデアとして読む時に抱くであろう心象を想像するための手助けになると思います。

つまり彼らが生活する「アメリカ」とは、超大国アメリカ合衆国の50の街のすぐとなりに、大草原の小さな家の時代のむき出しの自然が隣り合わせで併存している国である、ということです。

公民権運動が始まるはるか前の1800年代半ば、マイノリティであるインディアンを西へ西へと追いやっていくことで、アメリカという国家を立ち上げていったその土地の記憶が、手つかずのまま、むき出しで残っている、ということです。

アメリカ人の帰る場所

史上初の黒人大統領となったバラク・オバマ氏が就任演説で「Founding Fathers」についてエモーショナルに思いを馳せたその8年後に、白人至上主義者であるドナルド・トランプが「Make America Great Again」(偉大なアメリカをもう一度)を掲げて大統領に当選する。アメリカというのはそういう国です。

つまりは右も左も、同じ『大草原の小さな家』の時代をある種の理想郷の一つ、つまり「戻るべき場所」として語る。それがアメリカという国のレジリエンスの高さでもあり、病んでいる部分でもあるんだろうな、と思います。

その時代を「懐古的」に振り返るというのではなく、文字通り、今と地続きのものとして「あの時代のアメリカを!」というのは、それが消したい過去に彩られているものであればあるほど、目をそらしたい部分をトラウマティックなものとして無意識のうちに抑圧せざるを得ないのでしょう。

それが錯綜したメッセージとして、ある種の病態として表出してきたのが、今回のGeorge Floyd氏の死をめぐるアメリカの混乱である、といってしまえるほど僕はナイーブはないけれど、アレクセイ・トクヴィルが「アメリカン・デモクラシー」を書いたときから、ある意味ではずっと変わらず今に至っているんだろうな、という気はします。

白人至上主義を擁護する文脈、白人至上主義に対する批判的な文脈、どちらからでも読むことができる、というのがこの『大草原の小さな家』に対する一般的な評価のようで、現にこの本を学習教材として取り扱うか否かについて、本国アメリカでも長い議論があったようですが(こちら)、このシンプルで美しい文体とストーリーを持つ本書から受け取ってしまうメッセージ性には、少しだけ注意を払うのがいいような気がしています。

そういうイデオロギッシュないろいろを少しだけ脇に置いて、純粋にこの本を楽しむことができるのであれば、多読教材として、学習教材として、極めてクオリティの高い一冊である、そんな風に思います。

(あとここに「フェミニズム的な価値観」を交えて語りえる文脈がありそうなのですが、あまりにも長い話になりそうですので、やめておきます)


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