【原監督に学びたい」常勝軍団を作るマネジメントの鉄則とは?

巨人の原辰徳監督。福岡県の三池工業高校を1965年夏の甲子園で初優勝に導き、翌年からは、今でこそ常勝軍団であるが、当時無名校だった神奈川県の東海大相模高校の監督に就任。
70年の夏。就任わずか4で年同校を初優勝に導くなど、その後甲子園通算17勝を挙げた。高校野球にとどまらず、東海大野球部の監督にも就任。首都大学リーグ7連覇。貢氏の転勤に合わせ。58年に福岡県大牟田市で生まれた原も神奈川へ転居。

74年、貢が監督を務める東海大相模の野球部へ入部。
野球部入部の直前、原は貢とこんな約束を交わしたのだった。
その約束を交わすことによって、チームの団結力や調和を保とうとした貢の考えだった。その名監督のアイデアとは…


息子に対し一番厳しく接すること

貢「他の選手と五分五分の力だったら、お前は補欠だ。お前が6で他が4でも、オレはお前を補欠にするだろう。お前が7の力を蓄えて、初めてオレはどうするか考える」。
つまり貢は、「息子だから」という理由でえこひいきする気など一切なく、それどころか、部員の誰よりも一番厳しく接することを原に通告した。

まだ中学を卒業したばかりの原は父の言葉に臆することなく、「大丈夫」と返したが、実際に入学すると想像を絶するものだったという。


チームの団結力を上げるアイデア

サードのレギュラーを狙う原に対し、ホームから5メートル先のところで思い切りノックされた。さらに「グローブをはずせ」と素手で硬球を捕球する練習も続いた。体中あざだらけでしまいには記憶まで吹き飛んでしまい、気がついたときにはベンチで横に寝かされていたこともあったという。

親子である関係を懐疑的に見ていた先輩や同級生たちも、あまりの厳しさに同情。「お前はいいよな。オヤジが監督で」といったひがみの言葉を浴びたことは、高校3年間で一度もなかった。

身内であるからこそ厳しく接した結果、「チームの和」を保つことができた。「息子にあそこまで厳しくやっているんだから、オレたちが練習で手を抜くわけにはいけない」という緊張感がチームに好影響をもたらしたのだ。

原は貢の指導の下で1年生の夏、2年生の春夏、3年生の夏と4度の甲子園に出場。2年生春には「4番・サード」として準優勝に導いた。

この教えは現在も引き継がれており原辰徳が菅野智之に厳しく接する理由になっていたのだ。「身内であればあるほど、厳しく接しなければ、チームの統率はとれない」。

ネガティブ思考にならない方法

「布団の中で考え事はしない」。
これは貢氏が実践していることでした。

2001年秋、巨人の監督に初めて就任することが決まった原。
その時、父貢からこう言われたという。

「監督になって、これまで以上に考え事が増えてくるだろう。そんなときは部屋の電気をつけて、イスに座って考えなさい。布団の中で枕に頭をつけて考えるな」。

当初、原はいったい何のことだか理解できていなかった。だが、シーズンが始まると、貢の言葉の真意を即座に理解したという。

負けが込んでくると、夜、さまざまな状況が浮かんでは消える。
寝ようと思っても、つい試合のことを振り返ってしまうのだ。

そこで貢の言葉をはたと思い出し、部屋を明るくしてイスに座って考えてみた。すると、真っ暗ななかで枕に頭をつけているときは、ネガティブなことばかり想像していたのだが、部屋を明るくしてから同じことを考え直すと、「負けが込んだことぐらい、どうってことはない。それよりも明日からベストを尽くそうじゃないか」と頭を切り替えることができたそうだ。

夜に考え事をすると、ああでもない、こうでもないと結論がなかなか出ずに、気づけば不安が増大していたという経験をしたことのある人は多いはずだ。貢が原にあえてこのことをアドバイスしたのは、貢自身が同じ経験をしていたからに違いない。

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