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第十五話・私と芸術

私は小さい頃から、基本的に、キレイなものが好き だった。お絵描きが得意だと、幼稚園の頃から思っていた。(自己評価w)小学校低学年の時は、ピカピカと輝く、四大宝石を擬人化して作文を書いたくらい、それくらい、キレイなもので語れるのであった。カテゴリーも幅広く、キレイだなと思うものは何でも良かった。

だから、私の逃げ場は、キレイなもの 楽しいもの 好きなもの だった。というか、今でもそれはあまり変わってないかな?だから、こんなテキサスの田舎で何にもないところで我慢できるんだと思う。

小学生の頃に、隣のうちの子のピアノレッスンの様子を聴くのが好きで、両親に私もピアノが習いたいと言ったことがあった。けど、いつもの様に、父がちゃんと働かないので家には金がない。そんなわけで、母親にうやむやにされた。フィギヤスケートも同じくだった。


春のテキサスはとてもキレイ。

そんな私は、キレイなもので、思春期を乗り越えたのだった。まあ、普通って言えば普通かもしれない。けど、同じ、キレイカテゴリーでも、恋愛にはあんまり興味なく、ジャニーズがなんであんなに人気なのか?って理解不可だった。笑

母が、音楽好きで、もともと家には沢山レコードがあった。しかも、母の好きなジャンルは、私が好きなジャンルの幅を広げるような、ラテン音楽とかだったりした。そんな母は、朝からラジオをつけっぱなしで家事をする人で、日曜日になると、その時に流行ってた、洋楽ロックなんかも聞こえてきた。

やっぱり、私が初めて洋楽で衝撃を受けた曲って、クィーンのキラークィーンで、この話をすると、息子も同じく衝撃を受けたと言ってるから、フレディーってやっぱり凄いのよね、と思ったりする。

そんな感じで、休み日の朝、母のラジオから流れて来る、洋楽カウントダウンを聞くが好きだった。もちろん、小学校の5年生くらいまでは、岩崎宏美の下敷き持っていたし、山中湖で、天地真理ちゃんに握手して貰ったりと、日本国内の歌謡曲も好きだった。けど、たのきんトリオが流行るころには、国内歌謡曲に興味がなかったし、みんなが話してる事を、ほぼほぼ知らなかった。笑 ドラマにも興味がなく、流行りのテレビドラマを見た覚えがあまりない。

皆に合わせるために、明星 という雑誌を買ってネタを仕入れたりしてたくらい。本当は、そこに付録でくっついてくる、洋楽の歌詞が載ってる歌本目当てだったりした。笑 中学に上がるころには、聴く音楽は、洋楽ロックやポップス限定だった。

初めて買ったアルバムは、アバのアライバルだったと思うわ。中学入ってすぐかそれくらい。しばらくはアバが大好きだったかな。その後、親が離婚するまでは、音楽すら聴く気にならなくって、しばらくお休みしてたけど、埼玉に引っ越してすぐくらいに、弟が持ってきた、YMOの、OMIYAGE(写真集)に嵌ってしまって、スネークマンショーやビックリハウス、グラフィックデザイン等に興味が湧いてきて、こんなにおもろい世界があるんだ!と、一瞬だけウキウキな気分にしてくれる、これは何?と深堀していった。

それと同時に、埼玉に引っ越して間もない頃、母の事をたまに思い出して悲しくなるのを紛らわせるために、ラジオから流れて来る洋楽番組を毎回聞いていた。新聞でプログラムを調べて、チューニングして、父から貰った、家具調ステレオ(笑)で聞いていた。

埼玉の家の、私の部屋は6畳洋間。家具調ステレオが入る場所なんかない。なので、その部屋に付いてる押入れが、家具調ステレオの居場所になった。笑 ちょっと説明するけど、家具調ステレオっていうのは、ステレオ本体とスピーカーが木目のボックスの中に納まっていて、かなり大きなサイズのブロックで、見た目が家具っぽいものの事を言う。

それで、はじめは、FM横浜なんかを聞いていて故郷を懐かしみ、そのうちFEN(すべて米語よ)を聞いていたと思う。とにかく、それがないと、アウェイ な気持ちに押しつぶされそうになるので、学校から帰ってくると、ラジオを聞きながら、私の心は、現実から離れた空間を彷徨っていた。

それくらい、埼玉の風景や何もかもが、私には受け入れられなかった。空気が全く違う そんな感じ。ドイツとアメリカが全く違うのと同じ。笑 (ドイツの方が自分らしい)

高校生に上がるころに、イギリスの音楽に興味を持ち、当時流行ってた、ニューロマンティックにめっちゃハマった。笑 私は、第一次デュラニーズDuran Duranが大好きで、即ファーストアルバムを買いに行った。それと同時に、ミュージックライフ等の雑誌を買ってきて情報を仕入れていた。

そんな私だって、埼玉の高校に慣れる努力したのだった。初来日のコンサートで買った、Duran Duranのモノトーン写真のグラフィックTシャツを学校の部活(ハンドボール部)に着て部活に出たら、中学からの同級生女子に、何それ!みんな男前じゃん!って言われて、開いた口がふさがらなかった。笑笑 

知らないんだよね、みんな。って悲しくなったのを覚えてる。ww この人たち、本当に高校生?って思ったものだった。

とにかく、私の場合、音楽と雑誌とコンサート が青春の思い出という感じで、普通の子みたいに、部活やカッコいい先輩 というのは、全くと言っていいほど興味がなかった気がする。笑 

こんな感じで、家の中のゴタゴタから、一瞬の間、逃避できる場所が、音楽であり、雑誌であり、都会に外出だったり、コンサートへ行く事だった。

私は、東京のあの大都会っぽさが好きだった。横浜の丘の上から見える新宿の高層ビル群を見て、いつかあそこに行って、生きる!って大都会宣言を心の中でしたくらい。それくらい、都会の雰囲気が好きだった。だから、この前行ったNYCも心地よかった。都会のあの感じが好き。

それでも、東京に住みたいと思ったことは一度もないのだ。祖母の家が東京にあり、毎夏、祖母の家に遊びに行く度、母が、東京は暑い!と文句を言っていたからだと思う。笑 確かに、今でも蒸し暑さは世界一なんじゃないかと思うくらい暑いよね?

そんなこんなで、日本人妻の、夢の赴任地、東京の大使館 は、私にとっては、どうでもよかったこと。大阪神戸の領事館の方が私にはピッタリだったかな。笑 子供達も第二の故郷は横浜でなく、西宮らしいので、それも興味深いよね。笑

話を戻す。高校時代友達はいたけれど、ジャニーズとかあんなのが好きな子しか周りに居なくって、もういいや と思って、そこには触れず、友達をしてた。私と趣味の話が出来そうな子が一人もいなかったのだった。田舎に引っ越すってこういう事なのかな?って思って、やっぱり公立高校じゃなく、東京のバカ校でも良かったのかもしれないと、本気で思っていた。それくらい、家でも学校でも、アウェイ だった。

ここには私の居場所なんかないんだと諦めて、休みの日に、気が向くとふらっと、一人で、上野、銀座、原宿に出たりしていた。東武伊勢崎線沿線は結構便利なのよね。それだけが救いだったかも。w

上野は、祖母との思い出がたくさん詰まってるし、洋服も売ってる。銀座はソニープラザで新しいモノを物色できる。原宿は最新ファッションが見れる。と、田舎でのフラストレーションを解消するのに、都会への脱出は最高に役に立った。こうやって、私自身の内面をバランシングアウトするのに、絶対的な効き目があったのだった。

私は、外側に向かって自分自身の内面を語らなかった。それより、一人で楽しめる方法を生み出す方が私らしいと思っているから、友達と一緒に行動せずに一人で自分の世界を作ってバランスを保っていた

なので、私の事を詳しく理解してた、中高の時代の友達は、一人もいないと思う。別に理解されたいと思ったことがなかった。理解できないのが解っていたからかもしれない。

進路決定の時期が来て、グラフィックデザインを学びたいので、専門学校へ進学したいのだけど と、高校2年生の時から、父に話してはいたものの、3年に入ってから、うちには金がないので無理だ と言われた。もう、どうでもいい と思ったのはその時。

そして、最終の成績表を見て、笑った。卒業するころには、下から数えた方が早いランクまで、落ちていた。これが私の人生か って。笑 まさに、街録chの 笑える絶望 だった。笑

続く














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