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第二話・私の母の問題

第一話を読んでない人は↑から読んでね。

写真の赤ん坊は私。横に居るのが私の母。見ても分かるように、外国のテレビドラマに出てきそうな、素敵なお母さん みたいな外見だったのだ。笑 鼻の高さが日本人離れしていて、私も良く、ハーフ?って聞かれることがあった。けど、私は100%日本人なのだ。遺伝子キットで調べた結果、私は100%日本人と言う結果が出た。と言う事は母も日本人。私自身もコレには驚いた。


私も可愛かったけどw
母もベッピンさんだった

母は九州の出身で、母が中学2年生の時に父親を事故で亡くし、高校生の時に母親を亡くした為、高校を中退し働き始めたと言っていた。母の母の結婚はややこしい結婚で、母の父だった人は、元旦那の弟か何かで、田舎では陰口叩かれるような結婚だったらしい。因みに母の兄と母は父親が違うと言っていた。下の妹たちだけが、再婚して父になった人の子供らしい。母親の訳あり結婚の為、父親の親戚達からは、実子である妹たちと、自分たちの差別化が酷かったという事だった。(本人曰く)

母もその事があるので、自分は母親を尊敬できない って言っていた。そんな複雑な事情で、親戚からの不公平な扱いに耐えられなくなって故郷を出たと言っていた。私が21歳になった時、横浜の母の暮らすアパートに居候していた時にこの話を聞いた。母は昔の事を話したがらない人だった。

若い時、はじめは、神戸、その後、東京に出て来て、洋品店で働いていたと聞いている。その母に、ストーカーの様に付きまとって、結婚してくれとせがんだのが父。笑 母は、あまり乗り気じゃなかったそうだが、勤め先の店主に、「あなたもご両親がいない事だし、早く結婚したほうがいいよ。」と言われ、結婚したらしい。

父と結婚してから、横浜で暮らすようになり、私が生まれた年に、父は勤め先の会社の社長から会社を譲り受けて社長になった。重機をレンタルする小さな会社だった。

私が生まれた病院は、今はもうないのだけど、JR東神奈川駅の近くにあった、神奈川県立母子センター と言う所。私が生まれてすぐは、相鉄線の三ツ境駅の近くに住んでいた。そこでしばらく暮らしてから、例の神社近くの借家での暮らしを経て、私が小学校に上がる前(多分5歳、6歳)に、父の会社の3階建てのオフィスビルディングの最上階に居住できるスペースがあって、そこに暮らすことになった。


三ツ境駅の近くの家で
めっちゃレトロ!w

相鉄線沿線の駅のすぐ近くで、線路を挟んで反対側の空き地から、会社の屋上で洗濯物を干す母に向かって、大きな声で、「おかーさーん!」って叫んだら、母が手を振ってくれた。それを、私は面白がって見ていたのを思い出す。母は目が悪いので、手を振るまでに時間がかかった。笑 建物のすぐ横を国道が通ってる、交通の便が良い忙しい所にそのビルはあった。でも、今はそのビルディングも会社もない。

何故なら、私が7歳の時に父の会社は倒産したから。父が人に騙されたという話になっているけど、詳しくはよく知らない。が、なんでも、重機を貸した先の会社の人が、貸した重機ごと行方不明になったという事。数少ない重機を盗まれてしまって、会社がうまく運営できなかったと私は理解している。

母曰く、女に気を取られて会社運営が上手くできなかったんだろう と言っていた。このころくらいか、それかもっと前から、父は女癖の悪い人 だったそうだ。会社では、父の兄弟も一緒に仕事をしてたので、父の弟に「姉さん知らないのかよ?」って言われて、はじめて、会社の女性社員と不倫していると知ったらしい。

会社が倒産してしまって、父も、浮気どころじゃなくなり、私たち家族が生きていくために、同じ市内でまた引っ越しをした。せっかくオフィスの上と言えども、自分の家があったのに、また借家に引っ越すことになった。

母が精神的に病みだしたのは、父の浮気が発覚したころだったように思う。が、後に人に聞いて知ったのだが、私たち家族が例の神社近くの借家に住んでいた時から、母の飲酒の問題はあった様だった。この話は後詳しく話すとしよう。この話もかなり面白いから。笑

父にも褒められるところはあって、働き者だし、手先が器用だし、頭もいい人だった。そんな父は、しばらく家族を養うために、とび職をやっていた。母は、父の着てるとび職用の服を凄く嫌がってた。あんな仕事。。。みたいな感じで毛嫌いしていたのだった。土方みたいなカッコ って言ってバカにしていた。

そのくらいから、喧嘩が益々、ヒートアップした気がする。母は、社長夫人から、いきなり、日雇い男の妻だものね。分かる気もするけど、まあ、そんなときもあるよなって私は思ってた。

私は、学校が大好きで、他の子供達と走り回ってる時が一番幸せだった。母だけが不機嫌で、不機嫌になると、隠れて酒を飲むようになったのだった。これが、母の問題なのだけど、随分、我が儘な母親だな って皆思うだろう。私も大人になるまではそう思っていた。

でも、どこか腑に落ちないところがあって、母のアルコールの問題は病的だったのだ。昨日まで普通にしていた母が、突然、大量に酒を飲み昼間っから寝ている。そうなると、数週間同じ様な日が続き、挙句、見かねた父が母に暴力をふるい、それが始まると、私たちの気分も落ち込む。そしてしばらくすると落ち着き、またもとの生活に戻る。その繰り返しだった。

なので、学校が唯一の逃げ場だったところがあり、それで学校が好きになった。ご理解いただけると思う。笑 弟たちはどうだったのだろう?特に下の弟は生まれたばかりで、これだったからなぁ。可哀想だったな。

私たち、子供が、父から虐待されることはなかったが、父と母の夫婦喧嘩による精神的な虐待を受けていたと言えると思う。母がそのように昼間から酒を飲み始めると。ああ、また始まる。と心配でしょうがなかったのを覚えている。

しかし、先ほど言った様に不可解なのは、熱りが冷めると、徐々に普通に戻っていく様子が分かるのだった。いつもの明るくって楽しいお母さんに戻るのだった。夏休み中など、毎日弟たちの為に花火を買ってきて一緒に花火をしてくれる、楽しいお母さんだった。

ある時、私は「私、近所の双子の女の子に虐められてるみたい。一緒に遊んでくれないし、嫌だ!って言ってんのに、やれって言うんだ。」 と、母に言うと、その双子の女の子に直接会いに行き、何故弱いものを虐めるのか?と言って、そんなに悔しければ、この腕を嚙んでみろ!と言って、女の子に自分の腕を噛ませたことがある。笑 その女の子も母の腕を噛んで、その後大泣きした。

さすがに私もその展開にびっくりしたけど。コレ、本当にあった話。なんで噛ませた?って今でも笑ってしまう。何処かぶっ飛んでて正義心溢れる母親だったのだ。母に、聞いたところによると、母は子供の頃から、弱い者いじめが大嫌いだったらしい。近所の悪ガキ相手に、よく戦ったと自慢していた。

そんな母なのに、突然の気分の落ち込みによる飲酒 が私には理解できなかったし、父も、父の親戚も理解不可だった。一時期精神科へ行く行かないという話をしていたのだが、当時の日本で精神科へ行くのを拒む人は沢山いただろう。一度通院するだけでキチガイ扱いされるから。結局精神科の受診はなかったように思う。

そして、そんな母が近所の方と何かあったらしく、父もそこに居づらくなったからか、私が小学校5年生の時に、市内の他の区にまた引っ越しをした。もちろん、お金がないので、またしても借家。でも新築の借家だった。最近グーグルマップで行ってみたら、まだあったけど、かなり老朽していた。そりゃそうだ。(40年以上前)

父の親戚一同から、ああしたらどうか?こうしたらどうか?といろいろ言われて、その家に引っ越した時には、とうとう、父方の祖母の妹まで出て来て、私たちに、成長の家の夏合宿に誘った。笑 中目黒の大叔母さんは熱心な信者だった。ついに宗教のお世話になるのか?という感じだったが、しばらくはそれ(宗教)で少し落ち着いたように思う。

が、一瞬の落ち着きはどこへ?夫婦喧嘩がもっと暴力的になり、一度など、プロレスの試合の様に父が弟の学習机の椅子を母の頭に直撃させた。私は恐怖に慄き、泣いて喧嘩の仲裁をした。頭を切って血だらけの母にタオルを持って行き、すぐ薬局に薬を買いに行った。その薬局の人に症状を話して、これは小さな傷ならいいけど、大きな傷は病院に行った方がいいよって言われた。けど、一応試してみます と言って急いで家に帰った。私が小学生高学年、その時、2人の弟は9歳、6歳くらいか?本当に思い出しただけでも嫌になる。そして私は自分で言うのもなんだけど、とても弟思いな姉だったので、弟たちがとても心配だった。

しかしだ、怒りが爆発して、コイツのせいだ!コイツが全て悪いんだ!って思っても、子供の目の前で、子供たちの母親をこんなに傷めつけられる父が理解不可だった。悲しいのを通り越して呆れて何も言えなかった。普段はあまり話さない人で無口だけど、父はキレ易い性格なのだった。しかも酒も飲まないでキレる。

母も母なら、父も父。毎回事あるごとに暴力的な大ゲンカをする、そんな凶暴な父と、気が狂ってる母は、自分たちの苦しみをバケツの水の様にぶち撒くのだけど、そんな両親がいる家で生きていかなければならない私たちの方が、よっぽど大変だと子供心に思った。

そう、中学に上がるころは、怒りより呆れ だったように思う。なので、中三の夏休みが始まる前に、父から、母と父が離婚することになって、父は埼玉に家を買ったので、どちらについていきたいか??と聞かれ、私は、ホッとしたのだった。ああ、これで解放される!ってね。

けど、今までの人生で、一つ修正したいところはどこ?って聞かれたら、離婚後は母と一緒に横浜に残って暮らせばよかった、母のサポートをしながら、一緒に頑張って乗り越えるというのをやってみたかった。と後悔してる。私は、父に言った。兄弟バラバラが嫌なので(弟達が心配だったから)3人の面倒が経済的に見れるのは父だろうと、その様に説明し、父についていった。まあ、これが私の人生において一番の後悔だろう。

私が人に私の子供時代の事を余り話なくなかった理由は、ひとえに、

話が長いのよ!ってところだと思う。笑

説明を細かくしないと理解不可な話で終わってしまうから。そして、いまだ母の病気は何だったのかが私には分からない。もし、母の病名がわかる方がいらしたら、遠慮なくコメントを残して欲しいと思う。

過去にも仲が良かった人たちに、母の問題って何が原因なのだろう?と聞いた事は何回かある。私の年配の友達でアメリカ人の女性は、戦争が原因なのかもというし、私のドイツで友達になった日本人の友達は、幼い時の性的虐待かなにかが理由なんじゃないの?言っていた。

どれも、マッチしてない気がして、原因が他にあるはずと思ってる。長年母の友達だった人は、我の強さ も関係あると言っていた。それも納得。

さあ、コメントをどんどんして欲しい。死ぬまでに納得したい、不可解な事なのだ。(本人は真剣)

長くなってしまった!ここまで読んでくれてありがとう。

続く(続くんだよ!これがw)











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