手紙


19歳の夏、半年航海実習へ行く友人を励ます手紙を書きました。
その子は船乗りさんになって、その船では初の、女性船長になることを目指していました。
去年の3月、最後に会った時、その手紙を今も財布に入れていることが判明しました。今も読み返す時あるよって言ってくれました。普通に照れたけど、嬉しかった。

その子は高専時代だけじゃなく、ホテル時代も、言葉だけじゃなく、行動にうつして私を励ましてくれるような人でした。

その時、本当に苦しい状況にいる人を救うには、行動にうつさないとだめなんだと知りました。言葉だけじゃ、だめなんだと。

社会人一年目、自分はなんてだめなんだと思っていた頃も、二年目、日々自分に絶望していたときも、富山に帰ってアルバイトを始めた時も、いつの時代も私を肯定し深い優しさで包み込み、どんな私のこともオッケーしてくれました。

私が自由に表現することを許してくれ、いつも居場所を作ってくれていました。


彼女といえば、特殊な船の社会とルールの中、男性ばかりの職場でも、女性船長になるという夢を常に抱きながら仕事を頑張り、二等航海士になりました。

去年、彼女の色味である紫と私の好きな色である青色をかけあわせたドライフラワーをお花屋さんで作ってもらって、新潟に渡しに行きました。
以来ずっと、アパートの玄関に飾ってくれていたようです。

先日、見知らぬアカウントの方からメッセージが届いていました。見てみると、彼女の、妹さんでした。メッセージを見るなり私は、取り乱し、ベッドに顔を埋めて、声を挙げてとめどなく溢れる涙をシーツでぬぐいました。彼女こそ、日々、絶望していたのでしょう。遠すぎる道のりに。

彼女の気力体力時間、彼女の人生全てを捧げて追いかけても、昔描いた夢には全然近づけないという事実に。自分1人の力では到底変えられそうにない、独特な仕組みや長年の伝統に。そして帰るという選択肢だって、あっただろうけれども選択はしないだろう、彼女のプライドが彼女を許さないでしょう。

その訃報と一緒に送られてきた妹さんの電話番号に電話をかけました。

声が、似ていた。非常にそっくりだった。
寝起きの彼女の声に。

え、、、

彼女と、また話せてるんじゃないかと思いました。
それで私、涙が溢れました。そしたらあちらも泣いています。彼女じゃなく、やっぱり、彼女の妹さんだった。

それから暇さえあれば、いや、ほぼ毎分、彼女のことを考えて、どこから出ているのか自分でもわからない泣声をあげたり、手で顔を覆ったりして、彼女とはもう会えない未来を受け入れようとしてはいますが、当分の間はこの悲しみとともに生きることになるのでしょう。同い年の、心通う、互いを尊敬し合い励まし合える、大切な存在を私は、失くしたようです。

そう文面にしてはいますが、まだ、実感としては、ないのです。
これからもっと、この事実を痛感する場面がくるのでしょう。
しんどいとき。励ましてほしいとき。彼女に肯定されたいとき。なにもかも疲れたとき。
そういう時。
私は、そういう時がこないように
自分を常に鼓舞し続けるか、自分に甘く生きるか、
はたまた彼女が言ってくれたように、
好きなことしながらにやにやして生きるか、
そういう方法じゃないと、きっと私の身はもたないでしょう。

もう本当、脳がいかれそうや。
涙は枯れそうにない。結局日付またげばまたその日分の涙がちゃんと出てくる。
底のない悲しみの沼とはこういうことかと、顔を覆いながら感じました。

このことが私にこれからどう影響を与えるのか、わかりません。
ただ、大きな、大きな、影響であることはわかります。
まずは彼女が乗っていた船に、乗りに行きたい。彼女が仕事中毎日みていた景色を、見たい。彼女を感じたい。
それからじゃないときっと私は前に進むことなんてできないだろう。

なぜ生前、行かなかったの。ことばだけじゃだめなんだよ、ちゃんと生きてるうちに行動に移さないと、相手に伝えられないのに。




お通夜の後、お焼香あげにいけたとき、お母様がお手紙の話をしてくださり、その手紙を見せてくださいました。最期の時も、彼女のそばにその手紙があったそうです。

19歳の私が当時、書けることを詰め込んだ、2枚のルーズリーフを、彼女は何度も読んでくれたのだろう、しなしなになっていました。ルーズリーフ越しに彼女と手を交わしたかのような感覚も、たしかに、ありました。

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