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表現の自由戦士は、表現の自由戦士ではない。

えー今から書くことはタイトル通りのことです。
表現の自由戦士は、表現の自由戦士ではないということです。

「は?」

と思った貴方、今からその訳を言います。

表現の自由戦士とは、表現の自由を主張している人々を指して作られた言葉です。
Twitterでそう呼ばれています。
しかし、Twitterでそう呼ばれている人々の主張を見ると、彼らはどうも表現の自由を主張しているわけではないみたいです。

何故か。

例えば宇崎ちゃんの献血ポスターの問題。
これ、表現の自由の問題ではありません。
どういうことか。
それは、宇崎ちゃんの献血ポスターの問題が、「どちらの表現が相応しいか」という問題だからです。
決して、「表現をするべきか否か」という問題ではないということです。
もし後者なら、献血のポスターを作るべきなのかどうか、という問題になっていたと思います。

宇崎ちゃんのポスターの不自然な胸の表現や扇情的な表情を咎める人たちは、「表現物なんて作るな」と言っているわけではありません。
「不自然な胸の表現やめろ」「扇情的な表情やめろ」と言っているわけです。
これはつまり、「別の表現に差し替えろ」と言っているわけです。
この瞬間この問題は一気に表現の自由の問題ではないことが分かります。
何故なら別の表現も当然表現の自由によって守られるべき対象だからです。
つまり、ここで争われているのは表現の自由で守られるかどうか、ということではないことが分かります。


献血ポスターを作って何かしらを表現しようとした時点で、既に表現の自由は守られているのです。
宇崎ちゃんポスターの問題などは、その前提で、どちらの表現がより相応しいか、を争っている問題ということになります。
同じ事は宇崎ちゃんポスター以外の問題にも言えることでしょう。

お気付きかもしれませんが、表現の自由が問われるような話など、あまり見られる話ではないことがお分かりになられるのではないでしょうか。

北朝鮮は例えば書店で恋物語の出版などを禁じているらしいですし、これは表現の自由の問題と言えるんじゃないでしょうか。

国を跨いでしまいましたから、しかも北朝鮮の話をしてしまいましたから、本当の表現の自由問題とはあまり頻繁に見られる事例ではないことは何となく感じてもらえるかもしれません。

では以上より、表現の自由戦士は表現の自由戦士ではない。

Q.E.D 証明終了でした。

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