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働き方改革とネガティブな関係性

#先生死ぬかも

 というタグで教員の労働環境の改善を訴えようという動きが先日あった。

 この件について、僕はいくつか批判的なツイートをした。

 僕が引っかかったのは、「死ぬかも」というワードのチョイスである。

 品がない。もっと他に言葉はあったのではないかと思う。

 生徒や保護者の前でその言葉で言えるのだろうか。自分の顔と名前が出ている中で、その言葉を公にして何かを訴えようとするだろうか。結局、そうした部分で、Twitterというプラットフォームの手軽さと匿名性によりかかった、そういう手段しかとれない、そのレベルの熱量なのである。

 ただ、あくまで手段としての、言葉の選択を批判しただけであり、労働環境の改善を求める声をあげるな、という話ではないことを念のため書いておく。(まあ、それにしても労働環境は文科省に訴えるより、職場で訴えるほうが遥かに有効だろうが…)

 今回の一件から僕なりに考えるところがあったので書く。


ネガティブな関係性

 Twitterでバズりやすいのはネガティブなツイート、というのを以前にどこかで目にしたことがある。

 実際、心理学的にも、人が仲間意識を持ちやすいのは「ポジティブな共感」ではなく「ネガティブな共感」であるらしい。

 「ドラクエめっちゃくそ面白いよねー!!!!」よりも、

 「旦那が全然子どもと遊ばなくて…マジで使えねー」という共感の方が仲間意識が芽生えやすい、ということだそうだ。

 これは学級でもいえる。

 そう、最も極端な例が「いじめ」である。

 「あいつ最近調子こいてるよな」といったネガティブな共感から、強い仲間意識が生じ、その仲間と共に越えてはいけない一線を越えてしまう。

 今回のタグは、労働環境の改善というポジティブな目的がありつつも、実際には「行政などへの腹立たしさ」というネガティブな感情による共感から、冷静でいれば選択しないであろう言葉を使った人がいただろうと思う。

 子どもに対してネットリテラシーを説く我々だが、教員であっても、一時の感情、共鳴してくれる仲間の存在、そして匿名性が合わさると周りが見えなくなる瞬間があるのだということかもしれない。

 

 すでにわかりきっていることだが、このネガティブな関係性というのは、いわば「共通の敵」をつくることによって成り立っているものであり、長くは続かない。


すでに「先生は忙しい」という世論はできあがっている

 教員の多忙。

 僕が教員になった時と比べて、保護者懇談で「先生お忙しいですよね」「先生方、本当に大変ですね」と言われる頻度が格段に上がった。

 テレビやネットニュースなどのメディアの情報を見ても、すでに「先生は忙しい」という世論は完成していると考えていいだろう。

 ここで教員の主体性のなさが露呈するわけだが、「世論ができあがっている」ことと「労働環境が改善される」というのは、そもそも関係の無いことである。

 「世論をつくる」→「文科省が(自治体が)環境を改善してくれる」

 という想定をしているのだろうが、この考え自体に環境改善が進まない原因があるいえる。

 要は「他人が動くことを期待している」のであるが、他人は動かない。他人は思い通りに動かせない。

 多忙感に重ねて「あいつら動かねえ…」という腹立たしさをも抱えてしまった人は、もう最悪の心境だと思うし、いたたまれない。

 だからこそ、もう一度自分にできることを考えたいところだ。生徒に対して「主体性」を求めるのがわれわれ教師だ。誰かにやってもらうことを期待するのではなく、自分ができることを考えていくのである。


 労働環境というのは、思っている以上に管理職に決定権がある。

 部活に関すること、分掌に関すること、研修に関すること、出張に関すること、行事に関すること。などなど。法定研修などは別だが、これらを決めているのは基本的に学校長である。

 したがって、無駄な仕事があったら、「この仕事は勤務時間外になってしまっていますし、教育効果も低いのでやめましょう」と校長に訴えればいい。あるいは、「この出張のおかげで学校に残る先生が少なくなってキツいので出張をなくしてください」と訴えればいい。Twitterでタグ遊びに興じる前に、できることは沢山ある。

 もし、理不尽なことを校長に言われたら、委員会に電話すればいいだけである。管理職が話にならなかったら委員会に話をする。そのための委員会なのだから。もし勇気がなかったら、匿名の電話か手紙で委員会に訴えればいい。


働き方改革はポジティブな関係性で実現する

 本当の意味で働き方改革が実現し、労働環境が改善するまでの道は険しいと思う。

 だからこそ、働き方改革というのはネガティブな関係性では実現できないのではないかと思う。

 ネガティブな関係性というのは、弱い人間が集まって生まれるものだから。弱い人間が「共通の敵」をつくり、歪んだ仲間意識をもつ。しかし、その仲間とやらは、少しつつかれると散り散りになってしまうほどの繋がりしかないし、1人1人も自立していない。

 それでは労働環境の改善までは辿り着けないのではないかと思う。

 教員集団だけではない。日本的な組織の構造すべてに言えることだ。前例踏襲、暗黙のルールが山ほどある集団で、これまでと異なる価値観ややり方を導入するという時に、1人1人が弱かったら実現などできるわけがないのである。

 教員ができる働き方改革は、勤務校を改革することからだと思う。現場では、改革側は常に少数派だ。本気で環境を改善したかったら、大きな熱量でまずは「自分からできることをやっていく」のが筋ではないかと思う。そこから、もしかしたら共鳴してくれる仲間が現れるかもしれない。少数派の自分に共鳴してくれる人。それは本物の仲間だ。そこでポジティブな未来を共有し、ポジティブな関係性を築いていく。それが本当の仲間だ。

 数個の文字列を指で打つだけで仲間になれる、環境が改善する、と思う人は、そうすればいい。

 でも、Twitterでなら声をあげられるのに、職場で何も言わない、やっていない人っていうのは、そこまで環境を改善したくないんだと僕は思う。そこまでの熱量がないから、行動に繋がらないんだと思う。

 僕は僕のやり方で環境改善を行っていく。

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