「叱らない教育」とその具体

 今回は、下の以前のツイートが思いのほかいいねRTを頂き、「叱らない」ということへの皆さんの関心が高いのかなー、と思うとともに、「叱らずに教育する」ということを誤解したり、違和感を感じている人がいるかもしれない、と推測しました。今回はこれについて書いていこうかな、と思います。



「叱る」「叱らない」「褒める」「褒めない」は本質ではない

 まず最初に明言しておきますと。

 「叱る・叱らない・褒める・褒めないとかどうでもいい」

と。僕は心からこう思っています。

 なぜかというと、こうした議論には、

 「叱って育てると子どもはAになる」

 「叱らずに育てると子どもはBになる」

 「褒めて育てると子どもはCになる」

 といった、「○○をすると子どもは△△になる」という、普通に考えておかしいだろうという考え方が基盤にあるからです。しかも、その「△△」の先にあるのは、大人にとって都合の良い子どもの姿です。

 子どもを育てる、というより、子どもと共に育っていく時に大切なのは何か、ということを考えると、叱るとか褒めるとかじゃないな、というところに辿りつくと思います。本質ではないですよね、そこは。

 だって、両親に褒めまくられているけど自信がなさそうな子はいるし、めちゃくちゃよく叱られているけど、めちゃくちゃ明るい子って普通にいますよね。

 人は、褒めたらこうなる、叱ったらこうなる、ではないということです。そこに褒めるかどうか、叱るかどうかに問題や議論の的をもっていくと、楽しいかもしれませんが、それは的が外れており、まさにパーキンソンの凡俗法則(いわゆる自転車置き場の議論)の指摘する穴に落ちるのかな、というところです。登りたい山と違う山を登ってしまっている感じです。


僕にとっての「叱らない教育」のよさ

 ただ、「叱らない」とか、アドラーでいう「褒めも叱りもしない」といったワードは入ってくるので、僕なりに「叱らない教育」というのを考えてみたのです。(ちなみに、アドラー心理学は非常に面白いと思いますし、納得するところもありますが、僕はアドレリアンではありません)

 僕は中学校の教員ですが、「先生って全然怒りませんね(叱りませんね)」ということを、今年度も何度か生徒に言われたことがあります。

 その通り、僕が叱ることはほとんどありませんでした。それはなぜかというと、生徒たちが叱られるような言動をしないから、ということに尽きます。これが「叱らない教育」のすべてかな、といってもいいかもしれません。職員室で「今日も落ち着かなかった」と言われるような子たちも、僕の授業では不適応行動はあまりやりません。だから叱らずに済むのです。誤解してほしくないのは、「叱るべき言動に対しては普通に叱る」ということです。これは僕も他の先生も変わりません。

 「叱らない教育」批判には、「公園で一緒に遊んでいる友達を叩いたのに、親が叱りもせず、謝らせもせず、許せない!」といったものがあります。

 そ り ゃ 腹 立 つ わ

 ですよね。当たり前です。ありえません。人に危害を加えているのに、叱られもせず、謝ることも教えられないのです。叩かれた子もそうですが、それ以上に叩いた子がかわいそうだと思います。悲しい教育です。それは「叱らない教育」を誤解した結果かもしれません。

 「叱らない」というのは、「子どもの自尊心をいたずらに傷つけない」ということに意味があるのです。大切なのは”いたずらに”です。そうでなければ、普通に注意したり、叱ったり、場合によっては教えてあげることが必要なのです。子どもが人を傷つけているのに叱らない、というのは、長い目で見てその子の自尊心を傷つけていると僕は思います。その子は、教えてもらえば「人を叩いてはいけない」ということを理解できるはずなのに、叱らない・教えないというのは、大人がその子の心を低く見積もっているからに他なりません。

 「叱られる」ことによって、やっぱりどんな人も少しくらいは(´・ω・`)ショボーンとします(たまに例外もいますが)。叱られてすぐは落ち込むこともありますが、大抵の人は、時間が経つことで立ち直り、リスタートすることができます。しかし、毎日のように叱られていたらどうでしょうか。その子は自尊心を低下させ、「自分には価値がない」と思うようになるかもしれません。その結果、適切でない方法で自分の存在をアピールする(授業妨害など)ようになるかもしれません。つまり、人は、

 ①叱られ続ける

→②自尊心が低下・「自分なんて…」という思いが生じる

→③自分の存在の証明のために、道を外れたところでのアピールを始める

 というプロセスを経て、言動を悪化させていくのです。非行に走る子たちの多くもこのプロセスを辿ります。

 さて、ここで大切なのは、「問題行動は二次障害である」という視点に立つことです。

 要は、上のプロセスの①があることによって③に到達するのです。

 初めから問題行動を起こす子はいません。

 よく「落ち着きがない」といわれるADHDの子も、そのほかの発達障害の子も含めて、「問題行動を起こす」という特性をもった子など1人もいません。問題行動は二次障害で起こるのです。つまり、周りの不適切な関わり方によって、問題行動が生じる。

 という視点が大切なのです。

 したがって、①の「叱られ続ける」を消去することで、問題行動は減っていくことになります。

 これが、僕の考える「叱らない教育」のよさです。


叱らなければいけない状況にしない

 ということで、「叱らなければいけない状況にしない」ということなのですが、これは簡単に言えば、「ユニバーサルデザインのための環境調整」だと思っています。

 教師という存在は、様々な子を相手にします。そんなときに、ルールや決まりでがんじがらめにすると、注意や叱責をする場面が増えます。雰囲気が悪くなります。そうしたことがまわりまわって自分をも苦しめることになります。もちろん、自分や他者の命や人権に関わることは、しっかりと対応しなければなりませんが、その他諸々の、学校でよくあるルールは、一度考え直してみて、多様な子どもたちが過ごしやすいように設定し直す必要があります。

 以下にいくつか僕の考え方を書いておきます。

・授業中の立ち歩きがある(特に多動な子がいる場合)

 これは、立ち歩くことによって「誰が困るのか」ということをまず考えます。僕ははっきり言って気になりません。しかし、教室の中には、何かが動くことによってそちらに注意が逸れる子や、「勝手に立っちゃいけない」というこだわりを持った子も居て、実は配慮しなければいけないものです。僕の場合は、「ノートを書いた人は持ってくる」とか、「教室内で全体交流」とか、立って行う活動を授業に取り入れることでクリアすることが多いです。多動な子には、身体を動かすことによって落ち着く子がいるので、「合法的に立ち歩かせる」という時間を取ります。


・ペアやグループ活動の際に、授業と関係ない話をしてしまう子がいる

 これは、ペアやグループ活動をしなければいいですね。


・場面緘黙の子が発言をしない。当てられても喋らない。

 その子が発言しなければいけない場面を作らない、ということが大切です。叱らなくても、そういう場面で喋れなかった、という経験が自尊心の低下に繋がります。別のところで自信を育む関わりをするほうが賢明です。


・教室に置いてあるモノを子どもが壊した。

 はい。そうです。モノを置かなければ壊れません!


・掲示物の写真に落書き、画びょうが人の顔に刺されている…

 写真を掲示しなければ大丈夫です。


 このように、こちらが環境を調整することによって起こさずに済む不適応行動は、できる限りその環境をつくり、叱らなければいけない状況をつくらない、ということが極めて大切だと考えます。


人は思っている以上に環境に影響を受けている

 ユニバーサルデザイン、ということで、教室の全面には掲示物を最小限にする、という考え方があります。これは、何に意識を向けるか、ということを自分でコントロールできにくい子(ADHDの子に多い)に対する配慮です。自分の視界に入った様々なものに注意が飛んでいってしまうのです。

 そうでなくとも、私たちはスマホなどの「インターネットに接続された機器」が近くにあるだけで集中力が激減するそうです。かくいう僕も、読書をしようと思っているのに、ついスマホを見てしまい30分が経過していた、なんてことがよくあります。こうした事態を防ぐにはどうしたらいいのでしょうか?

 そうです。ネットのない環境に身を置けばいいのです。これが自然な考えだと思います。

 「環境に関わらずにちゃんと行動できる、意志の強い子に育てなければいけない」と言って、環境を整えることに抵抗感を示す人もいるのですが、僕はこの考えとは異なる立場です。

 環境に影響されずに行動できる人間が、果たしてどれだけいるのか。環境に影響される度合いにも個人差があるでしょう。そんな中で、環境のおかげで注意・叱責され自己肯定感を下げてしまわないようにすることの方が、意志力を磨くことよりも大切なのではないでしょうか。それだけで、叱ることよりも褒める可能性が高まり、反抗・非行などの二次障害に向かう可能性を抑えることができるのです。


不適応行動への最高最強の予防策は「授業」

 ここまで書いてきましたが、実は文部科学省はこのnoteに書いてあるようなことにすでに言及しています。

 はい。積極的生徒指導です。

 簡単に言うと、生徒指導は「予防」に尽きる、ということです。

 何かが起こってから「事実確認」をし、「指導」し、「保護者へ連絡する」というのが生徒指導だと思われている方もいましょう。しかし、これだけではなく、「問題行動を起こさない」というのも生徒指導なのです。しかも、こっちのほうが100万倍くらい強力です。

 考えてもみて下さい。難しい子ほど、「指導」が入らなくないですか?難しい子ほど、行動改善をしないのではないですか?

 つまり、問題が起こってから対応するのでは、改善はなかなか見込めないのです。

 それよりも、「予防」し、適切な行動をとっている姿を承認していくことにより、不適切な行動そのものを起こさなくしていくことが重要です。

 では、その「予防」の策として最高最強なものは何でしょうか。

 それが授業です。

 授業で認める。授業で褒める。授業で力をつける(超絶重要)。

 これを毎時間やっていけば、まず少なくともその授業では生徒は荒れません。自分の存在が授業の中で大切にされていると感じるからです。

 荒れた子、反抗する子というのは、多くの場合、「勉強を諦めた子」なのです。悲しいけれどもこれが事実なのです。

 「勉強という正攻法では、自分の存在は認めてもらえない。だから、ちゃんとやっている子ができないであろうところで存在をアピールしよう。」という心理が働くのです。その結果が問題行動なのです。

 もちろん、全ての生徒に100点を取らせろ、ということではありません。個人差が必ずあります。しかし、その子その子に応じて、授業の中で何か1つでも頑張りを認めてあげられたら、その子は頑張れるのではないでしょうか。もし、その子に応じた最高の学力保障ができたら、現在の日本の公教育における問題行動は8割くらいはおさまるのではないかと勝手に考えています。


最後に

 今回の考え方を、僕は小栗正幸先生から学びました。小栗先生は、元少年院の院長をやっておられた方で、実践を積み重ねた中から、そうした子への対応を編み出されています。僕が最初に読んだのは『ファンタジーマネジメント』という本です。
 殺人を犯した人が「人を殺してみたかった」というとんでもない発言をしてしまうのはなぜか。それは、「そう答えるような質問を質問者がするからだ」という考え方です。「なぜやったのか?」と問われなければ、そうした言葉は出てこないだろう、という方向性なのです。

環境をつくるのは教師であるというお話でした。

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