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イブキちゃんの聖書入門#47 「ノアの箱舟は本当にあったの?⑭ ノア契約(前編)」

"神はノアとその息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。
あなたがたへの恐れとおののきが、地のすべての獣、空のすべての鳥、地面を動くすべてのもの、海のすべての魚に起こる。あなたがたの手に、これらは委ねられたのだ。
生きて動いているものはみな、あなたがたの食物となる。緑の草と同じように、そのすべてのものを、今、あなたがたに与える。
ただし肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。
わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。
あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ。」"
創世記 9章1~7節

★「ノア契約」の5つの条項

⭐︎それまでの既存の世界を壊滅させた大洪水が終わり、神の導きによって、ノアとその家族、また動物たちは箱舟から出て来ました。

そこで神はノアとその息子たちを祝福し、ノアを「新たなアダム」として、つまりノアを「新たな全人類の代表」として、かつて神がエデンの園でアダムと契約を結ばれたようにエデン契約、ノアと契約を結ばれました。

それが「ノア契約」と呼ばれるものであり、これから3回に分けて解説して行く予定の内容のものです。

⭐︎「契約」には必ず「条項」が付随します。

「ノア契約」の条項は、以下のように5つにまとめることが出来ます。

1:地上にノアの子孫が増え広がる

2:動物の中に人間に対する恐れが入る

3:人間の食事内容が変化する。菜食だけではなく、肉食も許可される

4:しかし肉は血のあるままで食べてはならない

5:死刑制度の制定

この中で、第3項から第5項、つまり「肉食の解禁」「血の持っている力への意識」「死刑制度の制定」は互いに緩やかな繋がりを持っています。

それは神が人類に、その日常生活の中で「命の尊厳と秩序」を視聴覚的に、また体験的に教える為です。

「命は無秩序に扱って良いものではないし、命の本質である血を軽々しく、また邪(よこしま)な目的で利用してはならない」
という神からのメッセージがそこにあります。

(1つ注意して頂きたいのは、ここでは「エホバの証人」が主張する「輸血の拒否・禁止」を肯定しているのではありません。
輸血に関する事柄は、ここで導かれる聖書のメッセージとは関係のないことです。
またその点についても、次回以降で取り上げたいと思います)。

また同時にそこには、特に「血」に関する事柄は、このノアの時代の後に登場する、モーセの律法における動物の犠牲による罪の贖い、究極的にはイエス・キリストの十字架上での血による全人類の罪の贖いを予表するものです。

今回は順番が前後しますが、先ずは第5項の「死刑制度の制定」から見て行きたいと思います。

★死刑制度の誕生

⭐︎少しだけ前のこと、私がまだとある会社に勤めていた時、その会社の社長さんから、
「大城くんはキリスト教だから、死刑制度には反対なんだろうけど、俺は死刑って必要だと思うんだよねぇ。死んで当然の悪い奴も、この世界にはいるんだからさぁ」
というようなことを言われたことがあります。
(その社長さんは、以前にご紹介した「キリスト教って血生臭くて嫌いなんだよね」と語っていた社長さんです)。

不用意なことを言ってしまって要らぬ誤解を招きたくなかった当時の私は、咄嗟に言葉がまとまらなかったこともあり、その場はただ言葉を濁すだけでしたが、結論から言えば、私は「死刑制度」という制度が存在すること自体には賛成しています。

厳密に言えば、「賛成」と言うよりも、「現状は承認せざるを得ない」と表現した方が良いのかも知れません。
少なくとも「断固として反対」という立場は、私は神を畏れる故に取れません。
(とは言え、これはあくまで私個人の意見ですので、全てのクリスチャンが私と同じ考えを持っている訳ではないことを補足致します)。

どういうことかと言えば、その第1の理由として、今回取り上げた「ノア契約」の条項の第5項のように、先ずは神自らが「死刑」という制度を、この罪が支配する世界において定められたからです。

"わたしは、あなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。いかなる獣にも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。"
創世記 9章5~6節

聖書の神は完璧なる愛の神であり、同時に完璧なる正義の神であり、ご自身が愛する人間の社会に「公正な秩序」が保たれる為にも、「命という貴重なものが脅かされたのであれば、血の値(命)を要求する」と定められたのです。

(この「ノア契約」の条項では肉食が解禁されており、「肉食→血が流れるのを見る→死がそこにある」という図を誰もが日常的に目の当たりにすることになり、「血の値を要求する」というのは「命をもって償う」という意味であることは誰もが理解出来る状況が、この時点で既に整えられているのです)。

そのように死刑制度を含めた「公正な裁き」が人間の間で行われるには、「人間による統治形態(政府)」が必要であり、「死刑制度を神が制定された」ということは、同時に「人間の統治者による政府の誕生を神が許可された」ということになります。

神はご自身のそのご意志が人間組織の中で正しく行われることを期待されておられるのです。

★全ての人が罪人故に

⭐︎私が聖書信仰に立つクリスチャンとして、今のこの時、死刑制度があることを承認せざるを得ないもう1つの理由は、人間の罪の性質を鑑みた際の社会秩序の維持、という観点からです。

「性善説」か「性悪説」か、という人間の本質を問う古代中国の思想がありますが、残念ながら、字義通りに聖書に書かれてあることを信じるならば、「性悪説が正しい」と言わざるを得ません。

聖書によれば、全ての人間はアダムの子孫であり、アダム以来の罪の性質(罪を行う傾向:原罪)を持って生まれて来ています。

「例外的な人間」は1人もおらず、全ての人間が、例え品行方正な非の打ち所がないような人格者であったとしても、アダムの子孫である限り、神の前では全ての人が「罪人」なのです。

人間の歴史、人間の行くところは、どこまで行っても罪が付きまといます。

「罪が全くない、犯罪者が1人もいない、殺人も戦争も起こらない理想郷」は、そのような原罪を解決出来ない人間の力では到底、実現は出来ません。
ここに社会主義型のヒューマニズムの限界があります。

そうであるならば、社会秩序の維持の為に、人間の罪の性質から生まれる暴挙に歯止めをかける為にも、「死刑制度も含めた罪相応の刑罰」が人間社会の中に普遍的に必要になって来ます。
さもなくば、私たちのこの世界はたちまち無秩序状態となってしまうでしょう。

⭐︎1932年(昭和7年)5月15日に、当時の日本の陸海軍将校たちが内閣総理大臣官邸に乱入し、内閣総理大臣である犬養毅首相を銃殺してしまう事件が起こりました。

俗に言う「5.15事件」です。

これは国家に対するテロ行為であり、法的にも反乱罪には死刑が適用されるべきなのですが、この事件で逮捕された将校たちは、当時の(建前上は)腐敗した政党政治に反発を覚えていた世論による助命嘆願運動もあり、結局は全員が死刑を免れ、禁錮刑となりました。

「不当に、不自然に犯人たちの罪が軽くなった」という印象を拭い去ることは出来ません。
犯人の将校たちは「世間は自分たちに味方をした。自分たちは正しかった」と思ったことでしょう。

結局、この事件の後、「腐敗した政治家から国家を救う為であるならばテロ行為は許される」という空気感を軍内部に生んでしまい、それが「2.26事件」という更なる悲劇に繋がり、またそれは軍部の暴走を許す結果に繋がった、と見ることが出来ると思います。

罪に対して然るべき法的裁きが行われないことは、社会秩序に混乱を引き起こす要因となるのです。

⭐︎本来的には、もちろん、この世界に「死刑」という「人が人の命を合法的に奪う」という制度は存在しない方が私も良いと思いますし、「死刑なき世界」は理想的です。
それは愛である神ご自身も望まれていることだと思われます。

しかし、それはあくまで「理想的」であり、少なくとも、この今の私たちが生かされている「現実」にはそぐわないことです。
繰り返しますが、今のこの世界は残念ながら「性悪説」が正しいと言わざるを得ない状態なのです。

であるならば、「死刑」という究極的な法的裁き、言い換えれば「罪に対するけじめ」があることは必然的であり、効果的です。
罪による犯罪の広がり、また犯行の内容の残酷さがエスカレートしてしまうことを予防、抑制する効果を期待することが出来るからです。

★真の平和に向かって

⭐︎とは言え、そのような「死刑制度を必要とする状態」がいつまでも、永遠に続く訳ではありません。

聖書によれば、将来、必ず全ての罪が一掃される、一切の罪が存在しない世界が実現すると約束されています。

それが「永遠の秩序」と呼ばれるものです。

"また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。
私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。
神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである。」"
ヨハネの黙示録 21章1~4節

「死がない」ということは、「死の原因である罪も存在しない」ということです。

この「永遠の秩序」は人間の、人間によるヒューマニスティックな努力ではなく、神の時と方法によって実現します。

今のこの時は「原罪が人々を支配する状態」を神は許されていますが、神は確実に、この究極的なゴールである「永遠の秩序」(その前には千年王国がこの地上に実現します)へと向けて世界を動かされておられます。

神がご計画された宇宙は、「死刑制度」によって何とか命の尊厳と秩序を保てるレベルで完結してしまうものではないのです。

神は全ての罪人を、この罪が根絶された世界「永遠の秩序」へと招いておられます。

⭐︎「全人類が原罪を持って生まれて来る。例外は1人もいない」と書きましたが、しかし、厳密に言えば、「例外」は存在します。

それが今から約2,000年前に、中東のユダヤ地方、ベツレヘムで人として生まれた神、イエス・キリストです。

キリストは100%人間ですが、一方で100%神です。

神である故に、人間であっても、アダム以来の原罪をその身体に宿していませんでした。

そして父なる神は、そのひとり子である、ご自身そのものである罪が一切ないイエス・キリストに、「血の値」、つまり「血を流し命を捧げること」を要求されたのです。

それが十字架の上での贖罪の死です。

死刑にされるはずもない罪のないキリストが、死刑に定められている私たち罪人の身代わりになって、十字架の上で血を流してくださった、それ故に、その理不尽な程にきよい贖罪の血潮の故に、全ての罪人が無条件で赦される土台が出来上がったのです。

ここに旧約聖書から続く神の愛と正義の成就、極まった姿を見ることが出来ます。

新約聖書では、この神の業(わざ)を以下のように簡潔に言い表しています。

"罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。"
ローマ人への手紙 6章23節

「報酬」は「当然の報い」です。
しかし、「賜物」とは「プレゼント」であり「無料の贈り物」です。

その「神が与えられる賜物」こそが「イエス・キリストの福音:恵みの福音」です。

⭐︎「イエス・キリストの福音:恵みの福音」とは、

1:罪のない神であるイエス・キリストがあなたの罪を負って十字架につき、あなたの罪の裁きを代わりに受けて死なれた、あなたの罪はキリストが既に精算された、ということ。

2:十字架で死なれたキリストは墓に葬られた、あなたの罪は既に墓に葬られた、ということ。

3:しかし神は死では終わらず、キリストは3日後に復活された、ということ。

この「福音」を信じた者は、どのような犯罪者であっても、無条件で、「神の子ども」とされ、将来は「永遠の秩序」に入ることが出来るのです。

⭐︎今回、引用した聖書箇所である創世記9章6節の後半部分に、「神は人を神のかたちとして造ったからである」とあります。

"人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたちとして造ったからである。"
創世記 9章6節

実にここに、今のこの時に、「永遠の秩序」が実現するまでの期間、「死刑制度」を制定された神の、創造主としての人類に対する最大限の愛が現されています。

私たち一人一人には、原罪こそ宿っていますが、「神のかたち」が刻まれています。

どんなに泥だらけになっても、親が我が子の姿を認識出来るように、またその泥だらけの体を愛をもって抱き上げるように、神も罪まみれになった私たちの姿を、それでも「我が子」として認識し、その御腕の中に引き寄せようとされておられるのです。

私たち一人一人にはその「神のかたち」が刻まれているからこそ、神は全人類一人一人の命と、その尊厳、秩序を守られようとされます。

それ故の「死刑制度」であり、今のこの原罪が支配する世界に対する、神が提示された、暫定的ではありますが、最大限の「平和的方法」であるのです。

どうか今、あなたも、私たち一人一人を「子ども」として迎えてくださり、永遠の視点から全てにおいて最善を尽くされる、配慮してくださる神のその深い愛と正義の中に飛び込んでみませんか。

神はあなたを裏切りません。

心よりお勧め致します。

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