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イブキちゃんの聖書入門#81 「聖書的終末論①預言の意味(前編)」

"私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。"
イザヤ書 53章1~3節

☆毎週当コンテンツ『イブキちゃんの聖書入門』に目を通して下さり感謝致します。

文章を書くのは決して得意ではない私がこのように続けて来られているのは、ひとえに支えて下さる読者様のお陰であり、何よりも創造主である聖書の神様の導きです。

引き続き、本年も宜しくお願い致します。

☆さて、前回は新年のご挨拶と共に、地震のことと絡めて「聖書が終末時代について何を語っているのか」についての導入部分(プロローグ)をお送り致しました。

今回から「マタイの福音書24章」や「ヨハネの黙示録」、また新旧約聖書に散らばる終末預言を基に「聖書的終末論」をシリーズとして展開して行きたいと思います。

「終末論」はキリスト教界の中でも神学的立場によって解釈が分かれ、「難しい」と敬遠されがちですが、しかしれっきとした聖書のメッセージです。

聖書は神が私たち人類に「知ってもらいたいこと」を伝える為に書かれたものであり、聖書の中に無意味な書や解釈不可能な部分、人間にとって都合良く解釈して良い箇所などはありません。

預言の存在こそ、聖書の内容が哲学や神話などではなく歴史であること、また聖書の神こそがクリスチャンだけではなく全人類にとって関係のある真の神であることの証明となっています。

聖書が示す終末論こそ、終末時代に生きる私たち現代人に必要な聖書メッセージだと私は確信しております。

扱う聖書箇所も膨大となり、解釈をすべき箇所も多くなるのでかなりの長旅になるかとは思いますが、どうか最後までお付き合い願えれば幸いです。

☆先ずは「預言」という言葉について考察してみたいと思います。

一般的に「よげん」と言えば、「ノストラダムスの大予言」などの「予言」の字を想起するかと思います。

その「予言」の意味するところと言えば、未来のことのみを取り扱う「占いめいたもの」をイメージしてしまうのかも知れませんが、しかしこの聖書で語られている「預言」は、いわゆるそのような「予言」とは違います。

「預言(預言する)」と訳されている言葉は、旧約聖書の原語であるヘブライ語では「ナバァ(נָבָא)」、また新約聖書の原語であるギリシャ語では「プロフェトゥオー(προφητεύω)」であり、どちらも「神の霊によって語る」という意味があります。

三位一体の神の第三位格の神、「聖霊なる神」の導きによって、人間が神の器となって神の言葉を取り次ぐのが「預言」であり、「神の言葉を預かっている」故に、日本語訳では「預言」という漢字が充てられているのです。

「神の言葉を預かり取り次ぐ」という意味で、聖書が示す「預言」は、決していつも「未来に起こる出来事」ばかりではなく、時には不信仰なイスラエルの王や民に対して、神の怒り、悲しみを伝えたり、悔い改めへと促す言葉を送ったりする役目も担っています。

☆また聖書の預言の中には「メシア預言」と呼ばれる、メシア(キリスト)の降誕やその働きについて預言するものも含みます。

旧約聖書(ヘブライ語聖書)に編纂されている預言書の一つ、「イザヤ書53章」は、クリスチャンの中では有名なメシア預言として知られています。

その内の1~3節をここにご紹介したいと思います。

"私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。
彼は主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。彼には見るべき姿も輝きもなく、私たちが慕うような見栄えもない。
彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。"
イザヤ書 53章1~3節

ここでの「彼」とは間違いもなくイエス・キリストです。

人として受肉した「子なる神」キリストは、人並み以下の貧しい環境の中で生まれ育ち、私生児として周囲から白い目で見られ、メシアとしての公生涯を歩まれてからも更に激しい迫害と蔑みを受けられ、最後は残酷な十字架刑にかけられることを良しとされました。

このイザヤ書が書かれたのは、実にキリストが降誕する約700年も前のことなのですが、驚くべきことにキリストの生涯や働き、その姿を克明に描写しています。

預言者イザヤはまさに「聖霊なる神」の導きによって、遥か将来に現れるイスラエルのメシアについて預言したのでした。

※ちなみにイエスをメシアとは認めないユダヤ教では、礼拝時に旧約聖書が読まれる際も、どういう訳かこのイザヤ書53章はスキップするようです。

恐らく、イザヤ53章を読めば、ユダヤ人にとって「異教徒の神」であるイエスがメシアであることは誰でも明らかになるので、それを恐れたラビがこの章を読み飛ばすように指導しているのでしょう。

そういう事情もあってか、このイザヤ53章はユダヤ人伝道に最も効果的な箇所であると言われています。

「ナザレのイエス」こそ、ヘブライ語聖書で預言されたイスラエルのメシアである、そのことにユダヤ人の方々の目が開かれることを切にお祈り致します。

☆以上の通りに、「預言」と一言に言っても、その内容は中々にバラエティーに富みます。

ただ一つ、言えることは、聖書が示す「預言」とは、個人の運勢を占ったりするような世間一般で言われる「占い」などではなく、「聖書の神のご計画に沿った内容のもの」である、ということです。

聖書の神はイスラエルを中心にそのご計画を進めており、その内容のほぼ全てはイスラエル民族に関わることです。

またその詳細は既に、完成された新旧約聖書に啓示されてあります。

今、世界中に「自分は預言者だ」と名乗る者がいたり、また「預言カフェ」と呼ばれるものが日本にもありますが、聖書に啓示された内容に沿わないものであるならば、それは確実に「偽物」です。

「預言」または「預言者」という言葉の響きには、確かにどこかエキゾチックで、スピリチュアルな魅力がありますが、イエス・キリストがそうであったように、「預言者」とは本来、人々が聞きたくもない神の言葉を語る者であり、人々から嫌がられる立場にある者です。

本物の預言を語る本物の預言者は、神の言葉を取り次ぐ故に、神に敵対するシステムが働くこの世界から迫害されるのです。

私自身も含めて、ただの上辺の人気取りに走る「偽物」に取り込まれないように、聖書の言葉に照らし合わせて常に「本物」を見極めるように、留意して行くことが、この混迷する現代において更に必要になって来ていると痛感する次第です。

※次回「聖書的終末論②預言の意味(後編)」に続きます。

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