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【1945年3〜5月】生死の狭間をさまよって①<祖母の手記>

これから書き下すのは、1945年に終戦した太平洋戦争の沖縄戦にてひめゆり学徒隊として動員された祖母の手記です。祖父が聞き取りの上、書き起こしたものを孫の私が再編集ました。
ひとりの女性が生きた1945年の記録を、現代に格納します。

沖縄上陸は必至、学徒隊として配属

県立第一高等女学校(以下、県立一高女)4年に在学していた私は、卒業式を目前に控えていました。例年ですと卒業式は3月初旬に行われるのですが、サイパン、テニアンなどマリアナ諸島が米軍の手に陥ちた今、沖縄上陸が必至となり、県下各中学校や女学校の卒業式は延期され、学徒隊として第32軍へ動員される手筈となっていました。
師範学校女子部と県立一高女の上級生は昭和20年1月頃から速成ながら看護教育を受け、南風原(はえばる)国民学校にある陸軍病院で看護実習を行っていました。

3月24日、全日からの空襲に加えて、具志頭村港川方面からは米軍の舵砲射撃の轟音が大地を揺るがしていました。その晩、第32軍司令部の命令によって師範学校女子部・県立一高女220人あまり、職員18人(通称:ひめゆり学徒隊)が学徒隊として南風原の沖縄陸軍病院に従軍することになりました。

砲声轟く暗闇での卒業式

南風原に来て数日後、学徒隊は本部、第一外科、第二外科、第三外科、糸数外科、糸数分室、一日橋分室、識名分室および津嘉山陸軍経理部に分散配属され、私は4年生10人、3年生5人、それに引率の教師3人とともに津嘉山の陸軍経理部(旧1616部隊)に配属されることになりました。

3月29日、陸軍病院本部の三角兵舎で師範学校女子部41人、県立一高女38人の卒業式が、戦艦からの砲声が雷のように轟く中で、数本のローソクを灯して執り行われました。ちなみに金武町出身(「私」も金武町の出身)の卒業生は師範女子部のNさん、Aさん、それに県立一高女の私と3人でした。

卒業式を終えて津嘉山の経理部壕に帰った私たち卒業生は、経理部長の部屋に呼ばれて「1616部隊経理部庶務課筆生(軍隊用語:事務員)」を命じられました。私たちが配属された津嘉山の壕は第32軍直轄で、経理部の他に法務部や軍医部、工務部などが置かれていました。

水汲み、そして戦況は激化

私たちに与えられた仕事は経理部の雑役と軍医部での看護活動でした。最も苦労したのが水汲みで、米軍の砲撃がいくらか遠のく夕方から夜にかけて麓の井戸から2人1組、一斗樽を担いで急な坂道を上るというものです。梅雨時の坂道はぬかるんで足元が滑る上に、付近に砲弾が炸裂すると途中まで汲んできた樽の水を放り出して身を伏せることもしばしばでした。何度往復しても2本のドラム缶を満たすことができず大変苦労しました。

また野菜などの食料収集や飯上げなども主な仕事でしたが、5月に入り戦闘が日に日に増すにつれて、軍医部には重症の兵士が運ばれてくるようになりました。とうとうベッドが足りなくなり、法務部、工務部、経理部の各壕にも負傷兵が収容されるようになり、郷内はうめき声と血の臭いに包まれて、空気が一変しました。学徒隊もこれまでの雑役以外に看護活動が加わり、薬品や衛生材料の運搬、包帯交換と激しい労働に明け暮れました。

②に続く