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世界に人の心の光を見せる事は本当に難しい

声を上げる事 ≠ 暴力で示すこと

自分や他人のために声を上げる事は良いことです。
そうやって世界は変わってきたのですから。

だけど、声を上げる事=暴力を示すことではないですよね。

力を結集して車を燃やしたり
嫌いな人たちの店をぶっ壊したり
落ち着きなさいという言葉を逆手に取って
「落ち着いた瞬間殺される」と憤慨することでもない

いったい誰が望むんだろう。と本当に思います。

力で示せば力で返す、その繰り返し

主張したいと力で自分を誇示すると相手も力で示してきます。

最初に起こった
白人警官個人の差別意識から起こった暴行殺人
今、起こっている暴動

そしてこれからもしかしたら起こるかもしれない
軍が保護下に置く事

それは力の誇示を連鎖で示していることと同じで
自分の主張を力で示した結果となっています。

警官が暴力をふるったから、暴力で対抗するという事を始めてしまって、
その力が大きな渦となってしまい、制御不能となってしまったとしたら、
管理している行政が最終手段として軍という圧倒的な力を発揮するしかなくなるというのは、当たり前のことだと思います。

行政が今回の暴動に対抗することに軍を動かすかもしれない事に対し、
嫌悪感を抱く人がいるかもしれないが、行政はやる事をやっています。
それを横暴だと思うのならば、力による示しをやめないと終わらないのです。

それは主義主張など意味がない、と言っているのではなく
主張の方法がそもそも間違っている、という事です。

人種差別の主張というものは力で示せるものでなく、
精神的なものであるために主に討論という形でお互いに納得のできる形で決着をつけ、一人一人の意識を変えていかなければならない問題と考えます。

差別問題など、人権問題は本当に複雑な問題ですから、
どちらの主義主張が通るか机上で話し合うような冷静さが必要で、
主張して賛同を得たいのであれば今ではインターネットという世界に発信できる武器もあるのだから、そういった所を利用するという新たな主張方法もあって、実際やっている方々もいます。

机上(現代ではインターネット上か)に広げられた議論に対して軍や政治的圧力が投入されることになったらそれは横暴であって、批判されて当然とも思えます。そこをまた暴力で訴えることなく、議論で立ち向かうべきと思います。

白人警官に殺されてしまった方の御遺族は、力で示しているでしょうか。
もはや、大きな渦となった力の前でやめてくれ、と叫ぶ声も聞こえなくなってしまっているのではないのでしょうか。

この大きな渦の発端は暴行によって殺された方を悼む場面から始まったのかもしれませんが、自分たちの鬱屈した気持ちが大きくなり、自らの主張から外れた破壊衝動にまで至ってしまっている部分もあります。

それは悲しいことですよね。

悲しみの連鎖を抑える、想像力の大切さ

力による主張によってマーケットを壊された人たちはどう思うでしょうか。
「やっぱり力で示してくるような奴らは嫌いだ」と
差別意識が広がってしまうのではないでしょうか。

例えば、今まで誰にでも親切にしていたマーケットが略奪にあって以後、
「黒人お断り」という看板が出てしまっても文句は言えなくなってしまいます。
「店を壊したのはお前たちだろう、そんなことされたらたまったもんじゃない」と意識が変わってしまうことだってありえるのが人間です。

そうならない為にはどうしたらいいのでしょうか。
一人一人が相手を思いやる想像力を働かせて行動すると
少しは世の中変わるのではないでしょうか。

焦りや不安があることはすごくわかります。
新型コロナウィルスによる被害
それでなくとも貧困に喘いでいる
その上こんな事件が起こってしまう
自分たちの明日が来ないかもしれないという気持ちもあることでしょう。
世の中嫌な事ばかり、まったく明るくないように見えてしまいます。

少なくともアメリカでは、人種差別をなくそうとエイブラハム・リンカーンが黒人奴隷解放宣言をしてから150年を過ぎた今でも、人種差別の禍根は残っているのが実情です。
人権団体が声を上げて平等を主張するが、時にそれが極端であったり、片一方の意見のみを取り上げているものがあるだから、主張として受け入れられなくなってしまいます。
どんなことでも平等というバランスが一番難しいのです。

迫害とか差別とか、そういう人の好き嫌いの根っこからきているようなものがなくなる世界が来るのは、まだまだ遠いとおもいます。残念ながら……。

人の差別意識というのは100年ちょっとじゃ変わらないのが実際の世界です。

間違っている力の示しに、堂々と間違っていると主張できる勇気

それでもあきらめず
皆が巻き起こしている大きな力の渦の中で、
ハッキリとこういった暴力は間違っているんだ!
自分たちでは何も変えられなかった、次の世代の君たちならば解決してくれるだろうから、生きてくれ。
と声を上げることが出来る方々に最大の敬意を払いたいと思います。

こういった声を上げてくれる人たちがたくさん出てくることが、この暴動、さらには人と人の間に起こる軋轢を抑える重要な鍵になってくれるものと信じたいですね。

今、僕らに出来る事

人種差別はいけないことだ、
という事が大前提であるのは日本人なら判っていると信じて書いています。

ひとつ、深くは話したくないけれど、
経済摩擦や国際的主義主張の拗れは人種差別問題と別物
少なくとも別物であってほしいけれど、
人種差別問題に絡めて主張してくることもあるので
そこは経済問題、ここは主義主張の問題、これは人種差別問題と
理路整然と主張しあえるような世の中になってほしいと願う昨今です。

閑話休題。

遠く離れた日本人である自分たちに何ができるか?
正直、彼らに対して何もできないと思います。

いろいろな人達が大変な思いをしているのに!
そう思う気持ちもわかりますが、憐れむ気持ちを置いて、今はひとまず
「自分は差別的なことをしていないか」
という自分の周りを見回して考えてみるのはどうでしょうか。
自分はそんなことしていない!と思う方も、この機会に見直してみることが大事かと思います。

難しいことじゃない、周りにいる人たちに対して自分はどう思っているかを整理するだけでいいと思います。
人の好き嫌いはあって当然、しかし、その嫌いという感情の中から憎しみとなって自分の行動に影響が出ていないか、という事だけでも見つけてみると何か発見があるはずです。

差別撲滅に賛同します!という一言ももちろん大事です。
その前にまず、一瞬だけでも自分の身の回りの差別意識がないか、
セルフチェックする事こそ、人種差別をなくしたいと思っている方々、人種差別に直面している方々に対する最大の敬意なのではないではないでしょうか。

自分の身の回りの差別意識をなくしてから人種差別撲滅にたいして賛同をするのでも遅くはないと思う。
先も言ったように人種差別の根は深い。やめましょうと言ってすぐに辞められるものではない。
この問題の完全な解決は難しいから、焦ってすぐに辞めよう!と叫んでも変わらないのではないでしょうか。

人種差別で困っている人に物品提供をするとか、資金的に援助するという事は間違いなのかもしれないと思うことがあります。
彼らが望むことは人種差別から脱却すること、すなわち人種差別から脱却し、自立することです。
自立を目的としている方々に、ものを与えるという事をしていいものなのか、悩みます。

あこがれているスターのようになりたい
あこがれている車を買いたい

スターになるチャンスをほかの人と同等に与えてほしい
豊かな生活を送れるような仕事に就くチャンスをほかの人と同等に与えてほしい

そう願う方々が差別という壁に直面してそれを実行できないでいる場合
その差別しているという意識を取っ払う事をしなければ、そのチャンスはやってこないと思います。

ただ一瞬、困難に手を差し伸べるために物品や金銭を手渡すことが、
そのチャンスを得る事につながるとは考えにくいのです。

様々な国の人が日本にやってくると
「この国はだれもが親切にしてくれる、通りかかっただけで唾を吐きかけることもない、ご飯を提供してくれる、パンを売ってくれる、これ以上幸せなことは無い」と言ってくれ
「また来たい」と笑顔で言ってくれる。
それは、日本に人種差別という壁がないからなのではないのでしょうか。

だけど、我々は本当に一つも特別なことはしていない。
いつもどおり、みんなと接しているだけ。

それこそ、日本人が本当に差別意識がなく
人が人として対等に接しているという証拠だと思う。

それは国の定めるルール以上の問題
社会を形成する最低限のモラルってやつなんじゃないかと思うのです。


ガラにもなく社会問題について色々話してしまいました。
こういった問題は自分がどうこう言っても始まらない問題だと認識していながらも、ツイッターで心から主張している方の動画を見て、心打たれてしまった結果です。

次からは平常運転に戻ります。

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