気持ちのこもった感想文。

 私は彼を3年間、担任していた。
 感情表現に乏しい、ちょっと変わった子だった。
 いつか、彼に学年新聞に載せるちょっとした作文を頼んだことがある。職員室に彼を呼び、「体育祭の感想をね、400字くらいで良いんだけど」と伝えて原稿用紙を渡した。
 彼は「分かりました」と言うなりその場で私の机に屈み、書き始めた。
 「原稿用紙を持ち帰って、明日までに書いてくれればいいんだけど」と私が言うのも聞かず、彼は書き続けた。
 下書き無し、しかも消せないボールペン。
 書く表情は険しく、嫌がっているようにも見えた。しかし手は止まらない。すらりすらり、ほんの3分で409文字の感想文が出来上がった。彼ははたと手を止め、しばし首を傾げてから、先頭に『体育祭の記憶』という題を加える。

 「先生、出来ました」
 「速いね」
 「だめですか」
 「……だめとは言ってない。今読むから」
 「速くできちゃうのは、だめですか」
 「今読むから」

 文章は何の当たり障りもなく、書き間違いなどの問題もなかった。むしろなかなか中学3年で書けるような内容ではないと思った。体育祭の状況をよく説明していたし、そこで見た同級生たちの姿なども盛り込まれていた。
 最後の締めくくりは「卒業を来春に控え、仲間たちと楽しく過ごせるとても貴重な時間を」などと、むしろ大人が畏まって壇上で話すような言葉で……。

 「……これと同じこと校長先生か誰かが言ってなかった?」

 そうだ。この末尾の言葉は、校長が開会式で述べていた言葉の一部だ。
 校長は自身の体育祭の思い出について、朝の開会式の時に長々と話していた。そもそも聴いてすらいなかった者が大半だろう。私自身思い出したのは奇跡だ。たまたまその朝の私はその話を聞く気になって、「しかしまったく何の当たり障りもない話だな」と苦笑していた記憶がある。

 「そうです。校長の話を覚えていました……変えたほうがいいですか?」
 「恐らく問題はないけど。朝の話の内容なんて校長自身も覚えちゃいないでしょう」
 「じゃあこれでいいですね」

 いいのだろうか。
 何か違和感を感じる。
 よく書けている。
 しかしこれは……

 「そう、これは書き手の気持ちが入ってないんだ」

 そう私が言うと、彼は鼻で笑った。

 「タイトルに書いたでしょう、体育祭の記憶って」

 なるほど。
 体育祭の記憶。
 体育祭の状況や同級生の姿という映像の記憶。
 校長の話という音声の記憶。
 そこには何の思考の跡も、感情の跡もない。タイトル通り、機械的な記憶の羅列だ。ただ最後の校長の一節だけは、卒業を控えた最後の体育祭に感慨を抱く中学生の気持ちが(多少白々しくはあるが)ちゃんと書かれているようにも見えるわけだ。

 「もう1枚原稿用紙をあげるから、試しに自分の思ったことをゆっくり書いてみてくれないかな。あの時どんなことを感じていたか、仲間を見てどんなことを思ったか。じっくり考えて欲しい。どのみち明日、いや明後日になっちゃってもいい」と伝える。
 すると彼はこう答えた。

 「体育祭のあいだじゅうずっと考えていましたよ。この1日を感想文かなんかにまとめろと言われたら嫌だなぁって。だから前もって書けるネタを探しておこうってアレコレ記憶に留めてたんです。それ以外、あの体育祭で感じたことは何もありません」

 彼は寂しそうに微笑む。

 「どうですか。そういう僕のからっからの気持ちがよく反映された文章だと思いませんか」

 私は少し迷い、その文章をそのまま学年新聞に載せた。
 気持ちのこもった良い文だね、と同僚が褒めていた。

#短編 #小説