幻想の旅人、というお話。

 幻想の旅人は「心」にのみ従って旅をする。
 傾いた陽。
 一面にゆれる黄金の麦と、遥かな紫の稜線。
 風と郷愁の感触。
 空は星の透けるほどの濃い藍色。
 硬く締まった雲は幾塊も幾塊も、風に乗って流れ去り、風に乗って流れ去り。
 地表を覆う麦の穂波も、流れる雲と息を合わせてよく揺れた。
 空と大地が寄り添うように、よく揺れた。
 (お待たせ致しました。ゆびICをかざしてください。)
 天から女性の声がした。歌うような声だった。
 佇む旅人の男は僕のほうへ向き直り、
 (大丈夫ですか。大丈夫ですか。)
 急に僕の肩を掴んで、

 「大丈夫ですか!?大丈夫ですか!?」
 「えっ、あっ、あぁぁ……」

 白髪交じりの眼鏡顔が僕の顔を覗きこんでいた。見知らぬ男性。そのスーツ姿に一瞬違和感を覚える。
 けど自分がアスファルトの舗道の縁に立って、見慣れたビル街に囲まれていることに気付き、また目の前のスーツ男が吟遊詩人でないことも薄ぼんやり理解し始めた。立ったまま眠っていたらしい。急に起こされた驚きで、息が上がっていた。
 目の前にはタクシーが停まっていた。窓ガラスにはデフォルトの女性キャラクターが表示されていて、唇がアニメーションでぱくぱく動く。
 (お待たせ致しました。ゆびICをかざしてください)

 「お顔真っ青ですよ?」
 そう言いながら男性は腰を屈め、僕のカバンを拾い上げてくれた。
 「大丈夫です。ありがとうございました。」
 僕はカバンについた砂を慌てて払う。
 「……君、ちょっとアルコール臭くない?」
 「えっ?ああ、いや。ゆうべ取引先と飲んでて……」
 「最寄りのヘルチェまで案内しましょうか?」
 「あ、いえ、タクシーの中で、少し休めますし」
 僕はタクシーのドアノブに右手の人差し指をかざして、ICを読み取らせる。
 ちなみにアルコール臭は昨夜ものではなく今朝のものだ。最近は朝にアルコールを入れないと働くことが出来ない。気持ちが落ちていってしまうから。
 「他に何か落としたりしてません?」
 「えっ?あ、大丈夫です。カバンだけなので」
 男性はなおも心配そうな目をして「ヘルスチェックはこまめに」というようなことを長々と述べたが、ぼんやりしていて実際よく聞き取れなかった。
 やがてタクシーが僕のゆびICから僕の年齢・身長・体重・地位・収入・住所・口座番号・趣味嗜好・最近買った商品から僕の性的指向までありとあらゆる個人情報を瞬時に読み取り終えると、かぽり、と優しい音を立ててドアが開いた。
 「気を付けてね。働き過ぎは身体に毒だからね?」
 「はい、ありがとうございました。失礼します」
 余計なお世話だクソジジイ、と心の中で思った。

 (お待たせしました、お客様。毎度ティートタクシーのご利用ありがとうございます。案内役のティートM-13pです。)
 運転席に、スラリとした手足に清潔そうな制服制帽を纏った、アニメ調の少年のホログラムが姿を表す。色白で目は細め、年齢の割に大人びた雰囲気で落ち着いた声の少年。僕の好みに最適化されていた。なんだか懐かしさや安らぎすら感じる。座席に座った僕は「よろしく」と言おうとしたが、代わりに出たのは安堵と疲れの大きな溜め息だった。
 (お客様のゆびICをボクの左手にかざして、行き先を思い浮かべてくださいね?)
 言われるがまま、僕は彼の白い左手の虚像と、自分の節くれ立った右手を重ねる。
 「行き先。えっと……なんだっけ」
 えー、キュリウム・Cは行った、アルゴン社は行った、いや、行ってない?あれ。どこ行くんだっけ。記憶をうまく辿れない。ああ。思い出せない。
 (行き先が認識できません)
 「ちょっと待って!!」
 なんだろう。記憶がごちゃごちゃしている。何かがおかしい。さっき道端で居眠りしてしまってから何かがおかしい。僕は右手で頭をくしゃくしゃ掻こうとして、
 (おっと。まだ手を放さないで?)
 「ああ、ごめん。」
 右手を戻す。
 「でもちょっと待ってて欲しい。ごめん、確認したい」
 (待機時間中も料金が発生しますよ?)
 「わかった……あっ、そうだ。これって個人のスケジュールアプリ接続できる?」
 スケジュールアプリですね、と言って少年はニッコリと微笑む。僕に対して何の嫌悪も持たぬ純真な笑顔で見つめてくる。
 (スケジュールアプリをご利用になりたい場合は、ダッシュボード左端のディスプレイのスイッチを押して画面を立ち上げてください。ログインはボクが行いますので、右手はそのままで。)
 スイッチを押すとダッシュボード上にホログラム状のスケジュール画面が現れた。僕は今日のページを”念じた”が、行き先は表示されなかった。僕は舌打ちをする。今朝に入って急に発生した案件だったから、いちいちスケジュール入力なんかせず、口頭で係長に指示されてそのまますっ飛んで来たのだった。そもそも全部自分が受け持っている得意先で、行き慣れてるところだったし……5件だけだったし。

 大丈夫だろう、と思っていた。
 自分にとってこのくらいの仕事、なんてことない、と思っていた。
 その時僕はまだ「頑張れる」と思っていた。
 「頑張れない」ことを認識できなかった。
 頑張るしかなかったからだ。
 後から考えれば、叱られ覚悟で係長に電話で確認するなり、対処の仕方はあったのだけど、その時は考える余裕を完全に失くしてしまっていた。

 「……ん?」
 少年運転手のほうを振り返ると、少年は僕のことを心配そうな表情で見ていた。少し上目遣い。少年の姿は透けていて、背後のビル街が見えている。
 (…簡易ヘルスチェックを行いますね?)
 「ヘルチェはいいって、もうやったんだよ!」
 (右手を動かさないでくださいね?)

 ヘルチェは毎朝出勤時に受けていた。ここ1ヵ月、新労働法で出勤が許される健康レベルを満たしたことは1度もなかった。時々”長期休養”に該当することもある。ただ契約社員はヘルチェの労働時間規制の適用対象外だった。僕は働きたかったので、それで構わなかった。大学で奨学金を借りてしまったからだ。理由あって家族に頼ることが出来なかった僕は、奨学金を複数の団体から借りた。僕のように多少無理をしてでも金を稼がなければならない者が、自ら非正規雇用を選ぶのは珍しい話でもない。
 (お客様。ゆっくり呼吸して、落ち着いてくださいね?)
 ただ契約社員には更新がある。僕は3か月更新で、今月はその3か月目。目立つミスをしたくなかった。特に今朝の案件はクライアントへの緊急の対応であって、
 (お客様。ゆっくり呼吸して、落ち着いてくださいね?)

 「僕は!!仕事がしたいんだよ!!」

 しんと静まる車内。
 自分でもびっくりするくらい大きな声を出してしまった。
 確かに、呼吸が速い。
 (……ランチを注文しませんか?)
 少年は僕の空腹を人差し指から読み取り、ランチメニューリストをダッシュボードの画面に表示した。カツ丼[サラダ・フルーツ付き]、天丼[サラダ・フルーツ付き]、大盛カレー[サラダ・フルーツ付き]などなど。料理の写真を見ると急に空腹を感じた。そういえば朝からチーズ1切れと1杯の焼酎しか口に入れていなかった。少年の左手に重ねる自分の指はかすかに震えていた。
 「でも、ご飯食べてる場合じゃなくてさ」
 (お客様はカロリーとビタミンが不足していますよ?)
 余計なお世話だクソAI、と思いながら、僕はカツ丼弁当を頼んだ。
 (15分後に、ドローンで到着予定です。)

 話は逸れる。
 僕には頼れる家族や親戚がいない。大学進学でこの街に来てからもバイト漬けで、就職後も含め友達はいなかった。ただただ働くために来たようなものだ。そんな僕に優しくしてくれるのはいつも、通りすがりの優しいおじさん・おばさんや、AIだけだ。
 優しいおじさん・おばさんは優しくしたいからするのだ。
 けれどそれ以外の人たちは、みんな優しさを向けることをAIに任せきりにするようになってしまった。それでも頑張らなければならないのだけど。

 振り向くと少年の笑顔があった。
 (……ではお客様。行き先を思い浮かべられますか?)
 少年の虚像はまるで呼吸しているかのように、ふんわりと揺れていた。細かな睫毛までが描写されている。
 (どうかしましたか?)
 「……待って。思い出すから。」
 僕はひとつ息を吐く。そう、順を追って思い出せばいい。大丈夫。簡単なことなのだから。僕は目を閉じて、今朝からの流れを思い出そうとした。
 「アルゴン社はもう行って、キュリウム・Cには……キュリウム・Cは行ったんだっけ?」
 (渋谷区宇田川町・キュリウムカルチャー(株)でよろしいですか?)
 「違う。キュリウムCは行った。宇田川町行った」
 そうだ。キュリウムとアルゴンはどっちも渋谷だった。
 渋谷から回って、今ここが杉並のセレンカンパニー。
 4件目と5件目。
 渋谷から杉並。
 それで、うん。
 次に。
 思い浮かべろ。
 僕は、どこへ行きたいのか。

 …………。

 幻想の旅人の姿。
 傾いた陽。
 黄金色の麦原。

 それは子供の頃に観たアニメ映画のワンシーンだった。
 いにしえの中央アジアを舞台に、遊牧民の少年の大冒険を描いた映画だ。ほっそりとした手足に儚ささえ感じさせる色白の主人公の少年は、病弱だったが故に家族から捨てられる。彼は孤独な旅の末、一年中麦の穂が実る幸せの土地に辿り着く。
 僕はその映画を何度も何度も繰り返し観たのだった。
 家族の半分に捨てられた頃、僕はその映画の主人公と僕自身とを重ねたのだった。
 僕も雄大な景色の中を旅したいと何度も思った。
 それは現実にはならなかった。
 だからこれは夢だ。
 夢の中だ。
 数々の苦難を経験した少年は、子供時代の快活な心を閉ざし、落ち着きの溢れた大人びた声音の少年に変わってしまう。けれど彼は麦の国で大切な友人と出会い、1人きりではなくなるのだ。
 (お客様)
 (お客様)
 ん?

 (お客様、到着しました。)
 「えっ!?あっ」
 すっかり陽が傾いている。僕は慌てて体を起こすが、周りの景色が明らかにおかしい。

 「何処だよここ!?」

 「お前えええええええ!!何勝手なことしてくれてるんだよお前えええ!!」

 「払えない!!こんなの望んでない!僕は、仕事をしなきゃいけないんだ!」

 「仕事をしなきゃいけないんだ!クビになったら、終わりなんだよ!!僕は終わりなんだよ!!」

 「僕が東京を離れたいなんて言ったか!?そんなこと頼んだか!?」

 「違うんだよ!!夢は、現実は、違うんだよ!!」

 「ふざけるなぁあああああ!!!!」

 AIタクシーの車内で1人茫然とする僕。
 いつの間にか後部座席に届いていたカツ丼弁当。
 あとは何もなかった。

 一面にゆれる黄金の麦と、遥かな紫の稜線。

 風と郷愁の感触。
 空は星の透けるほどの濃い藍色。
 硬く締まった雲は幾塊も幾塊も、風に乗って流れ去り、風に乗って流れ去り。
 地表を覆う麦の穂波も、流れる雲と息を合わせてよく揺れた。
 空と大地が寄り添うように、よく揺れた。

 (お客様が心から望まれた景色に、最も近い場所へお連れしました。)

 幻想の旅人は「心」にのみ従って旅をする、というお話。