平家物語発狂のすゝめ

身内向けに書いた平家物語プレゼンレポート(?)
ゆるいテンションで書いているのでご承知おきください。
また記載に誤りがあっても責任が取れませんのでご了承の上お読みください。

平家物語とは

『平家物語』(へいけものがたり)は、日本の鎌倉時代に成立したとされる軍記物語で、平家の栄華と没落、武士階級の台頭などを描いた。作者は不明。(Wiki より)

平清盛が台頭して、没して、そこから「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし(平家に非ずは人に非ず)」とか奢りまくっていた平家が没落していく斜陽を描いた奴である。驕れる平家はマジで久しくなかった。ざっくりした全体のテーマは序文にあるようにショッギョムッジョ。ナムサン!

平家の凋落やそれに纏わる人々の生き様死に様から死生観やら厭世観やら色々考察しがいのある物語ではあるが、死ぬと言っても死に方も様々、生き方も様々で、軍記物とは言えど皆が皆戦場で討死するばかりでもないのである。それに死んでいくのは平家の人間ばかりではない。
元々源氏方であった義経の最期なんかも描かれるのである。

恐らくこれを公開している面々には今更過ぎると思うがとりあえず前説の体を保つ為にこういうことを書いている。
平の何某が戦場で死ぬやつでしょ、と思ってる人にはマジで違う場面も勧めるからとりあえず読んでほしいのである。

そんなことを言いつつ私のおすすめが大体『○○の最期』なのはまあ許してほしい。見せ場なので。

またあれですね、アキレウスとかクー・フーリン系の「名が残るのならば若くして死んでも悔いはない」的死生観に対する賛意が今一つ感じられない、ところがある。
敦盛も潔く心映えの美しい若武者として描かれてはいるけど、強くフィーチャーされるのは直実の嘆きだし。
何だろう、武士の感覚としては「立派に死ぬ、死してなお語り継がれる名を残す」ことに重きを置かれている気配がするんだけど、『平家物語』として文章をまとめた人はその武士特有の死生観から一歩どころか大いにドン引きしてまとめている気がしなくもない。立派に死ぬ?死んだら身体は塵になるだけ、無常よ無常、これを無常と言わずに何という。オイこれ書いたの貴族だろジャンプしろ。

平家物語に触れよう

さて平家物語をとりあえず読んでほしいという話をした。
それで手に取ってくれる人もいるかもしれない。ありがとうございます。
でも古典文学全集とかで手に取るとごつめのハードカバー2、3冊分で人によってはげんなりするかもしれない。

安心してほしい。私も多少げんなりしなくもない。

正直!平家物語も太平記(室町時代のやつ。楠木正成とかが活躍する。)も全部読まなくていいと思っている。
面白いところだけちょい読みしたらいいのである。解釈を深めたくなったら他のところも読むのである。
平家物語はまだギリ読めそうな気がする文章量だが、太平記はもっと長い。
だが太平記や平家物語などの中古文学軍記物語で卒論を書きその方向で准教授になっている先生が仰っていた。「卒論執筆時、教授に『太平記は全部読んだかね』と半笑いで訊かれて『読みました』と回答したらだいぶん驚かれてしまった。それくらい太平記を全部通して読んでいる人は少ない。平家物語だって少ない。源氏物語だって少ない。でもその状態で論文を書く人は多いし、論文を書くに至っていない人たちが全部読んでいなくても当然だ」と。

全部読まなくてもいいのである。研究者ではないのだから。
読みたければ読めばいいが、全部読む気になれなければ面白いところだけつまみ食いすればいい。これ鉄則。

おすすめの段

またもや前置きを長くしてしまいました。じゃあどこ読むんだよという話。

つまみ食いしやすい読み方は以下の通り。
とりあえず目次を見て『○○の最期』の段を読む
好きなキャラを見つけてそいつが出てくるところを読む
ざっくり解説。

好きなキャラ。大体は登場する武士やその周りの人物になるでしょう。これはある程度知っている人向けな気がしてきた。
なので全くわかんねえという人はとりあえず『○○の最期』の段を読むのがおすすめ。
あとは教科書とかで読んで知っている場面を読むのもいい。最期じゃない系だと、『忠度の都落ち』、『扇の的』あたりが教科書でおなじみの段だろうか?他に『富士川』とかもあるとか。
人が死なない回がいい、戦いじゃない段がいい、という人に断然おすすめなのは『忠度の都落ち』。これは本当にノーバトル回なのにしっかり読むと泣ける。おすすめ。頼む読んでくれ。人の死に触れたい人はこれ読んでから最期系読んでくれ。忠度がどうなったのかわかるから。

ちなみに忠度忠度と連呼しているが、キセル乗車のことを「薩摩守」とか呼ばれるようになったのはこの薩摩守忠度から来ている(キセル乗車→タダ乗り→忠度→薩摩守)…という不名誉すぎる余計な話がある。忠度は何も悪くない。

誰を推すかは人によると思うので、これ以下はただただ私が「無理しんどい」と思った登場人物の名前を挙げる。

平忠度
平敦盛
平知章
平知盛
今井四郎兼平
(→大体源(木曽)義仲とセットで登場)
巴御前
(→義仲最期にのみ登場)
斎藤別当実盛


ネタバレ全開妄想たっぷり発狂コーナー

忠度都落

平家凋落により平家一門が京を追われる中、薩摩守忠度が自分含めたった七騎のみで京の都へ戻って来る回。
藤原三位俊成を師に仰いでいた忠度が危険を冒しながらも京へ取って返した訳とは。

そもそも指名手配犯が訪ねてきたようなもんなので、俊成邸の者たちもざわざわする。入れたら俊成もその家人も立場が悪くなるかもしれない、何より今邸内で家人を殺戮するかも…!と思うと恐ろしい。ざわざわ。「そんなことはしない、門を開けなくてもいいから、お話できるよう、俊成卿に門の近くまででも来ていただけないか。」と言う。
家人のざわめきためらいを一蹴して「その人なら大丈夫でしょう。入ってもらいなさい。」と門を開けさせる俊成の器のでかさ…!師弟愛…!

ずっといくさいくさで連絡が取れなかったことを俊成に詫び、「勅撰和歌集を編纂されるであろうから、その際に一首でも入れていただけないかと思って、歌を書き連ねた巻物を持って来た。この中に一首でもこれはと思われるものがあれば…」と差し出す。

荒くれものの文盲ばかりと蔑まれがちな平氏にあって、いくさ続きの中でも雅を忘れず日頃歌を書き連ね、その中から更に出来がよいと思われるものを巻物にまとめて百首ちょっとあるという、なんという文系武人か。

俊成ももはや忠度が生きて京に戻ることはないだろうと察しているので、「このような忘れ形見をいただいたからには蔑ろにはしない。」と涙ながらに巻物を受け取る。
忠度も「最早思い残すことはない。あとは海に沈んでも山野に死体が打ち捨てられることになってもかまわない。」といい、別れを告げる。「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」と、当時別れの歌として親しまれていた漢詩を口ずさんで俊成邸を発つという初手から落ちまで完璧な雅。

なお受け取った巻物の中から俊成は本当に勅撰和歌集に一首加えるが、朝廷への反逆者扱いになっている平氏一門の者のため氏名を記載できず、「詠み人知らず」として載ることになる。

俊成卿は百人一首の選者としても有名な藤原定家の父であるが、平家物語の前身に当たる読み物の写しを定家も書いていたりする。

敦盛最期

ハイ続いて敦盛も雅ネタです。雅が続くね。
皆通り一遍の敦盛の筋知ってる気がするからある程度省きます。

源氏方で参戦していた熊谷次郎直実が、平家が撤退する船に乗り損ねて馬に泳がせて船まで行こうとしているよさげな大将首を見つけるところからスタート。

直実が「やーい逃げるのか」と煽ったら即のってしまった敦盛…敦盛ェ…

引き返してきたところを馬を並べて取っ組み合いして馬から落として頸かっ切ろうとして兜をどけると美青年!びっくりするほど美青年!思わず太刀の動きが止まる!しかも息子と歳が変わらない気がする!

「綺麗すぎて殺すの躊躇う」「息子と同じくらいって子供じゃねーか」「うちの息子がちょっと怪我しただけでも心苦しいのに死んだと聞いたらこの子の父親はどれほど嘆くだろう」とか考えてるうちに殺せなくなってきた直実 VS 「さっさと殺せばいいだろう」な潔すぎる敦盛による「殺せ」「殺せない」「さっさとしろ」「無理…」という謎押し問答。
名前聞いても教えてくれない敦盛…
なおもたもたしすぎて「逃がして差し上げたいが味方の軍勢が…」「だからはよ殺せと言っておるに」という謎会話も発生。直実が何気に伊勢物語の業平レベルの嘆きを見せる(気になる人は『伊勢物語』の『芥川』と『月やあらぬ』読んでね)が最終的には頸を取ることに。

敦盛殺害後所持品を検めてみると、懐から小さい笛が出てきたため、こんな戦場でも雅を忘れない美しき若武者…と源氏方がブワッするのですが。
実は当初平家方の退却船に乗り遅れた理由がまさにその笛だったりするという。

なお、
「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」
っていうどっかで聞いた気がする台詞は幸若舞の『敦盛』の中にある直実の台詞で、敦盛を討ったことで武士の生き方の因果さに嫌気がさして出家するときの台詞だったり…平家物語のテーマである「無常」をよく表してはいるのだが。これが戦国期武士に好まれた理由ェ…
所詮人間の寿命なんか短いし生きとし生けるものいずれは死ぬし現世なんか夢幻みたいなもんだし…とでも思わないとやってられないよね…ってな無常よ無常、な台詞なんですがノッブはどういうつもりでこの節を好んで口ずさんだのでしょうか。

実盛

これ読んだら白髪染め一生馬鹿にできなくなる。

これも名乗らずに頸取らせた人ですね。

味方が落ち(撤退)ていく中でただ一人戻ってきて追っ手を防いでいる武士がいるので、木曾義仲の手勢である手塚太郎光盛が出てきて「立派な人だ、どなたであるか。」と訊くも「まずそちらが名乗れ。」と言う。手塚太郎が名乗ると「互いによい敵ということはわかった。考えがあって名乗らないが、戦おう、来い。」と返す。主を討たせるまいと手塚の家臣が寄って行くとその家臣の頸を自分の馬の鞍に押し付けて掻き切ってしまう。強い。圧倒的に強い。(でも巴は大男の頸を自分の馬の鞍に押し付けて”捩じ切って”捨てるので斎藤別当より腕力がある。ヤバい。)

手塚太郎はこれを見てじわじわ弱らせて馬から落とす作戦で行く。
名乗っていないので手塚は知る由もないが、実盛は実際のところ結構な老齢のため、体力も落ち、疲労から討ち取られてしまう。

手塚が義仲に報告し、変わった男で、錦の直垂(大将級の装束)をつけている割に手勢もおらず、最期まで名乗らず、関東訛りの声だった旨を伝えると、義仲は顔を見て「これは昔見知った顔だ。斎藤別当実盛だと思う。だがそれにしてはおかしい。随分昔に会った時、彼は白髪交じりのひげであったはず。今頃真っ白になっていてもおかしくないのに、この頸の髪やひげは真っ黒である。」と訝しみ、「樋口次郎兼光なら斎藤をよく知っているはず。」と樋口を呼んだ。(この樋口という男、義仲最期に登場する今井四郎兼平の兄らしい)

樋口は頸を見て「あな無残や(ああなんて痛ましいことか)。斎藤別当で間違いない。」と泣いた。義仲が「実盛で間違いなければ老齢だし白髪だろうに、何故間違いないと言えるのか。」と訊ねると、「斎藤別当に会うと常々、『合戦の時は髪やひげを黒く染めることにしている。じじいが若人と先陣を争っていると思われるのも嫌だし、じじいと侮られるのも悔しいからだ』と言っていたからです。」と涙ながらに語るので、髪を洗わせてみたところ、墨が流れて真っ白の髪が現れた。

斎藤別当実盛、実は義仲が父を討たれた時に義仲を預かって養育したとかで、義仲にとっての恩人に当たる…のに殺してしまったという…因果因果。

この墨を洗い流した斎藤別当の頸を見て義仲がさめざめと泣いたと書く本もあればそんな描写はすっ飛ばされているものも。底本によって大いに異なる部分のひとつかも。

この樋口が漏らした「あな無残や」を踏まえて芭蕉の「無残やな 甲の下の きりぎりす」が詠まれたとか。

和歌やら中国故事からの引用も多い詩的な節なので気になる人は原文読んでみてください。

実盛は髪の墨染めだけではなく錦の直垂を着ていた。本来大将にしか許されない装束だが、平宗盛(その時点の平家で一番偉かった奴)に「次の合戦で討死するつもりです。元々越前国の住人でしたが、近年は領地である武蔵国におりました。『故郷へ錦を飾る』と言いますので、せめて最期に錦の直垂を着させていただけないか。」と直談判したところ、宗盛も感動してそれを許した、という話。

「故郷に錦を飾る」というのが、前漢の二宮金次郎みたいなおじさん・朱買臣の故事から来ているので、「昔の朱買臣は錦の袂を会稽山に翻し、今の斎藤別当はその名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ。(朱買臣は故郷会稽山に錦を着て帰り、斎藤別当は北国の巷に揚げた。名は揚がったが身体はこうして路傍で朽ちていくのは哀れである。)」という文章に続く。まあ朱買臣も安楽に死んだわけではなさそうであるが…
また、「朽ちもせぬ その名ばかりをとどめおきて枯野のすすき 形見にぞ見る」という西行の歌も踏まえての「朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて…」につながっている模様。高名な歌人の墓だが、亡くなってみれば名を残しても今は空しく…という歌意。

武士的死生観に引いてる気配がする。というか武士的死生観とセットで描かれるのが基本的に嘆きと無常観の強調なのである。

木曾最期(義仲最期)

義仲最期は巴のヤバさ語りから始まる。「色白で髪が長くて顔立ちが非常に整っている。なかなかいない強弓(弦がめちゃめちゃ硬い分威力が高い弓。男でも引けない人は多いし義経の弓はしょぼい)が引ける精鋭兵で、”刀を持っては鬼でも神でも相手しようという一騎当千のつわもの”のため、義仲は戦のたびに巴に大太刀と強弓を持たせて一大将として扱った」とまで描写される。チート級の強さであるし愛妾の描写とは思えない。FGOで鬼の末裔扱いされるのも納得である。なお巴は後述する今井四郎兼平の妹と言われる(諸説あり)。
そんなことなので、義仲の手勢が残り七騎になるまで巴は討たれなかった。

その後義仲の乳兄弟である今井四郎兼平と感動の再会~お互いに別々の場所で「ここが死に場所になるか」という場面があったが、「いや今は義仲様/兼平がいない」と、互いの状況が気になって死にきれなかった、と言いあう。
なお他の段でも語られるが、乳兄弟というのは主人とその乳母の息子を指す。この場合兼平の母が義仲の乳母だったということ。平家物語の武士連中において乳兄弟の絆は堅く、基本的に同じ日同じ時同じ場所で死ぬことをよしとしている風潮がある。桃園の誓いか?

さて兼平合流後も追手は次々襲来するので撃退して逃げつつも義仲合わせ勢力は残り五騎に。まだ巴は残っている。強い強い。
ここで義仲から「この後人に討たれそうになったら、私は自害するつもりだ。お前は女なのだから、どこへでも逃げていくがいい」と言われるも巴はついていくが、余りになんども同じことを言われるので、ついには「ああ、よい敵がいるといい。最後のいくさしてお目にかけよう」と言う。巴の武士ポが高い。
そうしていると本当に武蔵国で力が強いことで有名な男が三十騎ばかりで現れたので、巴はその中に駆け行き、その勢の大将首を馬の鞍の前輪に押し付け、頸を”捩じ切って”捨てた。その後は鎧などを脱ぎ捨てて落ちていった。
……前段の斎藤別当(つわものおじいちゃん)でも頸は掻き切ってたんですよ……頸って捩じ切れる構造になってますか……?
なおこの斎藤別当を討った手塚太郎もここで死亡します。もう一人も落ちていく。

さてそうして今井四郎兼平と木曾義仲主従二騎となり、義仲にも疲れが見え、いよいよ最期と思われたので、兼平が「あちらに見える松原の中で自害召されよ。その間私は敵を防ぎましょう」と提案した。義仲は「京で死ぬべきだったものをここまで落ちのびて来たのは、お前と一緒に死のうと思ったからである。別々の場所で死ぬくらいなら、共に戦って討死しよう」と馬の鼻面を兼平の馬に並べようとする。兼平は自分の馬から飛び降り、義仲の馬のもとへ駆け寄り、「弓矢取りは年ごろ日ごろいかなる高名候へども、最期のとき不覚しつれば、長き疵にて候ふなり(武士はどんなに強いと讃えられても最期の最期で立派に死ねなければ(立派に腹を切れなければ)後世まで悪く語り継がれる)。」「大した者でもないどこぞの郎党に疲れ切ったあなたが討たれ、『あの木曽義仲をおれが討ったぞ』などと後世に語り継がれたらと思うと悔しくてたまらない。(それくらいであれば自害した方が誉れ高いから、)あの松原に入って(自害して)ください」と言い募るので、義仲も「それでは」と松原へ入る。

ここから五十騎ばかりをただ一騎で押しとどめ主の自害の時間を稼ぐ兼平の奮戦が始まるのであるが……

さて松原に入った義仲であるが、時は夕暮れで薄暗く、下は薄氷の張った深田(深くぬかるんだ田)もあり、気付かずその中に馬が足を踏み入れてしまった。そのまま馬が動けなくなったところで、兼平がどうなったか心配してそちらを振り仰いだところで、追手の矢が義仲の甲の内を射貫いた。深手を負った義仲はそのまま討ち取られてしまう。そうして兼平が恐れていた例の台詞が発せられてしまう……

それを聞いた兼平は「(義仲が討たれた以上、)誰のために戦うというのか(最早これ以上戦う意味も生きる意味もない)。これを見よ東国の殿方、日本一の剛の者の自害する手本だ」と言って、太刀の先を口に咥え、馬から真っ逆さまに飛び降りて太刀に貫かれるようにして死んでしまった。

次の段で兼平の兄に当たる樋口次郎兼光の最期が描写されるので、そこで義仲の軍勢は全滅というところ。諸行無常。

他に書きたかった段
知章最期
能登殿最期~内侍所都入(知盛の最期)
忠度最期


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