親友からのうれし悲しい悲しい報告  について

26年連続通算26回目の夏が来る。毎日大体同じ時間に家から出ると、周りなんか全く見ていないつもりでも、日々の機微もやっぱり分かるもので、朝からママチャリで走る小学生、電車内では高校野球の過去映像、オフィス街には半袖のYシャツ。そんな光景が季節を感じさせた。「今年の夏こそは」と何の目標もないのに意気込む僕は、子どもみたいに大汗をかいて、なんでか長袖を着て働いている。


26度目の夏ともなると、友人からの久々の連絡が「結婚」になるわけで、そりゃあもう嬉しくて嬉しくて、別に友人とも思ってない奴でも、返事はおめでとうの5文字くらいしか打たないけれど、その日1日はとっても幸せな気分になっちゃったりして、1人で回転寿司なんか食べたりもする。


結婚ということに対してかなりポジティブな気持ちを持っていて、ありがちだけどお互いがお互いの人生を支え合っていこうって雰囲気が好きで、よくある神父さんの言葉を真に受けていいなーとも思っている。


でも、子どもが生まれましたの報告は、相当なダメージを受ける。子どもは大好きで、年の離れた妹が生まれたときはずーっとお世話して、今でも溺愛しているし、いわばシスコン状態なのだけれど、そういうこととはまた違くて、仲が良い友人であればあるほど、なかなか立ち直れなくなる。学生時代に出会ったあいつ、転校した中学で前の席から初めて話しかけてきたあいつとか、高校時代に毎日一緒にコンビニの駐車場でダラダラしたあいつとか、大学時代に飲み潰れて部屋で暴れ回って笑ってたあいつとかとか。。。
今でも会えば思い出話なんかせずに普通に喋ってくれる友人たちが、子どもが生まれることで、あの時のあいつが死んでしまったように感じる。


かなり前に、面白い意見を話してくれた大人がいて、自分に子どもができたことによって、生き物の本来の役割である種の保存が一旦担保されて、自分の遺伝子が後世に残された感覚を持ち、そこで初めて自分の死について向き合えるらしい、という話を聞いた。


うまくは言えないけど、多分そういうことなんだろうなと思う。子どもができることで、自分だけの人生じゃなくなって、責任感とかまあいろんな感情や現象が起こるんだろうなと。たとえ自分が死んじゃっても子どもがいるから血筋は残されていくんだという実感。と同時に僕はそんなことを考えているかもしれないあいつのことを思い、友人の未来が生まれたことで、友人の過去が死んでしまったように錯覚する。


そう考えてしまうものだから、すごく悲しくなる。その時は、

「生きてるけどあのあいつはもしかしたら死んじゃったから弔いますの会」

を1人で開く。


めちゃくちゃどうでもいい会を毎度毎度開催しては、酒を煽りに街に出向く。赤ちゃんができましたの報告は、財布の紐を緩ませる。そのお金が回って、生まれた赤ちゃんたちにいい教育ができますようにと、あんまり思ってないけど願う。

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