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照らす人。手間を惜しまず、等身大で進んでいく|大庭周|インタビュー企画

眩しい笑顔が印象的な、大庭周さん。「照らす人」というキャッチフレーズがぴったりな彼は、まるで周りを温かく照らし続ける太陽のよう。穏やかなスカイブルーのグラデーション、海と空がよく似合う彼が、今回の主人公だ。

大庭 周(おおばしゅう)
1996年生まれの27歳。鹿児島生まれ静岡育ち。
株式会社LIXILで法人営業を2年したのち、島根県益田市の(一社)豊かな暮らしラボラトリーへ転職。2022年春に静岡へUターン。
現在は家業である製造・建設業のカネヤ工業で営業・広報として働きながら、これからの生き方について考えるトークイベント「生き博」を2019年に静岡でスタート。2022年12月からは、Spotifyラジオ「人生百貨店」を配信中。マイブームは、町中華巡りと週1回の純喫茶ランチ。屋号は『照らす人』

相手の理解度に合わせて、言葉を選びながら話す彼からは、やさしさと心配りがにじみ出ている。今は静岡の裾野にある家業で営業や広報など幅広く担当しているそう。

「約20〜30人の会社なので、大企業に比べると専門性というよりは、マルチプレイヤー的な要素が必要とされたりするんですよね。特に建設業の現場は、”生き物”のようだと思っていて、柔軟性、臨機応変さが求められる。なので、周囲を見て、手の届いていないところがあれば補えるように意識しています」

現場ごとに求められた役割を果たし、ゼネコンの担当者や施主の方から感謝の言葉をもらった時にやりがいを感じるという。最近は仕事の心の持ちようも分かってきた。

「自分で判断しなければいけない場面が多く、自分たちの思い通りにいかないことも多いので、その都度感情が揺れ動いてしまうと、状況に振り回されてしんどくなる。新卒入社した会社での経験も含めて建設業は4年目になりますが、「上手くいかないことの方が多い」という前提で仕事に取り組むスタンスが心地よいことに気づいてから、仕事に取り組む上で気持ちが楽になりました。
それまでは自分をよく見せようとしたり、失敗を極端に恐れてパニックになったりすることもあったのですが、等身大でいること、焦りすぎず平常心でいることの重要性がわかってきたんです」

学生時代、小学校からずっと野球一筋のスポーツ少年だった。様々な経験を経て、大学の進路では、経営学部を選択した後、LIXILに就職したと話す。

「今思えば、就活はあまり深く考えられていなかったかもしれません。家業がたまたまサッシの販売店を兼ねていたこと、話すのが好きだから営業は自分に向いているかもと思って。当時は迷いなくLIXILに営業として就職しました。
でも、入社して2ヶ月くらい経ったある日、21時ごろまで職場で残業して家に帰ってきたときに、ふと『自分は何のためにこの会社に入ったんだろう』、『この先どうしたくて今ここにいるんだろう』って思ったんです。今から5年以上も前なのに、その日のことはなぜか鮮明に覚えています」

その後、疑問を感じながらもLIXILの営業として活躍していたが、どうしても数字を追うことに違和感があったという。

「営業なので、どうしても数字で成果を評価しなければいけない部分もあります。先輩方に恵まれていたこともあり、同じ部門の全国の営業マン100人近くの中で、営業成績がTOP5に入ったこともありました。目標の数字を達成して嬉しい気持ちもある一方、だんだん数字を追うことに疲れてしまって。そんなとき、小さな会社のある担当の方がすごく自分に頼ってくれて。そのときに、事業規模の大小に関わらず、目の前の自分のことを必要としているお客さんだったり、会話をする中でこの人の力になりたいという人に対して純粋に貢献したい、という思いが強くなっていきました。日々葛藤してましたね」

目の前の困っている人に手を差し伸べたい』。彼のその価値観の原流は小学校まで遡る。

「鮮明に覚えている最初の記憶は、小学校6年生当時、好きだった女の子が教室で泣いていて。女子同士のいざこざに巻き込まれてたので、その子に寄り添おうと思い、話をずっと聴いていました。あとで『ありがとう』と言ってくれて、力になれたと思えて嬉しかった。勇気を出して手を差し伸べた経験ですね。その経験に限らず、思い返せば、少年野球のチームでも、困っている同級生や後輩に声をかけたり、保護者さんとコミュニケーションを積極的にとったりと、他の人が目を向けないところに目を向けていたかもしれません。周りを見て助けることは、自分の性に合っていると思っていましたし、自然にやっていましたね」

常に周りにそっと寄り添い、あたたかい気持ちを届けている彼。どうしてそんなにGiveの精神にあふれているのだろうか。

「小学校の時にいじめを受けていた経験が大きいと思います。仲間外れにされる精神的な辛さや、居場所がない孤独感をその時に感じました。その後、小学校6年生の時に、最高な友人に出会うことができて、支え合うことのあたたかさや大切さを知りました。あとは、小学校6年生の時に仲が良かった友人を、中学生の時に亡くしたことも影響しているかもしれません。彼は勉強も運動もできて、性格も良くて人望も厚く、本当に優しい非の打ち所がない太陽みたいな存在。生きたくても生きられなかった彼の分も、ぼくは生きなければいけない。そういった使命感が中学生ながらにありました。」

自分の価値や個性が最大限発揮できるところで、困っている人の力になりたい。そんな思いでLIXIL退職を決断。ただLIXILを辞める決断をした後も、なかなか近しい人には言い出せなかったという。

「辞めるってずっと言えなかったですね。お世話になった方々を悲しませたくなくて。その間も目標の数字はどんどん増えていき、どう達成すればいいかも分からなくなって。とても辛かった。
ただ、自分の原点である『困っている人の力になりたい』という部分は、当時から軸としてありました。
今後どうしようかと悩んでいる時に偶然、大学時代に出会った方から「島根で、教育・地域づくりに関わる団体を立ち上げるけど一緒にやらないか」と声をかけられて。地域づくりや教育、場づくりは当時興味があった領域で、このままLIXILで働き続けるか、知り合いの少ない未知の世界に行くかとても悩みました。ただ、どんな選択をしたとしても後悔したくないと思い、単身で島根へ移住することを決断しました。多くの友人たちはその選択をポジティブに捉えてくれた一方、両親に伝えたときに母は泣いていました。母の涙を見て、自分は親不孝なことをしてしまったと思いましたね。自分の選択で親を悲しませてしまったと思うと心が痛みましたが、ここは自分の信念に従おうと心に決めました」

益田(島根)で、毎日のように見ていた海

2年間過ごした島根・益田では、地域に寄り添い活気ある毎日を過ごした。学生時代は抵抗があった、家業の息子という、ある種の宿命。ただ、島根での経験があったからこそ、ポジティブに捉えられなかった跡継ぎへのイメージが、少しずつ変わっていったという。

「島根でいろんな大人と出会い、ライターとしてさまざまな経営者の方や働く方の思いをインタビューする中で、家業や父に照らし合わせている自分がいて。インタビュー中に自分にも家業があることを伝えると、家業を継いだほうがいいよとか、跡継ぎや継業について相談に乗っていただいた方もいました。そんなこともあり、少しずつ跡継ぎに対して、プラスの側面を見られるようになりました。だんだんと跡継ぎに対して霧が晴れていったような感じで。そんな状況でも父は、わたしの自由さや個性を理解してくれていましたが、『跡継ぎを考えていて静岡に戻ろうと思う』と打ち明けたとき時は、少し喜んでいたように思いましたね」


益田でお世話になった人たちと!

そして地元の静岡へ。当時、どんなことを考えていたのだろうか。

「当時暮らしていた益田の皆さんや地域をみていると、自分の地元が少しくすんで見えて。少しでも明るいニュースが増えればいいと思うし、ないならば新しい風を起こせたらと思っていたんです。益田は娯楽施設が少ないながら、毎日が楽しかった。その理由は、『ないならば作ればいい』という自治・自主性の精神をいろんな人が持っているから。人口の規模も近しく、ひとつの地方都市に過ぎない地元で、何かの形で力になりたい。下の世代に誇れるひとりの大人でありたいって思ったんです。
そのために、起業してやりたいことを実現する考え方もあったかもしれません。でも、家業を継ぐと新しい可能性に繋がっていくかもしれない自分のやりたいことがその中で実現できるんじゃないかと思えた。 ネガティブなところばっかり見るのではなく、ポジティブな見方出来たので、家業に携わる方向に舵を取ろうと決断しました」

日々仕事をする中で、具体的に意識して大切にしていることを聞いてみた。

「1つ目は、等身大でいることですね。嘘をつかず、素直でいる。これはとても大切にしています。営業って七変化みたいなのも必要になりますが、分からないことは分からないというようにしていますし、曖昧にしたままだとどこかで無理が生じてしまうんです。

2つ目は、手間を惜しまないこと。相手が心地よく過ごせるように、例えば、カタログに付箋を貼る、現場の地図を印刷する、お礼のメールやメッセージを書くなど、『少しの手間を惜しまずに自分が動くこと』を意識しています。相手の言っていることを理解するために、自分で情報収集をしたり、改めて聞き直したりなどもですね。
プライベートでも手紙を書いたり、誰かに会う時はお土産を贈ったり渡したりしています。『相手が喜んでくれるといいな』ということを、淡々とめんどくさがらずにしていますね。

意識していてもなかなか体現できることではない『手間の惜しまなさ』。今では自然とできるようになったという。

「小学校のつらい経験から『嫌われたくない』という思いが芽生えたのかもしれません。自分と関わりたいと思ってもらうには相手を喜ばせることが大事だと。そのために、トイレ掃除や草むしりなど人の嫌がることは率先してやるようにしてました。きっかけはそんな感じでしたが、今は本当に無理していなくて。自分の生き方として、ずっと貫いてきて、結果的に本当に素敵な友人に恵まれているとつくづく感じます。自分のスタンスを見つけられて良かったと思っています」

彼は、今後どんなことにチャレンジしたいのだろうか。

「仕事では、これから責任のある仕事を任される場面が増えると思うので、知らないことを知識として蓄えながら、自分だからできる仕事で貢献していきたいです。そのために、2級施工管理技士や現場で使う資格を取得したり、ちょっとした作図が出来るようにCADの勉強をしたりですかね。あとは、会社や業界のことを知ってもらうことで、私たちが関わっている建築業界の金属工事に携わりたい人が増える可能性があるので、製作過程を見学できるツアーを企画したり、従業員の家族向けの職場見学などを実現させたいです。

プライベートでは、日常や暮らしを楽しく、自分でメイクすることに意識高く取り組みたいですかね。お金を払って娯楽を得たり食料品を買ったり、サービスを受けたりしがちな毎日だと、便利ではあるけれど、何か物足りなかったりする。それに、お金がないと楽しみが半減したり不安になったり。その経験をしたからこそ、お金を出来るだけ使わずに日常を面白くしたいし、せっかく自分の人生を生きるなら、どんなことがあってもポジティブで楽しくいたい

それに自分ひとりではなく、一緒に生きてくれる友人や家族たちと面白い人生にしたいので、スポーツをしたりお茶をしたり、畑を一緒にしたり、地元の美味しい和菓子屋に行ったりなど、主体的な暮らしづくりにチャレンジしたいですね。「この街には何もない」とか、「地元には面白い大人がいない」と思っている小中高生に、自分の気持ちひとつで毎日が変わるんだよって伝えられたら本望です」


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