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カテゴライズされることのもどかしさ

『言葉にしだしたら
どうせラベル貼られて
他のあれこれと同じにされるよな』

ユニゾンの曲をごろごろしながら聴いていたら、この歌詞がふと頭に残った。
近年の行き過ぎたカテゴライズ文化?に少し嫌気が差していた自分にはビビっときた。

人を16個の種類に分類するMBTIや、○○界隈、○○症候群、○○ハラetc...

MBTIを否定している訳では無い。
自分も、相手の大枠を知りたいときや、会話の一環として聞くこともある。

ただ、それで相手の全てを知った気になりたくないし、知った気になってほしくない。

相手を自分の中の枠に収めて、その型からはみ出した部分は見えないように、入ってこないようにする。云わば、一種の思考放棄でとても暴力的だと思う。

人間は昔からカテゴライズをしながら生きてきたと思う。出身、血液型、年齢、性別... 挙げるとキリがない。
まぁ、その方が話が早く進むし、数が多いものを仕切る際に、ある程度は役に立つ。

何事も使い方次第だ。諸刃の剣ってやつ。カキン



本質を分かった気になっても、相手の腹の底は知れないし、人は日々変化している。これは気をつけなければならない。

自分や相手を1つの枠に収めることは容易で、不安に思っていることでも、同じカテゴリー化された人たちと居場所を持つことで落ち着く。

ただ、家族や友だち、恋人などの大切な人くらいは自分の枠に収めず、その人をその人としてカテゴライズしてあげたい。

なんだ、結局カテゴライズしてるじゃん。
皮肉だね、カテゴライズがあーだこーだ言っていたのに、自分もカテゴライズをしてしまっている。

要はやり方で、固く揺るがない防弾ガラスやレンガで枠を作るのか、膨らんだり萎んだりする風船や柔軟に靡くカーテンで枠を作るのかって話。

枠を設けるなとは思わないけど、柔軟に枠の形を変えられるようにしなきゃだね。

自分自身にもね、こういう人間だから、あれは出来ないとか思わずにさ。勿体ないし。

自戒の意を込めて。

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