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絶滅を止める意味って?

こんにちは。
暫くぶりでございます。
博物ふぇすの準備に追われています!
7月20日土曜日出展するので良かったら遊びに来てください〜🙈

その博物ふぇすには「ガクタメ」なるものがあります。
学問をエンタメとして消化し、楽しく学ぼう!
というような旨の企画です。
1つのテーマについて考えてアウトプットをして来場者にわかりやす伝える、が出店の条件となります。

テーマに合わせて、猿の図鑑や海外から取り寄せた本、ネットに公開されてる論文などを元について調べ、まとめてるのですが、私は本格的な研究をしてきた人間ではないので学術的に不備がないか、地元の同級生で国立大の生物研究に進んだ友人に確認をとりました。表記について色々指導をもらい、何が伝えたいのかわかるかなど細々チェックしてもらいました。

その友人と生物について会話している中での会話で、考えさせられることや発見があったので書き留めようという今回のnoteです。
以下長いので、とりあえず博物ふぇすだすよ!とだけ先に伝えておきます。。

友人との会話で。
「絶滅ってどう思う?人が手を出してでも止めるもの?私人為的な絶滅だったら人が手を出しても良いのではと思っているんだけど、この考えは傲慢?」
と聞きました。彼は
「本来であれば犬や猫は愛玩動物とならなければ絶滅していたと思う。生き物が生きて行く上でヒトという生き物にすり寄れる事も今は大事な時代なのかな。
僕はヒトも自然の流れで進化をしているから人に淘汰されてしまった生き物は自然の流れで生存競争に負けただけだと思っちゃう。」
と言っていてすごく納得しました。
でも彼は続けて
「守りたい人が保全とかすれば良いと思う。
みんなそんなことを考えていたら、国は豊かにならないし、いずれ人は自然によって滅びるんじゃない?」と。

人為的という人が自然物ではない生き物かの様に言うけれども所詮人も自然の流れで生まれた生き物です。
自然はヒトを守りません。でもヒトは生きるために自然を守ります。
生きるためというのは、それをすることにより自分の価値が見出せるとか、そういう顕示欲も含めてです。
全てはそのヒト次第で、自然があると厄介な人もいるでしょう。
そう言うヒトも生きるために自然を切り捨てます。
彼と私は相反する意見でありながら、そういう人がいるのもおかしくない。
何億年と歴史があり多くの生き物が絶滅と誕生を繰り返して来た中で、
人間が今種の保存をしてもそれは意味がないかもしれない。
でも、私は自分が猿が好きだし、いた方が嬉しいから何かできることを探している。
地球の流れから自分の人生80年、100年なんてほんの一瞬です。
自分がどう生きるか、生き物とどう関わるかなんて、
その人の幸福度が上がるか、人生が終わる時良かったと思って過ごせるか、でしかないな。と
大それたことをぼーと考えちゃいました。

私は少なくとも自分が生きている間に会える猿が一種減るのも悲しいし、本来見たい姿、いるべき自然の中で見れなくなるのも嫌です。
私一人がどうこう言ったところで無力であることも理解しているけど、0.0000000・・・・・1%でも何か良い方向に変わるならやる価値があるのかもと
意味を見出しています。

彼曰く短い人生で生き物のため、自然のために何かしたい人がいるならしたい人がすれば良い。と言っていました。
私もそう思うけど、少しだけ意識がわかるだけで何かが変わるなら嬉しいな~ってゆるく思っています。

過激な保全活動も目立ちますが、感情よりまず理を先につたえないと。
なぜを、伝えやすくするのが感情。
感情は危機感を煽ったり、同情を誘うたまに使うのではく、プラスに働く感情を元としないと人には響かないのかなと。
知的好奇心を高めて、楽しく良い方向へ少しずつ意識を変えていく。
そんな保全ができたらいいな。

と壮大なことを思っていますが、私は何一つできていません。
実際に現場で動いてる方は本当に心の底から尊敬しているし、私はそこへ微力過ぎるお金を送ることしかしてません。
少しでも興味を持って貰うことをできたら何か変わる?と思っているけど、
ただただ私は自然にいる生き物が好きなだけのヒトです。

他の生き物になったことがないので他の生き物の気持ちなんてわかるわけもありません。
でも考えてみよう、擦り寄ってみようと思うことはできる。

最近も悲しい事故があったり、動物福祉について
考えさせられることが多くありますが、考えを止めない限りは何か少しでも動きや変化はあると思うから、少しでも良い方向へ行けますように。

コロナで熱に侵されながら、
友人との会話を思い返して長々書いてしました。
感染症周りが猛威を振るってるので、
みなさんもお気をつけて!






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