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芝生さん

 芝生さんは、島が帰ってくるのを待っている。
 人影のない冬の小さな砂浜で、その日も芝生さんは海に向かって立ち尽くしていた。ジャンパーのポケットに手を入れ、ときどき思い出したようにあごの白い不精ひげをさすりながら、あいかわらず沖の方をじっと眺めている。昼間だというのに空は不吉な灰色の雲に覆われ、耳たぶを切るような冷たい風が吹きつけていた。波が足下まで強く打ち寄せ、たくさんの流木や木の破片と一緒に、スナック菓子の袋やプラスチック製の玩具があたりに流れ着いていた。そのすさんだ砂浜には、芝生さんと僕の二人だけしかいなかった。かもめさえもそこにとどまろうとはしなかった。

 一体いつから芝生さんがその小さな砂浜で島が帰ってくるのを待ち続けているのか、正確な時期は僕にも分からない。ただ、島について語る芝生さんの話しぶりや、海を眺めているときの目尻の深い皺や、糸のほつれたニットキャップや、黒い鉄が剥き出しになった安全靴のことを考えると、十年とか二十年とかいったとにかく長い時間のことだとは思われる。
「今より、わたしがもっと若い頃でした。わたしは、この浜で島を流した」
 僕が初めてこの砂浜に訪れたとき、芝生さんはかすれた声でゆっくりとそう言った。一ヵ月ほど前、ちょうど勤めていたテレビ工場を辞めたころだ。工場のベルトコンベアで運ばれてくるブラウン管を持ち上げようとしたら、ずくん、と感電してしまい、僕はそのまま病院に運ばれた。正確な原因は分からない。一週間病院のベッドで眠り続けたが、退院したときには何事もなかったようにもとの体調に戻っていた。ただ、右腕が自在に動かなくなっていた。痛みはないが、動かそうとすると小ぶりな鉄アレイを二、三個ぶら下げているみたいに不均一に重くなるのだ。それぐらいですんで良かったじゃない、と妻は僕を元気づけるように言った。しかしどうにも仕事にはならないので、テレビ工場は辞めることになった。そしてある夕方、夕飯の買い物から戻ってきたとき、妻は自分の荷物を残したまま家を出ていってしまっていた。部屋中探したが、一枚の書き置きさえ見つからなかった。
「島ですか?」、思わず僕は芝生さんの顔を覗き込んで訊ねた。そのときも夕飯の材料を買った帰りで、僕は芝生さんのそばに立ち、商店街の果物屋で買ったみかんを食べながら、芝生さんの話を聞いていた。大きくて甘いみかんだった。
「さようです。これぐらいの島でした」、芝生さんはそう言って、両腕で人を抱きかかえるぐらいの輪を作った。「今ではもっと育っていることでしょう」
「帰ってきそうなんですか」
「はっきりとは分かりません。正直なところ、本当は島を流すべきではなかったと、今となってはそう思います。だけれどもわたしは若かったのです。一度流したものはもう二度と帰ってこないかもしれません。だけれどもいつか、もうすぐ、この浜に島がふと帰ってくる気がするのです」
 芝生さんはそう言うと目を細め、あごの不精ひげをさすった。
 それからというもの僕は午前中のジョギングを終え、昼食を食べ終えると、毎日砂浜に行くことにした。妻も仕事も失い、特にこれといってやることもなくなったのだ。芝生さんは芝生さんで毎日砂浜の同じ場所に立ち、同じように背中を丸めて海の方をじっと眺めていた。そんなふうに毎日砂浜に行き、芝生さんと並んで海を眺めていると、ときどき右腕がかすかに痛むことがあった。肉の間を骨がほんの少しずつ移動しているような具合だったが、しだいに痛みとは感じなくなった。

 夕方になって雨が降り始めた。手をかざさなければ確認できないくらいの細かな雨だ。ためしに手のひらを空にかざしてみたら、芝生さんが僕の手のほうを見上げた。
「もうすぐ、まっくろな雲がきます。それから、でっかい雨を落とします。帰られたほうがいい」、芝生さんはかすれた声でそう忠告すると、また視線を海にゆっくりと戻した。たしかに遠くで巨大な雨雲が海に重くのしかかるように浮かんでいるのが見えた。雷の低い音もかすかに聞こえる。
「でも島が帰ってくるかもしれませんから」と僕は言った。
「それはそれは」
 芝生さんは納得するように何回か頷いた。
「島が帰ってきたら、どうなさるんですか?」
「どうにもしません。島のことですから浜に近づくだけで、また沖に消えてしまうでしょう。わたしには、島の姿をこの老いた目で見ることしかありません」
 沈みゆく夕日のように水平線からじっとこちらを眺めている巨大な島の姿を、僕は思い浮かべてみた。思い浮かべていると、やはり芝生さんが言うように島はそのまま消えてしまうのだろうと、なんとなく思った。
「ところであなたも島を流したのですか」
 突然、芝生さんが思い出したように言った。
 僕が? 
 と思ったが、口をついてはでなかった。そのかわり間をあけて「はあ」とか「ああ」とか適当な相槌を打った。芝生さんは何も言わなかった。そんなふうに毎日砂浜で芝生さんと一緒に海を眺めていたら、たしかに自分の島の帰りを待っているような気分にもなっていた。芝生さんが待っているのは僕が流した島かもしれない、そんなふうにも想像した。
 それから十分もしないうちに大粒の雨が降り始め、海面を激しく打ちつけた。雷鳴が低く轟き、真っ暗な空に閃光が走った。右腕が唐突に痛み始めた。強引な力で骨の中から引き裂かれるような激しい痛みだった。そんな痛みを覚えたのは初めてだった。ふとテレビ工場での感電のことを思い出した。雷がふたたび僕の体に電気を落とそうとしている、そんな気がした。痛みが耐えきれないほどになると、芝生さんに挨拶をして、僕は家に帰ることにした。右腕を抱えながら砂浜を走り、ためしに途中で振り返ってみたら、芝生さんは雨などまるで気にならないように身動き一つせず、樹木のように立ち尽くしたままだった。

 次の日は、朝から良い天気だった。窓を開けると、すずめが二羽、物干竿の上で鳴いていた。右腕の痛みもすっかりおさまっていた。
 ポストに一通の手紙が入っていた。妻からであった。なかには正式に離婚してほしいという内容の文章と、妻の名前が書かれた離婚届が入っていた。その意味が体に染みこむまで何回も読み返した後、手紙を食器棚の引き出しの中に入れた。そしていつものようにジョギングに出かけた。昼になると駅前の喫茶店で580円のランチを食べた。そのまま砂浜に向かうと、芝生さんはあいかわらず海を眺めていた。僕は芝生さんのそばまで歩き、まっすぐな水平線を見渡した。風はあたたかく穏やかで、海面は細かく光り輝いていた。僕が会釈をすると、芝生さんも黙って会釈をした。僕は砂浜に立ち、想像する。いつか海を渡り、この小さな砂浜に大きく立派な島が帰ってくる光景を。
 芝生さんと僕は、島が帰ってくるのを待っている。

(2003年作)


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