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夢と魔法とみどりのおっさん 第四話

■たとえば欲しい物がいつも売り切れていたり

 深夜二時。携帯電話が鳴る。ディスプレイに表示されているのは覚えのない番号だった。いくら手の中で黙殺しようとしても、呼び出し音が止む気配はいっこうにない。真夜中の電話というのはだいたい不吉なものだが、その呼び出し音には一刻を争うような何かしら性急な響きがあった。
 通話ボタンを押した。相手は組子さんがめずらしくノン・キッズだと判断した烏帽子田さんだった。
 ほらほら、そこにいるのよ。いつでもそれはすぐそばにいるのよ。まだ夢の中のように妻が喋っている。明かりのない部屋の中で、薄暗い緑が夜行性の注意深い生き物みたいにこちらの様子を窺っている。こめかみのあたりが少し濡れていた。どうやら僕は夢の中でなぜか泣いていたようだった。ねえ、ほら、あそこにいるのよ。
「烏帽子田のこと、雑誌に載ったの?」烏帽子田さんは乾いた声で訊ねた。
「え?」
「載せないっていう約束だったよね」
「ええ。烏帽子田さんの記事は載せないことになりまして、そのかわり掃除機の電源コードのいちばん根っこに赤いテープを貼り続けている人を紹介することになりましたから」
「ああ、あの、これ以上出ませんっていう印のやつだね」
「五十代の女性の方です。ストック記事としておいてあったものです。烏帽子田さんとは似ても似つかない人ですよ。安心してください」
「それもなかなか大変な仕事だな。根気と正確さが求められる」
「たしかにそうですね。親指の指紋なんかほとんどなくなってましたから」
「なるほど。誰かしらいろんなところが薄くなってくるもんだね」
 僕は携帯電話を耳につけたまま、体を起こし、両足を床につけて、ベッドに腰をかけた姿勢になった。そして目を閉じた。妻の声。あなただって薄くなりつつあるわよ。ほらここ。結構きてるわよ。
「でもね、安心はできんね」烏帽子田さんは低いトーンで言った。「黒スーツの男が家のまわりでうろついてるんだよ。連中はたぶん烏帽子田が約束を破ったのだと疑ってるんだろうな」
「約束を破った? どうしてそうなるんでしょう」
「用心深い連中だからね。あなたに話したことを感づいたのかもしれん」
「僕に話してもだめなんですか。誰にも話すつもりはないですけど」
 そう言った後、すでに組子さんに話してしまっていたことを思い出したが、それは言わないことにした。
「とにかく烏帽子田はしばらく身を隠すことにするよ。そして然るべき時がくるのを待ってる。それじゃあまた」
「ちょっと待ってください。然るべき時ってどういうことですか」
 烏帽子田さんの深くゆっくりと吐き出す溜め息が聞こえた。それは遠い山から吹き下ろしてくる風のようにも聞こえた。「あのね、王国を運営してる連中の表向きの顔はいつも良く見えてるもんだよ。誰もが素直に頷くような言葉ばかりを並べて、爽やかな色づかいでセットをつくって、大掛かりな宣伝をしてる。連中はいつも人々を一流ホテルの上客のように扱うけど、でも本当はそうじゃない。連中の目的は人々を成長させないことなんだわ。いつも同じストーリーで、いつも同じ乳臭いキャラクターで、いつも同じイメージで満足させるために、人々をいつまでも囲ってるんだ。そして本当は全然買いたくないものを買わせるんだ。もしそれを壊そうとする者がいたら、連中はあらゆる手段を使ってその者を叩き潰そうとするからね」
「でも烏帽子田さん自身もずっとそういう仕事をされてきたわけですよね」
「そうだよ。もちろん今でも着ぐるみ師としての誇りは持ってる。だけどいままで烏帽子田が相手にしてきたのは本当の子供だけだよ。小学生、あるいはそれ以下の幼児とかね。彼らを楽しませるために烏帽子田は精一杯頑張ってきたつもりなんだ。あくまで通りすがりの道化役だわ。でもあそこは違ったね。あそこは人々をいつまでも赤ん坊のままにしておくつもりなんだよ。それはとても危険なことだ。あなたも気をつけたほうがいい。すでに連中が近づいてきてるかもしれないからね」
「僕が他の誰かに話すのを防ぐんですね」
「鼠の頭を引っこ抜いた男の子がいたよね。わんぱく相撲をやっていた子。彼がもう王国を訪れることはないよ。近所に悪い噂がたって、近所づきあいもうまくできなくなっていることだろうね。これから彼がどれだけ努力したとしても、希望どおりの学校に進学できないかもしれないし、希望どおりの会社に就職できないかもしれない。つまり連中にはそれぐらいのことができる力があるんだわ」
「僕も思いどおりの生活ができなくなるかもしれないということですか。たとえば欲しい物がいつも売り切れていたり」
「そういうことだね。もちろん表面的にはわからないよ。たんなる偶然とか事故のように思えるし、はっきりとした証拠は何もない。だけどそこには確実に作為的な力が働いているということだよ。とてもえげつない」
 僕は組子さんのことを思い出した。夢と魔法の王国で嘔吐してしまった彼女もまた王国の力を知らず知らずのうちに受けているのだろうか。
「烏帽子田の禿げ頭があなたに迷惑をかけてしまったことは本当に忍びないことだと思っているんだ。気をつけてな。烏帽子田はしばらく身を隠すことにするけど」
「烏帽子田さんも気をつけてくださいね」
 僕は電話を切った後、台所に行った。そして大きいコップで麦茶を二杯飲み、再びベッドの中に入った。もうこめかみの涙の跡はすっかり乾いていた。

 東京のすぐそばまで大型低気圧が近づいているとテレビのニュースが伝えていた。
 朝から大粒の雨が降り続き、誰かが巨大な掃除機で吸い上げているような突風が吹き荒れていた。道端には骨組みだけの傘が転がり、駐輪場では雨ざらしの自転車が将棋倒しになっていた。駅のホームでは駅員キッズが声を荒げて電車の遅延を繰り返し知らせていた。会社に着いたのは十二時を少し過ぎた頃だった。編集部の室内はいつもより空席が目立っていた。まだ電車が動かずに出勤できないキッズもいれば、何らかの理由をつけて欠勤しているキッズもいた。ときどき風が窓を震わせていたが、ぱちぱちとキーボードを打つ無関心な音はいつもと同じように響いていた。
 編集部員キッズが頬杖をつきながら、朝からモニターで見ているのは新型車のカタログである。あるいは東証のトレーディングであり、テレビタレントの電撃離婚記事である。机の端に置いたスナック菓子にときどき手を伸ばしては、眠たそうな目つきでモニターを眺めている。空席の内線が鳴ってもすぐには受話器を取ろうとせず、しばらくしてから仕方なく誰かが代わりに出た。僕もまた彼らと同じように特に急ぐ仕事があるわけではなかった。僕が頬杖をつきながら閲覧していたのは夢と魔法の王国の公式サイトだった。まだ一度も訪れたことのない僕にしてみれば、最初それはただの豪華な遊園地にしか思えなかった。手間と金をたっぷりかけた張りぼてが建ち並んでいる架空の空間。だが、クリックを続けていくうちに、だんだんとそうではなくなってきた。いろんな画像を開いたりキャッチコピーを読んだりしていくうちに、それはどこかで見たことのある風景のように思えてきた。小さい頃からこの現実のどこかに実在すると信じてきた秘密の場所のように思えてきた。それがいったいどういうことなのか、自分でもよくわからない。ただ、一度ぐらいは訪れてみてもいいかなと思わせる何かがいつのまにか目の前をひらひらと飛び回りはじめていた。そして手を振って追っ払うのに一苦労だった。
 それにしても朝からあらゆるところが湿っている気がしてならなかった。机の上は雑巾で拭いたばかりのように濡れ、床のカーペットもじんわりと湿っていて、キーボードのエンターキーは何回か押さなければいけないほど反応が鈍くなっていた。時計の針さえも遅くなっているようだった。すみません、これってどう思います、隣に坐る入社二年目の女の子キッズがゆったりとした声で訊ねてくる。これってかなり変ですよね? 彼女が指をさすモニターには誰かのブログに貼りつけてある画像が映しだされていた。自宅で飼っている犬や猫やトカゲや九官鳥や昆虫に同じデザインのTシャツを着せている。暇な人なんだろうなぁ、たぶん、モニターを見つめたまま彼女は口の端を曲げている。彼女は以前大学の出版部に勤めていたが、「大学の」という部分が本人は気に入らなかったらしくて、二流ではあるが出版社に転職することにした。たぶん野球のユニフォームみたいな感じなんでしょうね、でもこういう発想おもしろいかも、どちらかというと彼女の話し方は僕の意見を求めているというより、その画像をおもしろい発想だと判断している自分のことを理解してほしそうだった。それにしてもなんだか蒸し暑いね、僕がそう言うと彼女は特に興味がなさそうにあたりを見回した。そうですか、明るい茶色に染めた髪の生え際にうっすらと汗が滲んでいる。ああでもそう言われてみればそうかもしれない。
 結局その日はずっとインターネットで検索を続けていた。だがいくらクリックしても、王国についての悪い噂などはどこにも載っていなかった。それに組子さんが見つけたような鼠の中の人物についてのサイトも見つからなかった。それは本当に多くの人々が理想として掲げている王国のことみたいだった。それでも烏帽子田さんの話を聞いたせいか、どこか不安な気持ちが漂っているのを完全に払拭することはできなかった。
 自分のまわりには黒いスーツを着ている人がずいぶんと多かった。ふと見ると来客用のテーブルに坐っていたり、コンビニのレジに並んでいたり、横断歩道ですれ違ったり、コーヒーショップの窓際の席で経済誌を読んでいたりしている。烏帽子田さんの言ったとおり、もしかするとその中に自分をつけ狙っている者がいるかもしれなかった。でももちろんいったいそれが誰なのか僕には見当もつかない。雨の中では誰でも同じように傘を広げ、誰でも同じように雨雲を憂鬱そうに見上げている。

第5話:https://note.com/osamushinohara/n/ncea5f6d2c7ce

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