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眠っても眠っても五月

 その朝、どこまでも続く土手の上で少年は身を起こした。髪を優しく撫でるような風が吹きわたり、川は穏やかに流れている。そばに女が立っていたので、少年は訊ねた。
「もう僕は六月に行けないの?」
「うん」女は少年に向かって頷いた。そしてスカートの広がりに注意しながら、少年のとなりに腰を下ろした。「もう六月に行くことはないんだ。このさきずっと、君はこの五月の土手で目覚めることになったんだよ」
「このさきずっと」少年は女の横顔を見つめながら繰り返した。
「たとえば、このさき君がクラスでいじめられても、高校受験に失敗しても、大好きな人に失恋しても、会社でリストラされても、結婚詐欺にあっても、老人ホームでひとりぼっちになっても、何が起こっても君は必ず、この気持ちの良い風が吹く五月の土手で朝を迎えるんだ」
「ふうん」
「すてきだね」
「うん」少年は答えた。そして立ち上がり、学校へ向かった。
 目覚めたとき、少年は青年になっていた。いつもの穏やかな川面をしばらくの間眺めていた。
「悲しいことがあったの?」となりに座る女が訊ねた。
「信じていた人に裏切られた」
「それは悲しいね。そして怒ってる?」
「昨日まで悲しかったし、怒ってた」
 青年は女に微笑むと、立ち上がって行き先もないまま土手を去った。
 目覚めたとき、青年は男になっていた。男は嬉しそうだった。どこからか段ボールの切れはしを持ってきて、土手すべりをしていた。
「おめでとう。赤ちゃん、生まれたんだね」女は小さな拍手を送った。
「いつか、こんなふうに一緒に土手すべりをするんだ」男は大きく笑った。
「この土手で? ここに来れるかしらね」女は首をかしげた。
「来れるさ、おれの子どもだよ」
 男は段ボールの切れはしを草の上に置きっぱなしにしたまま、会社に向かった。
 目覚めたとき、男は老人になっていた。老人は簡単に身を起こせなくなっていた。草の上で寝転んだまま、魚のように漂う雲を眺めていた。
「それでも私は、六月に行けないのかい?」老人は訊ねた。
「うん」女は老人のとなりで同じように寝転びながら返事をした。「このさきもずっと、この五月の土手で朝を迎えるんだよ」
「そうか。四月に戻れることは?」
「ううん」女は老人の目を見て、首を横に振った。「四月にも戻れないし、六月にも行けない。眠っても眠っても、目が覚めたらいつも五月だよ」
 しばらくすると、遠くから子どもの遊ぶ声が聞こえてきた。
「すてきだね」女が呟く。
「すてきだ」
 老人はそう言い、草の匂いを思いっきり吸いこんだ。そしてふたたび眠るように目を閉じた。

〈了〉
2022年作

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