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ようよ

 ビニール傘を取り違える。ありふれたことだ。持っていった人はそのまま気づかないことがあるし、持っていかれた人も傘立てに残ったビニール傘を差していけば濡れずにすむ。そんなふうにみんな雨を免れようとする。老婦から受けた人違いもビニール傘を取り違えたようなもの。私はそう受け流すことにして、新大阪のホームに降りた。
 いくつもの雲が漂うわりに日が眩しかった。清掃されたばかりなのか、目を刺すほどにホームの路面が光っている。バッグを肩にかけ、案内表示板を指差している中高年の団体の後ろから、私も同じように在来線の乗り換え先を確かめた。
 ふと、誰かに手招きされたように新幹線を振り返る。さっきまで自分が座っていたあたりの窓に目をやる。ちらちらと反射しているが、老婦のとなりにはもう誰かが座ろうしているようだ。出発のアナウンスが流されてドアが閉まると、真っ白になった窓はゆっくり遠ざかっていった。
 芽衣と待ち合わせをしている駅には、在来線に三十分ほど乗っていると到着する。私はつり革を握りながら、スマートフォンで芽衣とのメッセージルームを開いた。芽衣は律儀に、私の自宅からの最寄り駅から待ち合わせ駅への乗り換え順路を送信してくれた。東京で生まれ育った父親はきっと関西の電車に慣れていないと心配したのだろう。
 ── 一年ぶりかな? 天気はなんとか大丈夫みたい。改札口で待ってるね。
 芽衣からのメッセージを読み返す。いつのまにか私は私をかえりみている。
 あなたは目の前にある明らかなものから手をふっと離して、別のものを掴もうとすることがある。芽衣の母親に言われた言葉だ。
 ちょうど一年前、私と陶子は離婚した。彼女は芽衣を連れ、大学を卒業するときまで住んでいた神戸の実家へ戻ることにした。芽衣の親権を話し合うのにさほど時間はかからなかった。年頃の娘は母親と一緒に暮らした方が良いということと、離婚の原因であろうものを私は自身の内に感じ取っていたからだった。ただし一年に一度、三月に私が芽衣に会いに行くことを三人で決めた。
「芽衣は、それでいい?」
 片付けられたテーブルを前に、陶子はとなりに座る芽衣に訊ねた。芽衣は母親でもなく父親でもなく、どこかの空間を見つめながら頷いた。
 私は目の前に並ぶ二人に、疑問とも確認ともいえない口調で言った。「お母さんは来ないで、芽衣とお父さんの二人で会うんだよね」
「それはそうでしょう」芽衣の反応を待たずに陶子が早口で答えた。「三人で会うのは違うやろう」
 かつて陶子と初めて知り合ったのも三月だった。新しく発売するサプリメントのパッケージデザインについて、会社は外部のデザイン会社に依頼することにした。打ち合わせに出席した販売担当の私とデザイナーの陶子はそこで初めて顔を合わせた。話は一時間ほどで終わり、みんなで昼ごはんでも食べにいきましょうと外へ出ると、卒業式を終えた袴姿の女子学生たちがにぎやかに目の前を通り過ぎたのを憶えている。
 私と陶子は仕事以外でも二人で会うようになり、知り合ってから二年後に結婚した。小学生のときに父が家を出ていき、その後まもなく母が入院して病死し、十八歳まで児童養護施設で育った私の経歴について、陶子はこだわらなかった。
「あなたが気にしていなければ、まわりもそんなもんかって思うんじゃないかな。顔の良し悪しと一緒でしょう。どうしようもない」
「ようご、ようごって、施設のことをよくからかわれたけどね」
「それはきっと、その人自身が何かを気にしてるんだよ」
 こたつに入って絵を描いていた陶子は、手の中でペンをくるくる回しながらあっけらかんと微笑んだ。
 三年後に芽衣が生まれた。陶子はデザイナーの仕事を辞めて、育児に専念したいと言った。私も賛成したが、一人の力で二人を養うことに内心不安がなかったとはいえない。子どもの頃に経験した貧しい思いだけは二人にさせたくなかった。施設を退院して専門学校を出ただけの自分は他の社員より条件が悪い。私はとにかく仕事に打ちこんだ。朝は誰よりも早く出社し、毎晩遅くまでデスクに向かった。担当商品を掲載する広告の隅から隅までをチェックし、締め切り直前まで何度も作り直した。上司には一言も反論せず、得意先との接待の場ではポケットマネーで深夜の繁華街を回った。やみくもに働く日々が何年も続いた。やがて担当商品の売り上げが会社の柱となった頃には、休日も構わずに会社でパソコンのキーボードを叩いていた。
 芽衣が十二歳になった秋、陶子が離婚の話を切り出した。芽衣はピアノ教室の時間で家にいなかった。その夜は久しぶりに三人でイタリア料理店に行く約束をしていた。春になったらレンタカーで北海道を旅行しようとも話していたはずだった。
「たしかに、大きなけんかをしたことはあるよ」私はソファの上で前夜の酒が残ったままの身体を正した。「でもそのたびにちゃんと話し合ってきただろう。別れなきゃいけないことはないと思う」
「そう思ってると思ってた」フローリングの上で正座をしていた陶子は小さく息を吐いた。白いシャツのボタンがきちんと首元まで留められている。
「そうじゃなかった、っていうのか」
「うん」陶子は私に顔を向けて、はっきりと頷いた。「そうじゃなかった」
「やっぱりか」私は呟いた。
「やっぱり?」
 ──もう乗り換えた?
 芽衣からメッセージが届いた。
 送られてきた乗り換えの時間どおりに私が移動しているのを芽衣はわかっているはずだ。それでもわざわざメッセージを送ってくる芽衣の横顔を想像すると、ふっと肩の力が抜けた。私は車内に掲示されている路線図を確かめて、ついさっき通過したばかりの駅名を返信した。窓の外では、雲のあいだから日の光が柔らかく降りそそいでいる。幼い子どもが座席の上に立ちあがって外の景色を指差している。となりに座る母親がなんとか制しようとしていたが、そんな親子を包みこむように車内は穏やかだった。誰もがただ午前中の電車の揺れに身を任せていた。仕事先からメールの着信があったが、件名だけを確認してスマートフォンをポケットにしまい、つり革を握り直した。
 そのときふと、新幹線の老婦を思い出した。
 老婦は京都から乗りこみ、重そうな荷物を両手に提げて私のとなりの席に座った。小柄で、地味な色合いの服を着ていた。通路にはみ出すほど大きい荷物を大事そうに足元に置き、しばらくすると私の顔をじろじろ覗きこみ始めた。不機嫌な他人の顔色を窺うような恐々とした目だった。私は視線を合わせないようにしたが、老婦は少しずつ身を寄せてきた。
 やがて老婦の目は涙で滲んだ──ようよは……ようよはいいこやった、ようよにはほんまに悪いことしてもうた。あんた……こんなとこで何してるんや、あれからどうしてたんや。何年も連絡なしに、電話も全然つながれへん。わかってる……これも自分のせいやとはわかってる。自分のしたこと、心底悪う思ってる。あれからずっと、ようよのこと考えてんねん。あたしは自分のことばっかりやった。後悔してる。ようよは今どうしてるの? なあ……あんた……帰ってけえへんのか。

「なんて答えたの?」
 鮮やかな色合いのパエリアを自分の皿に取り分けながら、芽衣は訊ねた。
「窓の方にずっと身を寄せてたよ」私は答えた。
「人違いですって言わなかったの?」
「なんとなく言い出しづらかった。新大阪まですぐだったし」私はフォークで生ハムをたたんで口に入れた。
「そのおばさん、きっと落ちこんでるよ。またどっかに行っちゃったって」
「新大阪に着いて、荷物をまたいで通路に出るときも、名残惜しそうな目で見上げられたよ。自分の息子と間違えてるような感じだったかな」私は首をかしげた。「すぐに違う人がとなりに座ったみたいだけど、どうなったんだろう」
「京都から新大阪まででよかったね。新横浜名古屋だったら、もう息子として一緒に家に帰ってたかも」
 そう言って、芽衣は笑った。窓からの日差しに照らされた目は、一緒に暮らしていたときの芽衣と何も変わっていないように見えた。
 そのスペイン料理店へは芽衣が案内してくれた。陶子と二人で何度か来たことがあり、落ち着いた雰囲気が二人とも気に入っているんだと言った。駅から離れた人通りの少ない道に面していて、土曜日の昼食どきにしては客がそれほど入っていなかった。
「ファゴット?」
 芽衣が所属した吹奏楽部の話で、私は人生で初めて耳にした名詞を訊き返した。
「木管楽器で、低音とも高音ともいえない中途半端な音。なんて言えばいいんだろう……れんこんを大きくした形で、横からひょろっと伸びてるひげから息をふうって吹くの」
「よりによって、なんでれんこんみたいな楽器を選んだんだ?」私はコーヒーを一口飲んだ。私の知らない言葉を芽衣が口にしたことに少し気後れした。
「フルートとかクラリネットとか人気の楽器は希望者が多くて。最後に残ったのがファゴットだったから」
「れんこんって、食事でも残ることが多いね」
「お母さんも同じこと言ってた」
 一瞬の間の後、私たちは声を合わせて笑った。
 スペイン料理店を出ると、タクシーを拾い、県立美術館に向かった。次は私の提案だった。奄美大島を拠点に活動していた日本人画家の展覧会が開催されていた。南国で生活する人々や大きい葉の植物などを描く力強い筆致に、私は昔から惹かれていた。以前にも都内で開催され、三人で暮らしていたときに観に行こうと誘ったことがあった。しかし仕事のスケジュール調整がつかないまま、展覧会は終了してしまった。
「やっぱり芽衣にも見てもらいたいと思って。迫力のある絵だよ」私は窓口で入場券を二枚買った。
 テレビ番組でも紹介されていたせいか、館内は混雑していた。一つ一つの絵に人だかりができ、立ち止まって細部までじっくり見入るような雰囲気ではなかった。人の頭を避けながらなんとか鑑賞しようとしていると、芽衣はいつのまにかいなくなっていた。私はいくつもの絵の前を足早に通り過ぎて、別のスペースに移動していた芽衣に追いついた。芽衣はふらふらと絵に近づいたり遠ざかったりしていた。私がしばらく鑑賞に集中していると、また芽衣は人混みに紛れていなくなった。
 誰かと一緒に美術品を観てまわるのは得意ではない。鑑賞するペースは他人と違うし、家族とも違う。静まり返った空間で、絵の感想をひそひそと共有しながら歩調を合わせていると、次第に気疲れしてくる。いつのまにか私は一人で絵の前に立ち、同行していた相手は違う絵の前に立っている。
 出口に着くと、芽衣はソファに浅く腰をかけ、スマーフォンを触っていた。
「待たせたね」
「ううん」芽衣はスマートフォンを鞄に入れた。
「おみやげでも買っていく?」私はミュージアムショップを指差した。
「別にいいよ、外に出よう」芽衣は首を横に振り、立ち上がった。「前に来たことがあるから」
「え、なんだ」私は思わず声が大きくなった。「そうだったんだ。先に言ってくれたら良かったのに」
「ううん、違う。途中で思い出したの」芽衣は私の胸のあたりを見ながら説明した。「ずっと前、東京に住んでたときに観たことがあったなって。仕事で観に行けないって中止になった後に、わたしとお母さんの二人だけで観に行ったことがあったの。そのことを思い出した」
 そう言って、芽衣はすっと出口へ向かった。
 雨雲が空を覆い始めていた。次は芽衣が港で大きな船を見たいと言った。だが二人とも傘を持っていなかった。
「もうすぐ降りそうだね」私は手のひらを空に向けた。
「やめたほうがいいかな」
「港は家から近い?」
「遠くはないけど」
「仕方ない。また、見に行けるよ」
 私は芽衣の肩に手を置いた。芽衣はしばらく空を見上げていた。
 私たちは再びタクシーに乗り、港の代わりに駅前の繁華街へと向かうことにした。最近建ったばかりのショッピングビルに有名なアパレル店が入ったという記事を、私はスマートフォンで読んでいた。
「お母さんは忙しそう?」タクシーの中で私は訊ねた。陶子は神戸で再びプロダクトデザイナーの職に就いたようだった。
「うん。でもなるべく早く帰ってきて、晩御飯を作ってくれる。遅くなるときはわたしが準備してるよ」
「えらいね。ファゴットも練習しなきゃいけないのに」
「大丈夫。そんなときは自分だけ部活を早く切り上げさせてもらうんだ。まだパスタぐらいしか作れないけど」
 私は芽衣の言葉はそのままにして、窓の外に顔を向けた。大きな工事用トラックが迫るほど目前に停まっていたが、景色を眺めるつもりでもなかった。思い浮かんだのは、偶然となりに座った老婦のことだった。そしてようよという人物のことだった。まるで雨の日に靴下の先がいつまでも濡れているように、新幹線での出来事が残っていた。老婦は涙を流すほどひどく悔いていた。ようよを傷つけてしまったと。ようよに何をしたのか。ようよとは誰のことなのか。老婦の息子の子どもか、息子の妻か、それとも他の誰かなのか。ぼんやり連想していると、一瞬自分のことも思い浮かんだ。子どもの頃に母が入院した後、誰もいない古ぼけた家でしばらく暮らしていたことを思い出した。
 私は芽衣の方を振り向けないでいた。窓ガラスにうっすらと反射する芽衣の横顔を見ているだけだった。

 就職で上京してから一人暮らしを続けていた陶子は、きっと質素な生活に慣れていたのだろう。どんな部屋に住もうが、どんな食事をしようが、どんな洋服を着ようが、陶子は構わなかったかもしれない。しかしまわりに頼ることができないたった三人の暮らしを、私は満足するものにしたかった。いや、老婦の言葉と同じように私は私自身を満足させたいだけだったのだろう。私は私のために金を稼ぎ、私のために仕事に打ちこみ、私のために家に帰らなかった。肺炎で高熱にうなされている幼い芽衣を抱き、病院に連れて行こうとする陶子を、酒に酔って帰ってきた私はぞんざいに遇らうだけだった。そんなふうに三人のはずの暮らしを二人だけのものにさせてしまった。言い争いは度々繰り返され、いつのまにか私だけが違う絵の前に立っていた。だから芽衣がどういう洋服を好むのかも、私は知らない。
 芽衣が心許なく一人で洋服を選んでいる姿を、私は遠くから眺めていた。ビルの三階にあったその店は原色を使ったデザインの内装で、テクノ音楽がBGMとして流されていた。若い女の子たちで溢れる店内で、カジュアルな格好の店員が芽衣に声をかける。芽衣はぎこちなく会釈をして、私の見たことのない演技のような笑顔を浮かべる。私は思わず目を背けた。スマートフォンを操作して、電車の中で届いた仕事のメールを確認した。
 結局芽衣は何も持たずに、こちらに近づいてきた。
「欲しい服はなさそう?」私は訊ねた。
「あんまりいい感じのものはなかった」
「そうか。じゃあ他の店に行ってみようか」
「ううん」
「でも、欲しい服があるかもしれないよ」
 芽衣は首を横に振った。「いいよ、もう大丈夫」
「そうか」私は小さく息を吐いた。「なんか、関西弁ってやっぱりインパクトがあるよね。これだけたくさんの女の子が関西弁を話すのを聞いていると、元気になるような感じがしてくるよ」
「わたしのまわりはみんな関西弁だよ。家でも学校でも」
 なぜ関西弁を使わないの?──と訊ねる代わりに「関西弁は難しいよね」と私は返した。
「うん、難しい。家では練習してるけど、外ではまだ恥ずかしくて使われへんわ」
 自分の奇妙なイントネーションに芽衣は照れ笑いを浮かべた。
 他の階を見まわっていると、テレビゲームの売り場を見つけた。ディスプレイ用のゲーム機が設置されていたので、私たちはコントローラーを握り、対戦向けの格闘ゲームでしばらく盛り上がった。五時を少し過ぎていた。夕食は家で食べるんだ、と芽衣が答えたので、私たちはエスカレーターで一階に下り、テナントのカフェに入った。芽衣がココアを注文したので、私もそれに合わせた。
「こないだ大阪に遊びに行ってきたの」
 ココアを運んできた店員が離れると、芽衣は話し始めた。「いろいろお買い物とかしたんだけど、その後に吉本新喜劇を観に行ったんだ。東京に住んでたときもたまにテレビでは見てたけど、生は全然違うの。すっごくおもしろいんだよ。みんなが大笑いしたら劇場全体が揺れるの」
 芽衣は芝居のワンシーンを説明しながら、ときどき我慢しきれずに肩を揺らせた。今も芽衣の目の前で芝居が繰り広げられているみたいだった。くしゃくしゃになった芽衣の笑顔を目にするのはずいぶん久しぶりのことだった。
 話すなら今だろう、私は心の中で確かめた。スマホに届いたメールの内容を、もう一度頭の中で思い出した。
「今度ね」一通り笑い終えた芽衣に、私は切りだした。「台湾に行くことになったんだ」
「台湾?」
「そう。会社がもっとたくさん商品を売るために、新しい会社を台湾に作ることにしたんだ。台湾は知ってる?」
「聞いたことは、ある」芽衣は一歩引いた声で言った。
「沖縄からもう少し先にある島で、九州ぐらいの大きさ。日本から飛行機で三、四時間ぐらいかな。けっこう気軽に行ける海外だよ。そこに住むことになったんだ」
「住むの?」
 私は椅子の上で体の重心を少し変えた。「台湾の新しい会社で働くことになった。さすがに日本から台湾へ毎日飛行機で通勤するわけにはいかないから、台湾でマンションを借りて住むことになったんだ。そうしてほしいという話を会社からされた。最低でも二年は台湾でじっくり腰を据えてほしいっていうことなんだよ」
 芽衣は何も言わずに私の話を聞いていた。スプーンでココアをかき混ぜて、その先を口に運んだ。
「ずっと日本に帰ってこられないわけじゃない」私は続けた。「休みがないわけじゃないし、日本とは近いから移動時間も気にすることはない。ただ、知らない場所で一から始める事業だから、大変な部分がそれなりにある。自分の時間をきっちり取れるかどうかまだわからないし、そういった意味で会社も二年はしっかりやってくれと言ったんだと思う。だから、来年の三月にまたこうやって会いに来れるのかどうか、正直わからないんだ」
 私はテーブルの真ん中を見ながら、芽衣の視線を感じていた。だが私が視線を合わせようとすると、芽衣はふっと視線をココアのカップに戻した。
「お母さんにはこれから伝えるよ。でも、その前に芽衣に伝えておこうと思ったんだ。毎年三月に会うという約束をしていたからね」
「東京の家は?」芽衣が唐突に訊ねた。
「え」
「わたしたちの家。あそこには、もう誰もいなくなるの?」
 私は言葉につまった。つい芽衣から目をそらすと、誰もいなくなった東京の部屋が思い浮かんだ。その不在は一瞬にして陶子との暮らしをよみがえらせた。そして芽衣との暮らしをよみがえらせた。よみがえった瞬間、二人との思い出はあっという間に空っぽの部屋へと吸いこまれていった。
 台湾での家賃は会社が負担する。東京のマンションを引き払えば、そのぶん芽衣の養育費を増やすことができる。そういうたんなる算数的思考さえもついでに吸いこまれていった。
「やっぱり、引き払った方がいいと思う」
 しばらくしてから、私はやはり自分に確かめるように答えた。カップを持ち上げる指先が強張っていた。

 一人でご飯を食べてるとな──新大阪駅で降りる準備を始めた私に老婦は話し始めた──一人でご飯を食べてると、音が聞こえてくんねん。小さい、ぽつぽつとした音が。なんやろってよう聞いたら、雨の音。トタン屋根に雨粒が落ちる音や。ぽつ……ぽつ……ぽつ……。雨漏りでもしてんのかなって。外は雨なんか全然降ってない。それでも聞こえてくんねん、雨の音が。ぽつ……ぽつ……ぽつ……て。一人でご飯を食べてるとな。
 ビルの外に出ると、空は真っ暗だった。まだ雨は降りだしていなかったが、傘を持つ人はあちこちにいた。私は芽衣にその場に待っているように言い、ビルの中に戻って、雑貨店で傘を買った。どんな柄なのかは傘を広げて確かめなかったが、地色が薄いブルーで、持ち手が木で出来ていた。私は芽衣のところへ戻り、傘を手渡した。
「持って帰りな。家に着く頃にはきっとどしゃぶりだよ」
「うん」
 私たちは駅に向かって歩きだした。ロータリーで芽衣をタクシーに乗せ、帰路につかせるつもりだった。しかし予想よりも早く雨が降りはじめ、あっという間に勢いが強くなった。芽衣が買ったばかりの傘を広げようとしたところに、タイミングよくタクシーが近づいてきたので、私は手を大きく振った。
「ここでさよならにしよう」私は芽衣に向かって言った。
「うん」
「今日はありがとう」
「うん、ありがとう」
 芽衣は後部座席に乗りこみ、閉じたままの傘を横向きにして膝の上に置いた。私は芽衣に紙幣を渡し、運転手に向かって「よろしく頼みます」と言った。雨で濡れるのを気にしているのか、私が身を引いた途端にドアは勢いよく閉じられた。芽衣はこちらに向けて手を小さく振った。振り返す間もなく、タクシーは雨粒を弾きながら走り去っていった。
 とりあえず私は目についたコンビニへと走った。髪の毛や洋服に付いた雨粒を軒下で払ってから、店の中に入った。入り口から少し離れたところにビニール傘が並べられ、五百円の値札が付けられていた。まだ何本か残っていたので手に取るのは後にし、イートインのスペースに移動した。ポケットからスマートフォンを取り出すと、仕事のメールが何件か届いていた。対応が必要なものには、その場で返事を入力することにした。返事を入力しながら、陶子にメッセージを送るかどうかを迷っていた。そしてすべての返事を送信し終わった後、やはり陶子にメッセージを送ることに決めた。
 ──さっき芽衣をタクシーに乗せました。もうすぐ家に着くと思う
 スマーフォンをポケットにしまおうとすると、手の中が細かく震えた。
 ──わかりました。ありがとう
 思いのほかすぐに陶子から返事が届いた。まるですぐそばにいるみたいだった。
 ──芽衣、大人っぽくなったね。関西にも慣れてきたのかな
 私が送信すると、やはりすぐに返信される。
 ──もう一年経つから
 そうか、もう一年だね、そんな取るに足らない返事を入力しているのを見透かしているかのように、陶子からすばやくメッセージが届いた。
 ──今、芽衣が帰ってきました。今日はありがとう
 私はスマートフォンの画面を見つめていた。入力しただけの返事を消去した後も、しばらくその場に立っていた。
「ようよ」
 そう呼ぶ声が聞こえた。
 私は反射的に顔を上げ、あたりを見回した。人の姿はない。だが確かに声は聞こえた。私はイートインのスペースを出て、店の奥にあるドリンク売り場まで行ってみた。一人の女が立っていた。冷蔵庫の前で、ガラスに反射する自分の姿をじっと見つめている。雨などには遭遇していないかのように髪が背中までまっすぐ伸びており、祈るように両手を胸のあたりに留めていた。
 老婦がしきりに口にしていた、ようよ。それほどよくある呼び名ではないだろう。冷蔵庫の前の女がようよと声にして呼んだのか。あるいはこの女がようよなのか。私は商品を選ぶふりをしながら、女の様子を後ろから窺うことにした。こちらの角度からは顔が見えない。見えないが、冷蔵庫のガラスには影のかかった顔が映っている。誰かに似ていた。私はその薄暗い顔をじっと見つめた。
 ガラスに映る光と影の断片を一つ一つ選り分けていると、その向こうに誰かの顔がだんだん見えてくるようだった。もう少し近づこうと移動すると、光の加減でガラスの中の影も波を打つように変化した。形を変えていく光と影の中で、誰かに似ている誰かが見え隠れしている。
「なあ、ようよ」
 また呼び声が店内に響いた。どこかから誰かがようよを呼んでいる。よく通る声だが、男女の判別はできなかった。冷蔵庫の前の女は我に返ったように背筋を伸ばした。そして胸の上で重ねていた両手をほどき、声のする方へ足早に駆けていった。
 私も女が移動した方へ足を向けた。すでに二人は店の外に出ていて、軒下でこちらに背を向けていた。女のとなりに立つ者はパーカーのフードをすっぽり頭に被せていた。そして一本のビニール傘を広げ、ようよと呼んだ女の腕を引き寄せ、二人でためらいがちに歩き出した。途中互いに顔を見合わせて、笑うように肩を揺らせながら、激しい雨の向こう側へ遠ざかっていった。
 二人の姿が見えなくなるまで、私は立ち尽くしていた。やがて誰もいなくなり、雨の音だけが大きく響いた。やはり、と私は呟いた。やはりそこにある明らかなものとは違うものを私は取り違えてきたのだろう。そしてずっと恐れてきたのだろう。たとえばこのアスファルトを叩きつける雨。新幹線の老婦は私を息子であろう者と間違え、狼狽していた。老婦は再び息子を見失い、今でもようよへの贖罪を続け、雨の音を聞きながら一人で食事をしている。おそらく私も、そんな老婦の息子の一人なのかもしれない。
 ガラスの向こうから、誰かが両手を頭に乗せ、水しぶきを跳ねながら店へと駆け寄ってくる。ひどく濡れている。売り物のビニール傘はあと一本しか残っていなかった。一年後、と私は心の中で呟いた。一年後の三月、私は再び芽衣に会いにくる。それは明らかな約束なのだ。そのときは、港へ大きな船を見にいくことにしよう。
 私は一本だけのビニール傘をそのまま残して、店を出ることにした。ドアを開けると、入れ違いにずぶ濡れの誰かが店に入ってくる。肩で大きく息をして、何かを探している。私は振り返らなかった。そのまま一人で雨の中を駆けていくことにした。

〈了〉2022年作

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