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正月泥棒

 元日に目を覚ますと、毎年何かが盗まれている。部屋を見回しても、荒らされた形跡はない。二十年以上も一人で暮らしている1DKのアパートだ。いつもと大きく変わったところがあればすぐに気づく。窓の鍵は掛かっているし、クローゼットも閉じたままだし、こたつ布団も乱れていない。もちろん誰かの足跡なんかない。
 何かが消えていることに気づくのは、だいたい朝の支度を始める頃だ。食器棚からバターナイフが消えている。小皿にのせてラップで包んだおろし生姜が冷蔵庫からなくなっている。取り替えたはずのトイレットペーパーが芯だけになっている。生理用品が少なくなっている。窓際に置いている鉢植えの葉がすべて失われている。元日の朝、また何かが一つ盗まれていることにわたしは気づく。
 正月泥棒がやってくるようになって十年は経つだろう。ただ、もしかしたらわたしが気づかなかっただけで、正月泥棒はそれよりも前からわたしの部屋に侵入していた可能性もある。最初は気づかれないぐらい小さなもの──たとえば綿棒を一本だけとか──を盗み続けていたのかもしれない。たぶん正月泥棒は同じものを盗まない。盗むものを変えていくうちに、盗難に気づかれやすいものに手が伸びていったのだろう。
 この前盗まれたのはテレビのリモコンだった。大晦日の夜、こたつで背中を丸めながら、わたしは一人でオーケストラのクラシックコンサートをテレビで見ていた。見終わった後、たしかにリモコンをこたつの上に置き、ベッドの中に入った。そして元日の朝、天気予報を見ようとしたとき、こたつ布団を跳ね上げて探し回ることになった。テレビのリモコンがない生活は不便だった。メーカーに問い合わせると、わたしの部屋のテレビは古い型で、それに合うリモコンはすでに製造終了になってしまったとのことだった。チャンネルや音量を変えるのにわざわざテレビ本体まで立ち上がっていたけれど、果たしてそこまでして見るものなのかと面倒になってきた。結局それからテレビは点けないようになった。
 もしかしたら次はテレビ本体を盗みにくるかもしれなかった。正月泥棒にしてもリモコンだけ持っていても仕方ないはずだ。その大晦日、わたしは元旦の朝まで起きていることにした。どうせ見なくなったテレビを廃品回収代わりに持っていかれるのは構わない。ただ、一度この目で正月泥棒の姿を見てやろうと思ったのだ。
 近所の寺で撞かれている除夜の鐘を聞きながら、わたしはこたつに入って手紙を書くことにした。眠ってしまわないように文章を一行ずつじっくり考えていた。やがて鐘が鳴り止むと、ペンを走らせる音以外は何も聞こえなくなった。終わろうとする一年がどこか遠くでゆっくりと塗り替えられていくような静けさだった。
 ふと顔を上げると、台所におばあさんが立っていた。腰が曲がり、杖をつき、乾いたみかんのように小柄だった。おばあさんは少しずつこちらに近づいてくる。毛糸の帽子を深く被っているので顔はよくわからない。よくわからないが、顔の向きはテレビに向けられていた。おばあさんは杖をこたつの上に置き、抱きかかえるように両腕をテレビの上から回した。重さを確かめるように手の位置を微調整した後、呼吸を止めてテレビを一気に持ち上げようとした。その瞬間、テレビはおばあさんの手から離れ、大きな音と共に倒れ落ちた。その勢いで、おばあさんも植物が朽ち果てるようしなりと床に倒れた。
 目が覚めると、こたつの上で突っ伏していた。カーテンの隙間から元日の光が漏れている。いつのまにか眠っていたことに気づいた瞬間、わたしは部屋を見回した。おばあさんは床に倒れていない。真っ黒なテレビはいつもの場所に座して沈黙を守っている。やはりいつもの元日のように変わったところはない。
 ただ一つ、やはり盗まれていた。書いていたはずの手紙が消えている。誰に出すあてもなく書いていた手紙がこたつの上から消えている。そんなふうにして、わたしはまた何かが欠けた新しい年を迎えることになった。

〈了〉
(2022年作)

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