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髪をかきあげて竜巻 第三話

 梅雨前線が目前に迫った六月の中頃、東京東部と神奈川東部にデリヘアのダイレクトメールを郵送した。送付対象は以前と同じく六十歳以上の女だが、送付数は倍の千通に増やした。申し込みの数も最初の一ヵ月だけで二十件に届いた。ちょうど雨の日が多くて、外出が億劫になるタイミングも重なったのだろう。 新しい客からの申し込みに加えて、リピーターからの電話も少しずつ鳴るようになった。栞さんの話によると、国立の奥さんの足はすっかり治っていて、負担にならない程度のウォーキングを始めたようだった。寝言集の作成は相変わらず続けているらしい。自閉症の少年はカラーリングを希望してきた。最近通い始めたフリースクールで好きなバンドの話になり、メンバーの髪型を真似てみようということになったのだ。鏡に映った赤い髪を見て、少年は満足そうにしていたと栞さんは微笑んだ。老人ホームでの団体カットは予想どおり一日仕事になった。朝の九時から一人目をカットし始め、十人目が終わったのは夜の七時だった。途中、栞さんは老人たちと一緒に食堂で昼食をとった。帰り際には老人たちからもらった菓子折りや押し花や手作りの裁縫品など色とりどりの土産で、栞さんの両手はふさがれることになった。福生の独身男からは電話が掛かってこなかった。たぶん勇気を振り絞って、美容室の扉を開けたのだろうと僕は想像している。 夏が終わる頃には、栞さんがデリヘアに赴くペースは週に三回か四回までに増えていた。やはり店舗での営業もなるべく続けたいという栞さんの希望を尊重していたが、どちらかというとデリヘアが入っていない日に、店舗での仕事を入れるというスケジュールの決め方に変わっていた。そのかわり店舗を利用していた客が、次はデリヘアを希望するというケースも発生した。 デリヘアをきっかけにサプリが購入されることも増えてきた。カット中の客との会話から自然に健康についての話題になり、次第にサプリの話へ移ると、栞さんはトランクケースの中から商品のサンプルとパンフレットを客に手渡す。もし気に入ってくれれば、あらためて僕の会社の電話かホームページから注文してもらう。注文時に「栞さんのデリヘアで知った」という旨の一言を添えてくれれば、特別に割引価格を適用することにした。商品が売れた個数に合わせて栞さんにも手数料を支払った。そこまで費用をかけて栞さんを通じての商品購入へ導くのは、会社にとって有益な販売ルートだったからだ。栞さんというメディアを通して商品を購入した客は、その後も継続的に商品を買い続ける傾向が強かった。客はやはり栞さんとの関係を気に入っているのだ。どんな地方のコミュニティFM局やフリーペーパーより、栞さんは極めて局所的なニッチメディアとして、その有効性を存分に発揮しようとしていた。だがその有効性をユーチューブやインスタグラムで拡散させて、あっという間に消費させたりはしない。あくまで目立たず長く続かせるために僕は僕という圏内で仕事をするだけだった。
 中野は七月のボーナスを受け取ってから退職したようだった。「最終面接が二社決まってる。たぶんどっちも内定をもらえそうだけど、どっちにするかはまだ決めかねているんだ」と中野は電話で言った。どんな会社? などと僕は訊ねなかった。もし新しい会社でまた一緒に仕事ができそうなら連絡してくださいとだけ言った。それから九月になっても中野からの連絡は来ていない。中野の後任は彼の部下だった三十歳の男だ。紙メディアへの発注数が減ったこともあり、後任とのやりとりはネットショピングで入力フォームを埋めていくような程度の事務的なものだった。 チアキとは月に一回か二回のペースで会った。いつものようにデリヘルの店長を通して繁華街のレンタルルームで待ち合わせをし、一時間足らずの性行為を交わした。一度、自宅にチアキを呼んだことがあった。チアキから自宅に呼んでよとせがまれたことがあり、いつもと違う場所で会ってみることにふと興味が湧いたのだった。
「めっちゃ普通」
 チアキは1LDKの部屋を一通り見回した後、そう呟いた。
「逆に何を想像してたんだよ」僕は笑って、ペットボトル入りのお茶を二本テーブルの上に置き、ソファに腰を下ろした。
「すっごく物が少ないか、すっごく物が多いかのどっちか」チアキは僕のとなりに座った。
「ほとんど風呂と睡眠のためだけの部屋だからね。確かにもうちょっと簡素にしても良いかもしれない」
「テレビも大きくないし、大学生の部屋みたい。社長の部屋ってこういう感じなの」
「比べたことはないけど、零細企業なんてこんなものじゃないかな。特に僕はフリーランスに毛が生えた程度のものだからね」
 チアキはペットボトルのキャップを開けて、お茶を一口飲んだ。そしてバッグからスマホを取り出し、終了時刻にタイマーを設定した。「どうする、シャワー入る?」
「いや、まだいいよ」僕もペットボトルに口をつけた。
「じゃあタイミングになったら言ってね。でさ、よく社長って借金してる場合があるけど、マッキーはどうなの。借金ってあるの?」
「あるよ。自分に金を借りてる」
「なにそれ」
「会社を自分の所有にするために、会社から金を借りたんだよ。毎月自分の報酬からいくらか会社に返済してる。でも会社の所有者は自分だから、結局自分に返済してるってこと」
「ちょっとややこしいんだけど……それって不正経理?」
「違うよ」僕は笑った。「個人としての自分と会社としての自分。それぞれ財布が違うだけだよ」
「結局借金があるってことね」
「勘定科目としては、借入金は借入金だな」
 僕はチアキの横顔を見た。自宅の蛍光灯に照らされたチアキはいつもよりどこか無防備に見えた。「パトロンでも探してるの?」
「ううん」チアキは首をかたむけた。「そういうわけじゃないんだけどね」
「そろそろ、この仕事を辞めるとか」
「もうちょっと続けないといけないかな。ほらあたし、広島から出てきたって前に話したことあるでしょ。いつか広島に帰って、妹と二人で雑貨店を始めるためにお金を貯めてるんだけどね。ちょっと前に妹が病気で入院しちゃったから、あたしも看病で仕事を休まないといけなくなったり、入院費用も結構かかったりして。妹も前みたいにはまだ働けないし」
「妹の仕事は?」
「同じ風俗。関西の方だけどね」
「それで、もし支援者がいたらか」
「ちょっと弱音」チアキは苦笑した。「あたしは学歴も職歴もないし、顔もスタイルも良くないから、そもそも上等なパトロンなんかと出会えるチャンスはないんだけね。ほらよく、代官山あたりでアロママッサージ店の店長をやってますとかで、きれいな女の人がテレビに出てるでしょ。実際あの歳で代官山に店なんか持てるわけないの。基本的にあの人たちのやってることはあたしと似てる。景気の良い実業家の愛人になってお金を出してもらってるのよ」
「彼女たちには景気の良い実業家と出会える伝手があるんだ」
「そういうコミュニティがあるのよ。誰でも入れるわけじゃない。ちゃんとした社会的地位とか資格を備えてなきゃね。マッキーだったら入れるんじゃない」
「こんな小さなサイズのテレビじゃだめだろうな」
「あたしは小さくても良いよ。大学生みたいな部屋でも全然オッケー」
 チアキはそう言って、体をすり寄せてきた。そして僕の胸の上にそっと手を置いた。あらわになった首の後ろに小さな染みができているのを僕は見つけた。決して不快ではなかった。もし僕がチアキの立場なら、同じような言動をとるだろう。僕は冷静だった。そしておそらくチアキも冷静なはずだった。なぜ冷静な者同士が見え透いたような真似をしなければいけないのか。
「昔、聞いたことがあるよ」僕はできるだけ落ち着いた声を出した。「風俗の場で身の上話をするのはやめた方がいい。金と感情がもつれた毛糸みたいに絡み合って、取り返しがつかなくなる。最後は鋏でざくざく切るしかない」
「ふうん」チアキは少し顔をこわばらせた。「誰が言ってたの」
「僕だよ」
「あはは、なんだ」チアキはわざとらしく短く笑った。「冗談だって、マッキー。ごめんごめん、真剣な話なんかしちゃって」
 僕はチアキの方に体を向けた。「いつもチアキを指名しているのは、こういう方法でチアキと会うことが楽しいからだよ。僕にとっては大切な時間だ。でもそれが違うふうに変わってしまったら、もう楽しくなくなるかもしれない。もちろんチアキの雑貨店を支援できるほどの余裕はないというのもある。ただもし余裕があったとしても、僕はそういうコミュニティの人間みたいにはなれないよ」
 チアキはじっと僕の目を見ていた。窓際で遠くの空を見上げているオオルリと同じ目だ。妹と二人で雑貨店を開くことを真剣に夢見てきたのだろう。
「ありがとう」チアキは静かな声で言った。「いつも指名してくれるだけで助かってる」
「そういう意味じゃなかった。恩を着せるつもりはなかった。僕は自分が楽しみたいだけだから」
 それから僕たちはテレビを点けて音楽番組を見ながら、冷蔵庫に入れていたバウムクーヘンを食べた。「昨日滋賀に行ったときに買ってきたんだ。有名店らしい」と言うと「すごい分厚いね。店名教えて」とチアキはスマホで検索したり「こないだ、餃子のおいしい店見つけたよ」「このギターの人、不倫してるんだって」とか、バウムクーヘンを頬張りながら立て続けに喋った。喋り続けている途中、チアキとの関係を続けている僕というのは、栞さんとの関係を気に入っている客と似ているのかもしれない、そんなようなことが頭をよぎった。
 とりとめのない話をしていると、設定していたタイマーが鳴った。僕は床に置いていたリュックから財布を取り出して、いつも渡している金額をチアキに差し出した。チアキは何かを言いたそうに黙っていたが、結局黙ったまま金を受け取った。
「忘れてた」玄関でヒールを履いているチアキの背中を見て、僕は思い出した。「ペットショップ」
「ああ、あれね」チアキは振り返った。「雑貨店で飼えそうな動物をちょっと見てただけ。先の話になっちゃったけど」
「オオルリの置物は仕事場に置いてるよ。全然飛んで行かないけど」僕は冗談めかした。「他のオオルリはどうなんだろう」
「仲の良いお客さんには何人か配ったけどね。でも、そんな話をするのはマッキーだけだよ」
 チアキは手を振り、玄関のドアを閉めた。

 サプリの注文方法がネットなのか電話なのか、いずれかで客の動向は異なる。
 電話で注文する客は、雑誌や新聞に掲載されている広告の文章をじっくり読み返し、電話先のオペレーターから詳しい説明を聞き、あらかた納得してから購入手続きに至る。納得したぶんその先も購入を続ける場合が多い。
 一方ネットで注文する客は、ウェブページに記載された内容を流動的に見るだけで、購入ページに個人情報を記入するかどうかを比較的手軽に決める。購入動線へ導きやすいのはネット広告の方だといえるが、手軽に買うぶん一回きりしか買わない客が多い。
 確かに紙メディアへの広告を減らしてネット広告を増やしたことで、メールで届く日々の注文数は増えている。しかしサプリのような消耗品は継続的に買い続けてもらうことでやっと利益に繋がってくる。ネット注文の客をどのように継続的に買わせるか──読まれもしないメルマガを送付するよりかは、リターゲティング広告でネット上の顧客を追いかけることに力を入れなければならなかった。
 もちろん理想はデリヘアを通じてサプリを買った客の数が増えることだ。栞さんにカットしてもらった客は、電話注文の客よりもさらに継続的に商品を買い続ける傾向が強い。だが栞さん一人の手だけでは客の母数を増やすことに限界があり、今以上に出張の回数を増やすこともスケジュール的に難しい。ここが分岐点なのだろう。栞さんのデリヘアの稼動域を最大値まで引き上げ、その状態をできるだけキープしていくしかない。
 九月の最後の日曜日、僕は栞さんの自宅店舗でカットしてもらっていた。二ヵ月ほど伸ばしていた髪をさっぱり切りたかったということもあるが、今後の仕事について栞さんに相談したいことがあった。
「出張のペースは今ぐらいでも大丈夫ですか」ヘアエプロンをつけられた後、僕は鏡の中の栞さんに訊ねた。
「そうね」栞さんは僕の後ろ髪に鋏を入れながら答える。「午前中にしか出張が入っていないときは午後から店でのカットを入れてるし、その逆の場合もあるから、まあうまくやってるよ」
「ダイレクトメールを送る範囲を広げようと思うんです」
「うん」栞さんは鏡越しにちらりと僕を見た。
「栞さんのおかげでサプリを買ってくれるお客さんが増えています。しかも何回も買い続けてくれるお客さんです。僕としてはできるだけ質の良いお客さんを多く獲得するために、ダイレクトメールをまた送りたいんです。もちろん栞さんがカバーできる関東圏の範囲に限ってですが」
「質が良いんだ。びっくりだね」栞さんは僕の髪に櫛を通した。
「質の良いお客さんを可能なかぎり多く獲得するには、可能なかぎり栞さんに出張してもらう必要があります。たとえば店の営業を休んで、デリヘアの専属契約を結ぶことは今後の選択肢としてあり得るんでしょうか。栞さんにとって」
「専属契約」栞さんは微笑むだけで、自分の手元からは目を離さなかった。まるで僕がその話をするのをわかっていたかのような微笑みだった。
「結婚みたいな響きね」
「強引なことはわかっています」僕は続けた。「無理ならそう言ってもらって構いません。栞さんの事情もあるでしょうから。ただ僕としてはもしまだやるべき余地が残っているなら、できるかぎり塗り潰したいということです」
 そのとき突然、リビングから大きな物音が聞こえた。何か金属でできた部品同士がぶつかり合うような硬質な音だった。
「あ、言ってなかったね」栞さんは手を止め、僕の耳元に顔を寄せて声を小さくした。「今日は旦那が家にいるんだ。篠原くんは大体いつも平日にうちに来てたよね。土日でも旦那は外出することが多いんだけど、今日はずっとリビングで何かしてる」
 僕は黙って頷いた。頷くと、僕と栞さんを包んでいた空間が一瞬で不自然な形に歪んだような感じがした。空気が硬くなり、ほんの少しの物音や動きがぴりぴりと気になってくる。栞さんは変わらず僕の髪をカットし続けている。手にする鋏の種類を変え、ときどき僕の髪をかきあげて長さを確かめている。僕と栞さんが何を話しているのか、戸と廊下に隔てられたリビングまでは聞こえないはずだ。だが僕は、数メートル先にいる栞さんの夫の姿を想像せずにはいられなかった。そして、栞さんも夫の存在を意識しながら僕の髪をカットしているのかもしれない、そう想像せずにはいられなかった。ときどき自分の存在を忘れさせないかのように金属音がリビングの方から顔を出した。
「専属契約、ね」栞さんが話を元に戻した。
「ええ、専属契約です」僕は繰り返した。
「出張の仕事はね、とてもおもしろくやらせてもらっているよ。いろんなところに行けるし、普段は店に来ないようなお客さんとも出会えるし。毎回シチュエーションが違うのがおもしろい。でもちょっと考える時間が欲しいの。この店も始めてまだ五年ぐらいしか経っていないし、来てくれるお客さんもまだいるから。篠原くんみたいにさ。あと他にもいろいろと考えたいことがあってね。ちょっと待ってほしい」
「わかりました」僕は答えた。「特に急いでいません。ただ話がどうなっても、栞さんとはこれまでどおりの仕事を続けたいと思っています」
 カットが終わり、洗髪をされて、ドライヤーで髪を乾かされるまでの間、栞さんが一人でデリヘアに赴いたときの話を聞いていた。二十年以上ぶりに朝の通勤電車に押しこまれて窒息しそうになったこと、帰り際に激しい夕立が降って客が車で家まで送ってくれたこと、そしてある老夫婦からカットの後に夕食をご馳走になったこと。
 一つだけ奇妙だったのは、最後の老夫婦の話だった。客と一緒に御飯を食べることは僕でも経験がある。それは樫本さんという老夫婦で、栞さんにとって二度目の訪問だった。一度目は奥さんの髪をカットしたが、二度目は御主人の方だった。いくつもの本棚が並べられた書斎で、栞さんは樫本さんの髪をカットすることになった。それほど髪が伸びているわけではないし口数も少なかったので、時間は掛からないだろうと栞さんは予想していた。奥さんは一階の台所で夕飯の準備をしている。栞さんは準備を整え、樫本さんの首にヘアエプロンを付けた。そしていつものように鋏を動かし始めた。しばらくすると、樫本さんは窓の外の夕暮れを見つめながら語り始めた。

「川遊びをしたことはありますか」樫本さんは栞さんに訊ねた。
 樫本さんは幼いときから水が苦手だったようだ。生まれ育ったのが山に囲まれた田舎町で、川が多かったせいか、両親から水には気を付けなさいと口酸っぱく注意されていた。小学校での水泳の時間も樫本さんは億劫になって、体調が悪いと仮病を使って見学していたことが何度もあった。「水の中に入ることへの恐怖心が昔からあるのです。水の力は意外に強いものです。ただ私が経験したことは本当に水の力によるものなのか、よくわからないところがあるのです」
 樫本さんは声の出し方を調整するように、椅子の上で体の位置を少し変えた。「私が小学校に通っていた頃ですから七十年近く前、戦後間もない頃になります。私の家の近くには大きな川がありました。夏休みのある日、友だちがその川へ行こうと誘ってきました。正直にいうと気は進まなかったのですが、十人ほど友だちが集まるというので、私は傍らで大人しくしておけばいいやと一緒に行くことにしました。川に行くと、高い岩の上からみんな一人ずつ水の中へ飛びこんで、楽しそうに大声を上げていました。たぶん五メートル近い高さはありましたが、何の躊躇もなく、ひょいと岩肌を蹴って、栗色に日焼けした体を次々と川の流れに沈みこませています。そしてすぐにまた岩の上まで登っていきます。私もサンダルを脱ぎ、足を浅瀬に浸して、友だちが川に飛びこむのを離れた場所から眺めていました。とても暑い日だったのを憶えています。空の片隅では灰色の分厚い雲がこちら側を覗いていました。やがて天気が悪くなるだろうということは気にも留めず、みんな夢中になっていました。次第に川に飛びこむペースが早くなってきて、二人同時に飛びこんだりもしていました。私は途中から、友だちが飛びこんだときの水音を数え始めました。別に意味はありません。私だけ手持ち無沙汰ということもあり、友だちが飛びこむ動作に合わせて、水音をただ数えていたのです。私の場所からは岩の上から友だちが飛びこむ瞬間は見えますが、川面に着水するところは岩の陰になってあまり見えませんでした。だから余計にみんなの飛びこむペースが早くなるにつれて、私も一緒に盛り上がるように一生懸命水音を数えていました」
 栞さんはときどき鋏を動かすのを止めて、樫本さんの言葉に耳を傾けていたという。樫本さんは身動きをせず、ただ前方を見つめていた。
「やはり雲行きが怪しくなりました。突風が吹き始め、予想どおり雨が降り出したので私たちはそれぞれ家に帰ることにしました。家の電話が鳴ったのは夜のことです。ちょうど家族で夕飯を食べていたときでした。川遊びをしていた友だちの一人が家に帰ってきていないというのです。その子の親は警察に連絡をして、あちこちを探し回っているということでした。私たちが川から急いで走り去ったのは薄暗くなった夕方で、人数を確認したりはしていません。誰もその子が一緒に帰ってきたのかどうかは憶えていませんでした。川に流されたのか、あるいは川遊びからの帰り道で事件か事故に遭ったのか、大人たちはそれらの可能性を考えていました。不穏な状況に大人たちはざわついていましたが、私には引っかかることがありました」
 そこまで樫本さんが話したときには、すでにカットは終わっていた。あとは鏡で本人に仕上がりを確認してもらい、一階に下りて浴室で洗髪するだけだった。しかし栞さんは鏡を手にしようとせず、樫本さんの後ろに立って、川遊びの話をじっと聴き続けていた。
「昼間、川で遊んでいたときのことです」樫本さんは目を細めた。「友だちが次々と川の流れへ飛びこんでいくなかで、水音が一人分足りないような気がしたのです。一瞬のことです。私の数え間違いかもしれませんし、その後のみんなの飛びこむ姿を見ていて、ただの勘違いだろうとそのときは思い直しました。その夜、何の解決もされないまま、ひとまず次の朝を待とうということになりました。私は布団の中で気持ちを落ち着けて、昼間の様子をじっくり思い出していました。連続して聞こえる水音と飛びこむ友だちの姿を一つずつ合わせて思い浮かべていると、やはり一つの水音だけが聞こえなかったと思えてきました。そして、聞こえなかったのは行方不明になった子の水音だったとはっきり思えてきました。あの子は確かに岩肌を蹴り、川面にめがけて体を空中に放り投げました。それなのに飛びこんだ瞬間の水音は聞こえてこなかったのです」
 樫本さんは何かを思い出すように黙っていた。
「その子は見つかったんですか」栞さんは訊ねた。
「いえ」樫本さんは前方を見たまま答えた。「どれだけ川底をさらっても、草むらを探しても、不審者を取り調べても、あの子はどこにも見つかりませんでした」
「どこにも」
「どこにもです。あの子は岩の上から飛び降りて、川に飛びこむまでの空中でふっと消えてしまったのです。少なくとも私はそう思っております」

 栞さんは僕の髪をジェルでセットしていた。
「空中」僕は口に出してみた。
「そう、空中」栞さんは繰り返した。
「でもどうやって」
「そのことは新聞にも載って、いろんな可能性が検証されたんだって。警察は何日もあたりを捜索したけど、結局はっきりとしたことは何も判明しなかった。ただ、樫本さんがわたしに言ったのは、あの子がいなくなったのは自分が怖がっていた水じゃなくて、風に連れて行かれたんだって」
 栞さんはしばらく鏡越しに僕を見ていた。「竜巻が起こったって」
「竜巻?」
「その町では時期になると、よく竜巻が起こってたらしいの。ちょうど樫本さんたちが川遊びをしてたときも、季節天候ともに竜巻が発生する条件が揃っていたんだって。きっとその子が岩肌を蹴った瞬間、局所的に発生した小さな竜巻によってどこか遠くへ飛ばされた、樫本さんはそう考えてるみたい」
「竜巻なんて遭遇したこともないな。風が次々と建物をなぎ倒していく映像は、テレビで見たことがありますけど」
 もしそうだとしても、と僕は思った。もし本当に竜巻に飛ばされたとしても、なぜその子はどこにも見つからなかったのだろう。あるいはなぜ自分の足で家に帰ってこなかったのだろう。
 服についた細かい髪の毛を栞さんに取り払ってもらうと、僕は立ち上がり、料金を栞さんに支払った。
「それにしても」帰り際、僕は栞さんに言った。「なぜ樫本さんはそんな話を栞さんにしたのかな。不思議ですね」
「不思議だね」栞さんは首を傾けて、短く笑った。「一回目のときに、結構わたし自分のことを話しちゃったからかな。だから向こうもいろいろ話してくれたのかもしれない。夕飯までご馳走してくれたしね」
 扉を開けると、日は沈もうとしていた。その後の予約はもう入っていないらしく、振り返ると栞さんはヘアゴムを取り外して、何回か髪をかきあげていた。そのときにはもうリビングからの金属音は聞こえてこなかった。

 売上は水平線を描いていた。夏の朝の砂浜から見渡すようなくっきりとした水平線だ。世界はどこまでも水平線でできていると思えてくる。株が譲渡される前、僕はあえて会社の売上を横ばい状態のまま維持してきた。だが実際、その行為はあえてなどという一時的な状態だけではなく、いつの間にか会社の恒常的な姿を形作ってきたのだった。紙メディアからの注文が減ったぶんネットメディアからの注文が増えた。ネット注文の顧客は相変わらず継続的な購入になかなか結びつかないが、デリヘアの顧客は地道に商品を買い続けてくれる。結局、会社全体の売上としては上がることもなければ下がることもなかった。僕はまっすぐで平らな道を進みながら、毎日決まった作業を繰り返す。まるで毎日一つ一つのりんごを見て回る五所川原の農家みたいに。
「あんたはこの仕事に向いてるかもしれん」
 りんご農家の老人に言われたことを思い出した。自分の目と手が届く範囲で生計を立てること。必ず曜日を間違えないようにマンションのごみ捨て場にごみ袋を出し、自転車を十分ほど漕いで事務所へ通勤して、できるだけ負荷を掛けないように三世代前のノートパソコンを丁寧に扱い、夜は商店街の食堂でテレビを見上げながら野菜が多めの定食を注文する。昔と大して変わらない生活だ。特に胃の容積が大きくなったり、舌が肥えたりしたわけではないから、高級な食事をたくさんとる必要はない。体が巨大化したわけではないから、掃除が大変な広い部屋に引っ越す必要もない。化学繊維の進歩のおかげで低価格の服でも寒さを充分しのげる。もちろんある程度の金を得ることは必要だろう。だがそれは金の完全性に満たされるためではなく、むしろその不完全性を知るために必要なだけだ。あるいは──ほんのわずかしかないかもしれないが──金による交換不可能なものの存在を知れるかもしれない。常に最大の利益を求め続ける経営者の観点においては、きっと不適切な考え方なのだろう。だから脳天気な水平線がいつまでも続いているのだ。
 少しずつだが栞さんは店舗での仕事を減らしていき、そのぶんデリヘアの仕事を増やしていった。僕から栞さんに支払うギャランティの額も徐々に増加していった。ときどき栞さんと二人で食事をした。栞さんが訪問した客についての報告が話のほとんどだった。専属契約の話は僕の口から再び出さないようにした。栞さんのペースに任せた方がうまくいくだろうと思ったからだ。
 栞さんと酒を飲んで仕事の話をしながら、僕はふと当たり前のことを再認識する。僕と栞さんの関係には金が介在している。金があるから、こうやって二人で顔を合わせている。栞さんと客の関係にも金が介在している。だから栞さんはわざわざ電車を乗り継いで遠くの町まで訪問している。僕とチアキとの関係も当然同じで、最後に僕の自宅で会った以来なんとなく連絡は取っていなかった。金は不変ではなく、いつか必ず失われる。金が失われたとき、他に何か残るものがあるのか。金が失われたとしても、僕と栞さんとを引き会わせる交換不可能なものが残るのだろうか。
 僕はすでに栞さんの報告を聞いていない。栞さんの唇は僕に向かって絶え間なく動き続けているが、その言葉は僕の耳には届いていない。僕はただ、栞さんの目を見つめ続けている。瞳の奥の暗闇で波打つかもしれない何かしらの変化を読み取ろうとする。
「何かあったの」栞さんが不思議そうに訊ねる。
「ちょっと疲れてるだけです」僕は答える。
 栞さんが少しずつ変わってきたように感じたのは、九月の日曜日に竜巻の話を聞いてからだった。ほんの少しの変化だ。栞さんからスケジュール確認の返信が遅れたり、LINEの文章が硬めになったり、出張先からの業務終了の連絡がなかったことがあった。ただの僕の思い過ごしかもしれない。全体としてどういうふうな変化なのかをうまく説明することもできない。ただ何かしら、それまでとは違う風がどこかから吹いているような感じがしていた。
 僕は一度、樫本さんに電話を掛けた。栞さんが夕食をご馳走してもらった礼を伝えようと思った。
「先日はうちの者がお世話になりました。夕食をご馳走になったようで」
 電話に出たのは御主人だった。いくら待ってもコール音は鳴り続けていたので、諦めて受話器を置こうとしたときにやっと声が聞こえた。ゆっくりとした話し方だった。
「ああ、滝乃瀬さんのところの会社さんですね。こちらこそお世話になりましたよ」
「前回は奥様で、今回は御主人様をカットさせて頂き、ありがとうございました。ご夫婦揃って担当させて頂いたことに、滝乃瀬も喜んでおりました」
「それはそれは。私も妻も滝乃瀬さんにはとても親近感を持っていて、なんだか親戚の娘のような感じがしています。いろんな話をしてくれて、とても楽しかったですよ」
「樫本さんもいろんな話をしてくださったみたいですね。滝乃瀬から報告を受けたんですが、御主人様の子どもの頃の話がとても興味深かったと申しておりました」
「ああ、あれですね」樫本さんは短く笑い、咳払いをした。「なんだか変な話をしてしまったと反省しております。あんな話をするつもりはありませんでしたから。でもあの日、窓から夕方の穏やかな風が入ってきて、滝乃瀬さんに髪を切ってもらっていると、ふと昔の竜巻の話を思い出したんです。そしてなぜか彼女に話してみたいという気持ちになったんですよ」
「ということは、あの話は本当に起こったことなんですね」
「ええ、もちろん」樫本さんははっきりと答えた。「仕事からも世間からも離れ、老い先短いこの歳になっても、いまだ私の心に残っている出来事です」

 外部委託している商品の出荷センターは二カ所ある。東日本へは東京から、西日本へは岡山から出荷し、定期的な業務確認のために僕は二ヵ月に一度のペースでそれぞれのセンターへ訪問することにしている。ちょうど岡山の出荷センターを訪れるタイミングのときに、先方の営業担当者からデリヘアの話を受けた。
「うちの従業員で一人、ぜひ切ってもらいたいと頼んでくる者がいるんですよ。今回限りなのは承知していますし、もちろんお代もちゃんと支払います。もし御社さえ良ければ、の話なんですが」
 栞さんとデリヘアのスケジュールについて電話で確認した後、僕は岡山訪問のことを話した。
「なんでも千葉に住む従業員の親戚が栞さんのカットを受けたみたいで、いろいろ話を聞くと自分が商品を梱包している会社のサービスであるのがわかって、もしできるなら自分も頼みたいと思ったみたいです」僕はかいつまんで栞さんに説明した。
「千葉」
「岡山だと、僕は毎回一泊しています。いつも夜は懇親会の席を設けることが通例になっていますから。ただ、カットが終わり次第、栞さんだけこっちに帰ってくることもできますよ」
「ふうん」しばらく沈黙して、栞さんは答えた。「わかった。岡山には行かせてもらいたいし、篠原くんさえ良ければ一泊させてもらいたい。めったにないことだし、せっかくだからね。桃と吉備団子しか知らないけど」
 十一月の朝、僕と栞さんは新横浜駅で待ち合わせた。栞さんはいつものトランクケースを手にしていたが、格好はフォーマルなジャケットを着ていた。取引先の人と会うから一応ビジネス感を出してみたのと栞さんは照れくさそうに言った。
 新幹線が岡山駅に到着したのは昼前だった。僕たちは駅ビルの中の蕎麦屋で簡単に昼食を済ませてから、ロータリーに停まっていたタクシーに乗りこんで出荷センターへ向かった。埋め立て地に整然と区画整理された企業団地の中をタクシーは進んだ。道幅は広々としていて、建物の間からはときおり小さく切り取られた黒い海が見える。栞さんは物珍しそうに窓の外ばかり眺めていた。出荷センターの敷地内にタクシーが停まると、ちょうど先方の営業担当者が事務所の自動ドアから姿をあらわした。
「いらっしゃいませ」営業担当者は腰の低い態度を取りながら、いかに物事を効率良く進行させるかを至上命題としている男だった。「カットして頂く従業員はもう事務所の中で待っています。今日休みなので、いつでもスタンバイオーケーの状態で座っています。どうしましょう。篠原さんと私がミーティングをしている間に、従業員をカットしてもらう段取りでよろしいでしょうかね」
 促されるまま僕と栞さんは頷いた。栞さんは営業担当者に連れられて事務所の中に入っていき、僕は倉庫がある方へ向かった。天井が高く、様々な品物が並べられている巨大な倉庫内の一角に、僕の会社の商品を保管しているわずかなスペースがある。商品を梱包していた現場担当者の二人に挨拶をして、僕は現状の聞き取りと今後の予定について互いに確認した。しばらくすると営業担当者が戻ってきて、場所を変えましょうということで事務所の中にある会議室に移動した。応接セットが一式置かれているだけの狭い会議室で、僕たちは向き合ってソファに腰を下ろした。
「最近、めっぽう通販が増えてますね」営業担当者は口元を緩ませた。「既存のクライアントさんも出荷量が増えていますし、大手のクライアントさんからも新しく依頼がきてるんですよ。スマホの普及でますます通販が盛んになってるんでしょうね」
「うちみたいな小さな会社の仕事も扱ってくれて助かっています」
「いえいえ、篠原さんとは昔からの付き合いですから。今は何だって通販で物を買うから、いくら地方活性といってもシャッター街が元に戻るのは絶望的でしょうね。そのかわりうちみたいな立地スペースが必要な倉庫会社が地方に増えることで、その土地の雇用を活性化できますから、世の中ってうまくできていますね。実際この先、実店舗で残るのはどんな業種なのかな」
「何も残らないかもしれませんね」僕は別のことを考えていたことに気づき「企業のオフィスもそのうち縮小されるんじゃないでしょうか」と付け加えた。
「ただ、それでも場の力っていうのは確かにあるんじゃないかと、昔の人間としては思うんですけどね。あ、すみません、煙草吸わせてもらいますね」
 営業担当者は上着の内ポケットから煙草を取り出して、火をつけた。そして空中を漂う煙を険しい目つきでしばらく見つめていた。
「実は私、転勤することになったんです」営業担当者は声のトーンを落とした。「ほら、よくいわれるでしょう。サラリーマンはマイホームを建てたら転勤を命じられるって。まさにそのパターンですよ。私も半年前に新築の戸建てに引っ越したばかりです。子どもも二人いるので、単身赴任になりますね」
「どこに行くんですか」
「仙台です。東北なんて関西の人間にはほとんど馴染みがありませんからね。参りましたよ。篠原さんとこうやってお会いするのも今回が最後になります。ほんと今までお世話になりました。まったくよりによって、なんで私が転勤しないといけないのか」
 営業担当者は肺の中身を空っぽにするように煙草の煙をゆっくり長く吐き出した。僕と営業担当者の間で具体的な業務内容について話すべきことはほとんどなかった。すでに取り決めている出荷ルールに基づいてきちんと作業が行われていれば、あとは例外的なケースの対応を話し合うぐらいだ。やがて栞さんのカットが終了したとドアがノックされるまで、営業担当者は何度も煙草を消したり点けたりしながら、訊いてもいない他のクライアントの動向や今後の社内人事について長々と話し続けていた。
 その夜、岡山駅の近くで待ち合わせた和風居酒屋でも話題は大体同じだった。四人用の個室で僕のとなりに栞さんが座り、向かいの席では営業担当者のとなりに後任の若者が並んだ。後任の若者がとなりで聞いているのも構わずに、営業担当者は昼間と変わらずに会社への不満を漏らしていた。どうやら社内競争において、彼は出世レースに勝てなかった上司の派閥に属していたみたいで、今回の転勤もその影響だと考えていた。彼の言い分としては、自分はそんな派閥に属した憶えは一つもなく、ただその上司からよく飲みに誘われていただけということらしい。彼は入社してからまわりの社員全員とうまく付き合っていくことを考えてきたのに、今や社内にいる人間は自分にとって全員敵なんだとこぼしながら、日本酒を何杯も手酌で注いだ。
「滝乃瀬さんは、ずっとフリーで仕事してるんですか」営業担当者はろれつの回らない口調で訊ねた。
「ええ、ここ何年はずっと自分で仕事してますね。若い頃は美容室に勤めてましたが」ほとんどグラスを空けていなかった栞さんは微笑を絶やさずに答えた。
「立派ですよ。自分の腕一本で食ってるなんて。私なんて毎月のちんけな給料を目当てに、定年まで無事に会社にぶら下がっていられるのか、そればっかりを毎日考えてるんですから。憧れますよ」
「美容師の資格なんて学校に行けば取れるし、わたしもいろんな人に助けてもらっていますから」
「いやいや」営業担当者の声が大きくなった。「女性でこれだけ立派に活躍されているのはすごいことですよ、ほんとに。尊敬に値します。うちの女社員も見習ってほしいぐらいですよ」
 ふいにとなりの若者が我慢しきれないようにスマホを耳にあてた。会社からの緊急電話だと早口で説明し、足元が覚束ない営業担当者を強引に立たせて、二人で席を外した。扉を閉める瞬間、若者は申し訳なさそうな表情でこちらに頭を下げた。十分ほどして二人が席に戻ってきてからは若者の仕事の話になり、営業担当者はばつが悪そうに黙っていた。ほどなくして会計を済ませると、若者は流しのタクシーを止め、営業担当者を先に車内に押しこんでから二人で帰路についた。
 宿泊するホテルまでは歩いて戻れる距離だった。冬の始まりを告げるような冷ややかな風が吹いていて、僕と栞さんは身を固くしながらホテルへと足を進めた。煌々と建ち並ぶチェーン店の居酒屋の前を通り過ぎていくと、ある雑居ビルの入り口に古めかしいバーの看板を見つけた。地下への階段を覗いてみると、暖色に灯ったランタンが扉の横に吊られている。
「ちょっと……飲み直そうか」
 栞さんの言葉に答えるまでもなく、僕は先に階段を降りていった。
 店内はカウンター席だけの作りで、客は誰もいなかった。照明は薄暗く、酒瓶が並べられた棚の前では、固そうな白髪を短く刈りこみ、ワイシャツにネクタイを締めたマスターが文庫本を読んでいる。僕たちはいちばんの奥の席に座り、二人ともマッカランを頼んだ。沈黙したときにだけ聞こえるぐらいの音量で音楽が流されていた。
「あの営業担当の人は、篠原くんより歳上かしら」栞さんは頬杖をついて僕を見た。
「僕と同じぐらいです」僕はワイシャツの袖をまくった。「僕も会社勤めをしていたから、気持ちがわからないことはないですね。社内での立ち振る舞いも仕事のうちと評価されますから」
「なんか、しみじみするね」栞さんはにこりとした。「わたし、こういう会社付き合いの経験ってないから」
「会社員にはありがちなパターンですよ。ただ、しみじみはだんだん、じめじめしてくる場合がありますからね。気をつけないと」
「あれ、それはおもしろいの?」
「おもしろくないですね。どちらの意味においても」
 笑っている二人の前に二つのコースターが差し出され、その上に二杯のマッカランが並べられた。口に含むとしっかりした風味が鼻腔から抜け、熱い塊が喉の下へ流れ落ちていった。栞さんは何回か丸い氷をからから回してから、唇の先をグラスにつけた。
「そういえば」僕は思い出した。「僕、今日のカットの人に会えなかったな」
「男の人だったよ」
「男?」
「わたしよりちょっと上の歳ぐらいかな。すごく物静かな紳士的な人で、カットする必要があるのかなって思うぐらい、髪もきちんと揃えられていた」
「どうしてその人は栞さんにカットしてもらいたかったんだろう」
「別にわたしだから、っていうわけではないでしょう」栞さんは長めにグラスに口をつけた。「環境を変えてみたいってことじゃないかな。いつも同じ場所でいつも同じようにカットされてるのはつまんない。たとえやることが同じでも、自分の家とか仕事場とか屋外とか場所を変えることで、気持ちがいつもと変わることがあるじゃない。ただそれだけのことだと思うよ」
「栞さんもそうですか、出張のとき」
「私もそうよ。気持ちが変わる」
「たとえば今日は」
「今日のカットも、いつもとは違う気持ちだったよ」
「今、岡山のバーでは」
「今も違っているかもしれない」
「行為と場所の関係」
「難しい話ね」栞さんは言った。「でも、とても深い関係よ」
 ふと流れている音楽が耳に入った。店に入ったときは古いフリージャズが流されていたはずだったが、いつの間にか現代のフュージョンに変わっている。学生時代によく聞いていた曲だった。マスターはカウンターの隅で足を組んで座り、文庫本のページをめくっている。書名はよく見えないが、やはり若い頃に読んだことがある本に思える。たぶん何度も読み返しているようで、複雑に積み重なった地層のような皺が表紙に刻まれていた。
「最近はお店に来るお客さんも減りましたね」僕は切り出した。
「徐々に減らしてきたの」栞さんは答えた。「予約したい日が合わないっていうことでだんだんお客さんの方で諦めてくれたり、自宅でのカットに切り替えてくれた人もいたり。今じゃ店に来る人は数えるほどになっちゃったよ」
「それは、僕と専属契約を結ぶ状況になったと解釈していいんですか」
 栞さんは笑った。「そういう解釈しかできないでしょうね、たぶん」
「だったらうれしいです、とても。今年の春、栞さんが僕の依頼を受けたくれたときよりも」
「今年中には店の営業はストップできると思うよ。これでわたしのメディア化大作戦は成功したのかしら」
「すでに成功してますよ」僕は親指を立てた。「これからは成功が途切れることなく続くことになりますから」
「貴重なフォロワーを大切にしないとね」
 栞さんはグラスに浮かぶ氷に向かって微笑んだ。そして思い出したように後ろ髪に手をやった。昼間のカットのときからずっと髪留めで束ねていたままだった。栞さんは髪留めを取り外した。そして髪をかきあげ、左右へ解放するように指で何度か梳かした。それはまるで地面から飛び立とうとしている鳥の羽ばたきのようだった。淡い風が流れてきて、僕はふと樫本さんの話を思い出した。
「竜巻は本当に起こったのかな」僕は口にした。
 栞さんは別のことを考えていたようで、僕の顔にしばらく目をやった。
「川遊びね。私も最初はよくわからなかったわ。空中の子どもを一瞬にして連れて行っちゃうことなんてできるのか。すぐ近くで他の子たちも一緒に遊んでいたはずなのに」
「竜巻って普通、何もない平らな場所で起こりやすいと聞いたことがあります。岩や木があるごつごつした場所で起こったとは考えにくいと思いますが」
「確かにそう考えると、竜巻が起こったとは言い切れないよね。でも同じように、竜巻は絶対に起こらなかった、とも言い切れないんじゃないかしら。私たちはその場にいなかったわけだし。一つ言えるのは、そのとき川原にいて、一人一人の水音を数えていた樫本さんにとっては、それは竜巻だった」
「樫本さんにとっての竜巻」僕は繰り返した。
「だって誰にも何もわからない。誰も本当のことを教えてくれない。検証も分析もできない。だったら竜巻が起こったという話も、誰にも反証できないんじゃないかしら」
「ひょっとすると、行為と場所が深く関係したのかな」僕は斜め上を見上げた。
「したのかもね」
「竜巻の気持ちが変わった」
「ないとはいえない」
 それから僕と栞さんは何杯か酒を注文した。グラスを傾けながら、互いにぽつぽつといくつかの話を交わした。どれだけの時間が経過したのか、よくわからない。ただその夜、そのバーで栞さんのとなりに座っていると、僕と栞さんとの関係に何かが発生しているように思えた。二つの席の間にあるわずかな空間に、それまで感じたことがなかった空気の塊のようなものが浮かんでいるような気がした。あるいはずっと以前から浮かんでいたのに、僕が気づかなかっただけかもしれない。竜巻の話をしたから、気づくことができたのだろうか。いずれにせよそのとき栞さんと言葉を交わしながら、僕はそんな空気の塊を飛び越えたいと思っていた。塊の向こう側に座っている栞さんをこの手で抱きたいと思っていた。
 店を出て、僕と栞さんは近くのコンビニに入った。プラスチックのかごを手にして、ホテルの部屋で酔いを覚ます飲み物をいくつか選んでいた。僕は冷蔵庫のドアを開けたり閉めたりしながら、いくつかの言葉を思い出していた。僕はチアキに言った──自分は今の関係が楽しい、関係が変わったら楽しくなくなるかもしれない──僕と栞さんの関係だってそうだろう。僕は今、栞さんと仕事をしていることがおもしろい。僕と栞さんが寝ることになったら、その先におもしろくないことが起こるかもしれない。鋏でざくざく切るように、仕事の関係は破綻してしまうかもしれない。ただそれでも僕は栞さんを強く求めている。仕事の関係が破綻してしまったとしても、他の何かは残るかもしれないと思い始めている。この後、ホテルの部屋に栞さんを誘うところを僕は想像する。そしてベッドの上で栞さんと抱き合い、栞さんの中に入るところを想像する。やはり僕は僕を満たそうとしている。それはただの思いこみだ。僕を満たす方法を知っているのは、すでに僕ではないことはわかっている。
 コンビニの袋を提げて、僕と栞さんは信号機が青に変わるのを待っていた。信号機のすぐに向こうには僕たちの泊まるホテルがある。僕と栞さんは手がふれあいそうなぐらいの距離で立っていた。一瞬強く冷たい風が吹き、ほどかれた糸のように栞さんの髪が舞い上がる。
「栞さん」僕は思わず声をかけた。「これから、僕の部屋でもう少し話しませんか。酔い覚ましもかねて」
 栞さんの横顔は信号機ではなく、夜空を見上げていた。夜空にある何かが反射しているようで、瞳の奥が波打っている。
「もう少し話しましょう」僕は繰り返した。
「篠原くんは、知ってるの」栞さんは小さな声で訊ねた。
「知ってる?」
「あ、ごめん……今日は久しぶりに緊張したからね。ちょっと疲れちゃった」
「そうですね」僕は信号機に視線を戻した。「僕も結構飲みましたよ。また明日にしましょう。新幹線早いですから」 僕と栞さんは横断歩道を渡り、ホテルに入った。僕は水でも飲んでしばらくロビーのソファでクールダウンしてからに戻りますと言った。栞さんは頷き、一人でエレベーターに乗りこんだ。
「今日はありがとう。また明日」 栞さんは手を振った。やがてエレベーターのドアが閉まり、硬く冷たい静寂がロビーに訪れた後も、僕は上昇していくエレベーターの数字をしばらく見つめていた。

第4話:https://note.com/osamushinohara/n/n06e33e2cad50


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