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昭和97年のドブネズミ 第四話(最終話)

[今、小田原駅に着きました]
 うどんからのメッセージがドブネズミのスマホに届いたとき、いくつかの星が夜空に散らばっていた。空と海の境目は夜の闇によって失われている。国道沿いの歩道で立つドブネズミを、車のヘッドライトが照らし出した。ドブネズミの姿を目にしたドライバーがどんな表情を浮かべているのか、彼はもう確かめようとはしなかった。
 ドブネズミはスマホの画面を見つめていた。うどんが小田原に来たことは彼を少し戸惑わせた。金とカードを使えなくなったというメッセージを朝に送ったものの、それまで彼女からの返信は何も届いていなかった。やはり何かの仕掛けによって、彼女と連絡を取れなくなったのだとドブネズミは諦めていた。
 住宅街を抜け出してからも、彼は多くの人々とすれ違った。ある老人は手にしていた箒を振り上げて彼を追いかけ回した。女子学生たちは鼻をつまみ小声で言葉を交わしながら、できるだけ距離を取って彼の横を慎重に通り過ぎていった。ドブネズミが公園のベンチで休んでいると、子どもたちが面白がって石を投げつけてきた。思わず逃げ出すと、近くで丸まっていた野良猫が彼にむかって喚きたてた。そんなふうにしてドブネズミは小田原の町を一日中歩き続けた。すれ違うすべての者が彼のことを嫌悪し、遠ざけ、攻撃し、あるいは存在しないものとして無視して通り過ぎていった。まるで新型コロナウイルスの代わりに発生した、昭和九十七年のウイルスに彼自身がなり果てたみたいだった。彼の歩く方向はだんだんと市街地から離れていった。何も食事を取っていないドブネズミは疲弊しきっていた。疲弊を引きずっていると、植えこみに隠れていたビデオカメラが脳裏をよぎる。あのとき一瞬反射したカメラの白いきらめきはおれを常に捉え続けている。そう考えると、ゆっくりだが彼の足は一歩ずつ東へと移動していった。
 何台かの車が目の前を通り過ぎた後、ドブネズミは自分の位置情報をうどんに送信した。彼女が本当に小田原まで来ているのかどうかはわからない。だが彼にできることは、手のひらに収まるちっぽけな通信機でうどんにメッセージを送ることだけだった。すぐに彼女から返信が届かなかったので、ドブネズミは[なぜ小田原に来た?]と入力した。そして送信しようとしたとき、彼は異変に気づいた。スマホの画面上で電波の状態を示しているアイコンが消滅しているのだ。送信ボタンを何度押しても、未送信の文字は消えない。ウェブサイトを開こうとしても、インターネットに接続されていないという旨が表示される。スマホがハッキングされている可能性があるなら、技術的にこういう細工もできるかもしれない。だがドブネズミは思い直した。違うな、もっと根本的な話だ。スマホ代の支払いはクレジットカードを使用している。おれの金は使えないし、おれのカードも使えなくなっている。おそらく携帯電話会社への自動決済が不可能になり、スマホの使用契約が途切れてしまった。そう考える方が自然だった。
 自分の位置情報がうどんにきちんと届いたのかどうか、確かめようがなかった。ドブネズミは夜の国道沿いですべての連絡手段を失ってしまった。彼が国道をひたすら辿って目指していた場所は、新宿だった。自分の足だけを使って新宿に向かおうとしていた。徒労ともいうべき多くの労力と時間を費やすのはわかっていた。新宿駅に到着できるのは明日の明るい時間帯になってしまうだろう。新宿に何かがあるというわけでもない。しかし自宅のアパートにも入れなくなっていることを想定すると、他に彼にとって戻るべき場所は新宿しかないように思えた。
 だがスマホが使えなくなり、一人で国道に立ち尽くしていると、自分の中の張りつめていたものが少しずつ解けていくような感覚をドブネズミは覚えた。これから何時間もかけて新宿を目指すことを想像すると、足がなかなか前に出なかった。彼はリュックサックを肩から下ろして、不通になったスマホをその中に放り入れた。それから車の往来がないことを確かめて道路を横切り、反対側の歩道に移動した。歩道の向こうは砂浜が広がっていた。ドブネズミは柵を乗りこえて、坂を駆け降り、砂浜に立った。海に向かってしばらく歩き、波音がはっきりと聞こえてくる場所で腰を下ろした。小さな波の泡立ちがあらわれては闇に消えている。
 夜が明けるまではここで休むのもいいかもしれない、ドブネズミは背中を丸めて夜の海に視線を向けた。特に急いで新宿に向かう必要はない。誰かが待っているわけではないし、何かを請求されているわけでもないし、誰かに依頼されているわけでもない。やがて水平線から朝日が昇ってくるのを、ただこのまま待ち続けるのも悪くない。ドブネズミはリュックサックの中身を確認した。口にできるものは薬ぐらいしか入っていない。空腹から逃れるためには眠るしかないと、砂浜の上で体を横たえるために体勢を変えたときだった。白いものが目に入った。一瞬ビデオカメラの反射が頭をよぎったが、それはインスタントカップ麺の容器だった。誰かが食べ散らかした後のごみが捨てられている。よく見ると、容器の中には食べ残した麺が少し残っていた。
 白い色をしたうどんの麺だった。まるで死んだ幼虫のような麺をドブネズミは見つめていた。体の中心がぎゅっと絞られるような空腹感が湧いてくる。空腹は肉体全体を突き動かしてくる。しかし何かが彼を押しとどめていた。手を伸ばし、うどんの麺をつまみ上げ、口の中に入れて、咀嚼しようとする行為を何かが押しとどめていた。ドブネズミそのものに戻ろうとするのを何かが押しとどめている。まわりは誰もいない真っ暗な砂浜で、波の音が聞こえてくるだけだ。押しとどめるものなど何もないはずだった。
 彼らの番組は成功するかもしれない、ドブネズミはゆっくりと息を吐き出した。撮影スタッフの仕掛けた虚構は、おれが作り上げてきた虚構をほとんど引き剥がそうとしている。そして、下水道で生きていた昭和のドブネズミそのものにおれを戻そうとしている。ここにごみの麺を用意したのも彼らなのだろう。おれが今ごみの麺を食べようとする瞬間も撮影しようとしているはずだ。そんな映像でうどんのバンドがうまくいくなら、それはそれで構わないとドブネズミは思った。物陰からいくらでも撮影すればいい、だけどおれを押しとどめているのはビデオカメラなんかではない、ドブネズミはあたりの暗闇を注意深く凝視した。きっとおれ自身だ。失われていく自分の虚構をおれ自身が守ろうとしている。かつて『リンダリンダ』という虚構を多くの若者たちが求めたように、おれはおれの虚構をたやすく手放すことはできないのだ。
 そのとき、一匹のネズミが闇の中からあらわれた。雨に濡れたアスファルトのような毛色をしたネズミだ。ときどき砂粒の匂いを嗅ぎながら、ためらいがちにこちらに近づいてくる。ネズミの目的はごみだった。ネズミはカップ麺の容器に頭を突っこみ、そこに残っている麺を齧り始めた。ときどき気にかけるように、ドブネズミの顔を見上げる。
 ネズミがうどんを齧る姿を、ドブネズミは膝を抱えて見つめていた。彼にはそのネズミのことがわかっていた。それは彼が会おうとした、テーマパークでマスコットキャラクターを演じていたネズミだった。ネズミの姿を目にした瞬間、ドブネズミにはそのことがわかった。彼も虚構の中で生きてきたネズミだった。かつて煌びやかなセットに囲まれて幸せな笑顔を保ち続けた後は、小田原の民家で孤独な生活を続け、やがてネズミそのものに戻った。もう黒いタキシードも着ていないし、赤いズボンも履いていない。ネズミは一心不乱にうどんを齧り続けていた。砂粒にまみれたうどんは、紛れもなく虚構から解き放たれたネズミのものだった。ドブネズミはゆっくり手を差し伸べてみた。ネズミは彼の手にちらちらと目をやるだけで、忙しなく顎を動かし続けている。ドブネズミは思い出した。三十五年前、新宿を走り回っていた彼に友好的に近づいてきた若者たちの姿を。彼らが手を差し伸べてきたのと同じように、今ドブネズミはネズミに向かって手を差し伸べていた。
 何かが砂浜の上に落ちた。とても小さな音だ。液体が一滴ずつ砂の上にゆっくり落ちては、すぐに吸いこまれていく。ドブネズミは膝を抱えたまま視線を真下に向けた。いくつか斑点状に砂が濃く染まっている。それは血だった。ドブネズミの口元から顎を伝い、一滴ずつ血が落ちていた。まるで緩んだ蛇口から水滴がしたたるように。ドブネズミは口元を拭った。そしてネズミを見た。ネズミも顎を動かすのを中断してこちらを見つめていた。ネズミの黒くつぶらな目は何かを語っているかのように見えた。血を流しているドブネズミに向けて、大切な言葉を差し出しているかのように感じられた。しかしドブネズミにはその言葉が聞き取れない。あるいはネズミはただ血が落ちていることに注意を払っているだけかもしれなかった。
「ドブネズミさん」
 背後で女の声がした。ドブネズミはゆっくり振り返った。最初は暗くて顔がよく見えなかった。だが近づいてくる人影がうどんだとわかり、彼は手を上げた。
「大丈夫ですか」うどんが落ち着いた声で訊ねた。
「たぶん」ドブネズミは短く笑った。
 うどんはドブネズミの顔を心配そうに見つめながら、彼のとなりに腰を下ろした。そして彼と同じように海に向かって両膝を抱えた。
「探しましたよ。駅からタクシーでぶっ飛んできました」
「位置情報は届いてたんだ」
「ちゃんと届きました。駅からずいぶんと離れましたね。わたしからも何度か返信したんですけど、届いてますか?」
「実はスマホも使えなくなったんだ」
「やっぱり。もしかしたらそうかもしれないって心配してました」
 ドブネズミはカップ麺に目をやった。ネズミの姿はどこにも見あたらない。彼は闇の中へ戻っていったようだった。
「会いたい人には会えました?」
「ああ」ドブネズミは海へ視線を戻した。「ほんの少しだけど、会うことはできたよ」
 彼はうどんに気づかれないようにもう一度口元を拭った。血は止まっているようだった。そのかわりこめかみの奥で小さな粒が潰れていくような痛みを感じた。
「君はここに来たらまずいんじゃないのか」ドブネズミは言った。「この瞬間も撮影は行われている。君がいることに彼らが気づいたら、ものすごく怒るだろう。番組がぶち壊しだって。そうなったら君のバンドもうまくいかなくなる」
 うどんは下を向き、何かを思い出すように踵で砂を何度か蹴った。「実はわたし、バンドを辞めてきました」
 ドブネズミは波の音に耳をすませていた。
 うどんも頭の中で言葉をまとめるようにしばらく黙った。「よく考えました。ドブネズミさんの本もまた読み返して、やっぱり自分のやりたいことじゃないってわかったんです。そんな中途半端な気持ちでバンドを続けたら、メンバーやスタッフにも申し訳ないと思いました。わたしが辞めたいってことを伝えたら、まわりのみんなは怒ったり戸惑ったりしていました。当たり前ですよね。上の偉い人からは違約金が発生するよとも言われました。でもこのまま、誰かの作ったものの中で音楽をやっていくのは、わたしにはどうしてもできませんでした」
 夜の闇がさらに深くなり、波の白い泡はいつのまにか見えなくなっていた。だが波の音は聞こえている。波は確かにそこに打ち寄せている。
「たぶん、そうするしかなかったんだよ」ドブネズミは見えない波に向かって言った。「誰も君のことを思いどおりにすることはできない。そして君自身も君を思いどおりにすることはできない。思いどおりにならない自分を受け入れるしかないときもある」
「ありがとう。書きとめておきます」うどんは小さな声で答えた。「ドブネズミさんに一つ、良いお知らせがあります。私がバンドを辞めたことで、プロモーションのいろんな企画が中断せざるを得なくなるでしょう。そうなればドブネズミさんへのドッキリ企画もきっとストップされるはずです。もうカメラに追い回されることはなくなりますよ」
「それはどうだろう」ドブネズミはこめかみに指を当てた。頭の痛みはおさまらない。「本当にストップされるだろうか。おれへの仕掛けは確かに君のバンドをプロモートするためのものだった。でもそれだけじゃない。おれそのものへ仕掛けられている。そんなふうに思えてきたんだ。目的は最初からおれだった」
「まずドブネズミさんありきの企画だったってことですか」
 そのとき突然、ドブネズミは激しい咳に襲われた。まるで肺が急激に収縮し、裏返しになっていくような苦しい咳だった。咳が出るたびに彼は吐血した。彼の手のひらは血に染められた。ドブネズミが背中を丸めて体を激しく揺らしている間、うどんはドブネズミの背中をさすり続けた。
「おさまりましたか」うどんはドブネズミの背中に手を置いたまま訊ねた。
「ああ」ドブネズミは掠れた声で答えた。「そろそろ、これまでの不摂生のつけが回ってくる年齢だからね」
 うどんに見られないよう、ドブネズミは顔を下に向けたまま口元の血を拭い、手のひらの血を砂で落とした。彼は呼吸を整えようとしばらく目を閉じていた。波の音が聞こえ、背中からはうどんの手の温もりが伝わってくる。
「そういえば」ドブネズミは顔を上げた。「マスクはどうしたの?」
「え、マスク……」うどんは虚を突かれたようにドブネズミの背中から手を離した。そして少し照れた表情を浮かべた。「いえ……なんかバンドも辞めたし、まだ誰もわたしのことなんて知らないし、夜も遅いから、もうマスクは付けないでここまで来ました」
「いや、そういうことじゃないんだ。状況はまだ気をつけなくちゃいけないはずだが……まあいい。一つ、君にお願いがあるんだ」
「何でも言ってください。わたしにできることなら」
「おれは今、自分の金もカードも使えない。そしてすべての人々から毛嫌いをされ、距離を置かれている。購買手段も移動手段も、人との接触手段も失くしてしまった」
 頭の痛みが強くなっている。何かがゆっくり近づいてきて、一歩ずつ足を出す度に頭の中が破裂していくような痛みだ。ドブネズミは足を踏ん張り、自分の動作を確かめながら立ち上がった。
「できることなら、おれを新宿まで連れていってほしい」

 うどんはスマホのアプリを使ってタクシーを呼び寄せた。辛そうに頭を抱えているドブネズミに肩を貸し、二人で後部座席に乗りこんだ。運転手は彼らと目が合ったときからずっと口の端を曲げていた。ドブネズミが後部座席でぐったりと身を埋めている姿をルームミラーで確認する度、シートに汚れや臭いが付くのをずっと気にしていた。
 小田原駅に着くと、うどんがタクシー代を支払い、ドブネズミの歩行に手を貸しながら、駅の切符売り場へと向かった。すれ違う人々は奇異の目で彼らを振り返った。なぜあんな若い女の子が汚く弱ったドブネズミと一緒に歩いているのか、呆れたり首をひねったりしながら人々は去っていった。うどんにとってそんなことはどうでもよかった。もしドブネズミが存在していなかったら、自分は東京まで来ることがなかっただろうと彼女は思った。確かにわたしはわたしのことを思いどおりにできないかもしれない。できるのは、思いどおりにならない自分をしっかり繋ぎ止めておくことだ。それはこの世でわたしにしかできないことだし、そんなふうにしかわたしはどこかに向かうことはできない。
 彼女は切符売り場のカウンターに駆け寄り、新宿行き最終特急電車の指定席を二人分買った。改札を通り、階段を下りてホームに着くと、アナウンス放送が流され、最終電車が出発しようとしていた。うどんとドブネズミは急いで車内に乗りこんだ。車内には誰もいなかった。切符の座席番号を確認しながら通路を進んだ。うどんはドブネズミを窓際の席に座らせて、彼女はとなりの席に座った。彼らは一息つくまで、それぞれ窓の外を見たり天井を見上げたりしていた。
「しまった」うどんが呟いた。
「どうした?」ドブネズミはこめかみを押さえながら訊ねた。
「途中で食べ物とか飲み物を買えばよかった。ドブネズミさん、お腹空いてるんでしょう」
 ドブネズミは笑った。「新宿までなら我慢できそうだよ」
「ごめんなさい。急いでたもんだから、つい」
「大したことじゃないさ」
「もしかして、今のこの場面も撮影されてるの?」うどんは座席から身を乗りだして、車両の前から後ろまでを見渡した。
「撮影されてると思って間違いない」
「それらしき人は見当たらないけど」
「おれも一瞬しか目にしてないから、どんな連中なのか詳しくはわからない。ただ、おれたちのことを思いどおりにしようとする連中なのは確かだろうね」
 それから新宿に到着するまでの間、うどんはスマホでウェブサイトを閲覧したり、SNSをチェックしたりした。ドブネズミは目を閉じて、頭の痛みをやり過ごしていた。ネズミの姿が思い浮かんだ。砂浜でうどんの麺を齧っていたネズミだ。ドブネズミには彼に対して話そうとしていたことがあった。同じネズミとして彼に話すべき何かがあった。しかしあのとき、ネズミそのものに戻っていた彼の姿を見つめていると、ドブネズミの考えていた話は砂浜の中の砂粒のようにどこかに消えてしまった。そんな話はもうわかっているというような深く透きとおる目で、彼はドブネズミのことを見つめていた。そんなことを思い出しながら、ドブネズミは座席の上で何度か浅い眠りに頭を揺らした。
 電車が新宿駅に着くと、彼らは電車を降り、西口方面から外に出た。人どおりは少なく、建物のシャッターはほとんど閉まっていて、酒に酔った若者たちが地面に座りこんでいた。
「ありがとう。助かった」ドブネズミはリュックサックを肩に掛け直した。「もうここでいいよ。送ることができなくて申し訳ない」
「ちょっと待ってください」うどんは親指を立てて、自分の背後を指差した。「そこにコンビニがあるから、食べるものを買ってきます」
 うどんはドブネズミの返事を待たずに駆けていった。ドブネズミは彼女の背中に目をやった。断続的な頭の痛みのせいもあり、空腹感はすっかり消え去っていた。うどんが戻ってこないうちに、この場を立ち去った方がいいかもしれないと思った。しかしそのとき、コンビニの前でうどんが誰かと小競り合いになっている姿が見えた。相手は背の高い男で、黒いシャツを着ている。そして小型のビデオカメラを手にしている。うどんは男に詰め寄り、男の持つビデオカメラを指差しながら何かを主張していた。男は微動だにせず、うどんを見下ろしているだけだ。
 二人に近づこうと足を踏み出したドブネズミに向かって、うどんは大声を出した。
「いましたよ! この人が撮影してる人やわ!」
 うどんの大阪弁が夜の街角に大きく響いた。しかし通りを歩く人々は、何も聞こえていないように誰も足を止めなかった。反応したのは黒いシャツの男だけだった。男は背後からうどんの体を片腕で強く押さえつけた。もう一方の腕でカメラを掲げ、ドブネズミを撮影し始めている。
「あかん、逃げて! ドブネズミさん!」
 再び響き渡ったうどんの声に、ドブネズミは反射的に後ずさりをした。すぐそばの路肩で、後部座席のドアを開けっ放しにしているタクシーに乗りこんだ。
「とにかく出してくれ」ドブネズミは早急な口調で運転手に言った。
 後部座席のドアは閉められ、タクシーは発進した。ドブネズミは振り返り、リアガラスの向こう側を確かめた。男がカメラを向けてこちらに駆けて来ようとしている。後ろからうどんが男の腰に両腕を回し、必死に男を押しとどめていた。
「大丈夫ですか」運転手が前方を見ながら訊ねた。タクシーは駅前のロータリーを離れ、大きな道路に合流する手前の信号で停車していた。「なんか大声を出してた人がいましたけど」
「たぶん」ドブネズミは不確かに答え、背もたれに身をあずけた。きっと大丈夫なはずだ。彼らは元々同じチームだし、まだ二十歳前の女の子に手荒なまねはしないだろう。それに彼らの撮影の目的はそもそもおれなのだ。
 信号が青に変わり、タクシーは右に曲がった。その先は二車線で、タクシーは速度を落として左側の車線を走った。
「行き先だけど」ドブネズミは思いつくままに言った。「ここから二つ目の信号で降ろしてください」
「そこが、本当に目的地なんですか?」運転手はゆっくりとした低い声で言った。
 運転手の声が意識に入った瞬間、ドブネズミの頭はまた激しく痛んだ。思わず短い声を上げてしまった。遠く深いところにあるものを強引に掘り起こさせる痛みだ。ドブネズミは前屈みになり、こめかみを強く押さえた。
 間違いない。樫本の声だ。今話したのは、樫本だ。
 ドブネズミの返事を粘り強く待っているように、樫本はハンドルを握りながら前方にじっと目をやっていた。
「やっぱり、あんたか」ドブネズミは顔を上げ、運転席に向かって言った。
「昔から察しがいいね」樫本はルームミラーに反射するドブネズミに向かって言った。
 タクシー会社の制服である白いワイシャツと帽子を樫本は身に付けていた。白髪の混じった太い髪が首元まで伸び、昔と同じ太い指がハンドルを握っている。ドブネズミは助手席の前に掲げられている身分証明書に目をやった。黒い太縁の眼鏡も、オールバックの髪型も昔と変わっていない。ただ、海の荒波が固定されたような大きくうねった皺が顔を覆っていた。
「こんなとこで何してる」ドブネズミは訊ねた。
「へへ、送り迎えだよ。そういえば昔もこんなことしてたね」
「今でも業界の仕事をしてるのか」
「いやいや」樫本は短く笑った。「今の本職はご覧のとおり、タクシードライバーだよ。どこからどう見てもそうだろ」
 車内には様々な広告のシールが貼られ、ドブネズミの目の前には広告用のディスプレイが設置されていた。もう一度身分証明書を覗きこんだ。街をよく走っているタクシー会社の名前が記載されている。おかしなところはない、どこにでもあるタクシーだ。
「おれが偶然に乗り合わせてきたってことはないだろう」ドブネズミは声を硬くした。
「確かに偶然にしちゃあ話がうますぎる。やっぱり必然かもしれないね」樫本は前方の車を追い越そうと、右の車線に移動してスピードを上げた。「ただし、そんなことは後になって思うもんだ。あれは必然だったかもしれないなって。まあ結果は同じだし、私にとっちゃあどっちでもいい」
「あんたが最初から仕組んだことなのか?」
「そう話を急ぎなさんな」樫本は左車線に戻り、スピードを緩めた。「最初は本当にたんなるドッキリ企画だったんだよ。あのガールズバンドを売り出すために、事務所のスタッフがバラエティー色の強い企画をいろいろ考えた。今はいろんなジャンルに手を出さないと生き残っていけないからね。いろんな案が出されたみたいで、その中の一つに君を登場させるってことが候補に上がっていた」
 車はオフィスビルが並ぶ道路を走っていた。街は静まっていた。車も人もほとんど見あたらない。ドブネズミはフロントガラスに目をやった。樫本の顔が少しだけ反射していたが、濃い影がガラスを覆い、はっきりとした表情までは窺えなかった。
「事務所のスタッフは私に相談してきた」樫本は言った。「昔取った杵柄とでもいうのかね。君のマネージャーとして仕事をしていた私の名前は、今でも酒の肴の話として業界で噂になってるらしい」
「荒稼ぎをしてたからか」
「人聞きの悪いこと言うなよ」樫本は苦笑した。「確かに会社としての売上げは良かったが、利益の多くは君のプロモーションに回してたよ。私個人としてはいくぶん余裕のある生活ができていたが、ひと財産を残せるほどではなかった。じゃなきゃ今こうやってタクシーのハンドルは握ってないよ」
「おれたち二人がやっていくには充分な稼ぎだったろう」
「そうだな。ただ私も大金だけが目的で仕事をしていたわけじゃない。とにかく何かおもしろいことをしでかしたい、一発どでかい花火を打ち上げたい、そんな気概で広告屋になったからね。君との仕事がなくなってからも、しばらく広告の仕事を続けていたんだ。だけど抜け殻だった。君と仕事をしていたときの熱は煙みたいに消えちまってたよ。売上げも下がって会社も畳むことにした。祭りはすでに終わってたんだ。それからはいろんな仕事を転々としたよ」
「あんたについての噂話は、いつからか聞かなくなったな」
「そうだろ。私はもう広告屋を辞めてたからね。でも私の方は、ときどき君の仕事ぶりを人づてに耳にしていたよ」
 ドブネズミは樫本の左後頭部を黙って見つめた。しかし樫本は振り向く素振りを見せず、タクシーを運転していた。
「話を戻そう」樫本は沈黙を破った。「事務所のスタッフは私が勤めているタクシー会社に電話をしてきた。そして、会いたいと言った。今回の企画をなんとか成功させたいから知恵を貸してくれないと頼んできたんだ。業界を離れて、私もずいぶん歳を取った。頭も白髪だらけだ。なんで今さら私なんだと思ったよ。だけどね、その話を聞いて同時に、これはちょうどいいやっていう気持ちも心の片隅に生まれたんだ」
「ちょうどいい?」
 樫本は考えこむようにまっすぐ前を見たまま、ハンドルを動かさなかった。前方の信号は赤だったが、スピードを落とそうとしなかった。ドブネズミは手すりを掴み、全身を固くした。車はそのまま交差点を突っ切る勢いだった。だが赤信号の直前、静寂を切り裂くブレーキ音と共に車は急停止した。反動で助手席の後ろ側に押さえ付けられそうになるのを、ドブネズミは両腕を支えにして耐えた。樫本は何事もなかったように、ハンドルの上で両腕を重ね、その上に顔をのせている。
「私も残りの人生を考えるようになった」樫本は赤信号を見上げながら言った。「考えざるを得なくなったという方が正しいね。死ぬ前にやり残したことをやらなくちゃいかんと思っていたところだったんだ。一度手術を受けて、肝臓を半分近く切除したが、タイミングが遅かった。自分自身の重要なタイミングは外しちまったんだね。なにしろ肝臓だ。体のいたるところに転移してたよ。あんまり長くはないみたいだ。癌さ」
 ドブネズミは背もたれに身をあずけた。頭痛の波がまたひどくなってきた。いくら指でこめかみを強く押さても、痛みをごまかすことができない。
「スタッフが持ってきた企画は悪くなかったよ。普通の番組としては充分に成立する。それに私がアレンジを加えさせてもらった」
「おれの金やカードを使えなくしたり、おれのまわりから人が遠ざかっていったり」ドブネズミは付け加えた。
「それは表面的なことだ」信号が青に変わり、樫本はアクセルを踏んだ。「私のアレンジはもっと本質的なことだよ。彼らスタッフはあのガールズバンドを必死に売りこもうとしている。もちろんそれが彼らの仕事だから仕方ない。でも着地点が存在しない仕事ほど空しいものはないよ。今はドブネズミの時代じゃない。もう貧乏の時代じゃないんだ。リンダリンダは売れない。間違いなくね。今は清潔さの時代だ。清潔なものが正しく、不潔なものは間違っている。新宿の下水道もすっかり整備されて、今じゃコンクリート打ちっぱなしの洒落たマンションみたいな内装だよ」
「だから」ドブネズミはそこで言葉を切った。「だから、おれも昭和の時代に戻った方がいいってことなのか」
「それが私のやり残したことだ。君を再び新宿の下水道に解き放ってやることがね。現役を終えた競走馬がのんびりとした牧場で余生を過ごすみたいに」
「あんたが決めることじゃない」
「もう充分なはずだ」樫本はドブネズミの言葉を無視した。「これまで君がドブネズミとして世の中で生きてきた意味は、君自身が充分に感じ取り、理解してきたはずだ。もういいだろう」
「おれの問題だ。あんたの問題じゃない」
「いいか」樫本は語気を強めた。「君は、そもそも私が作り上げたんだ。いずれ君が新宿に戻ってくるということも私にはわかっていた」
「違うよ」ドブネズミは静かに言った。「あんたが作り上げたのはおれじゃなくて、あんた自身の虚構さ。あんたはあんたの虚構の中で残りの人生を全うすればいい。誰も文句は言わない。ただ、おれはあんたの思いどおりにはならない。そろそろこのあたりで降ろしてくれないか」
 しばらく沈黙が続いた。樫本は何度かハンドルを切り、スピードを落とさずに角を手荒く曲がった。そのたびにドブネズミは手すりをしっかり持って体を支えなければならなかった。
「実際の話」やがて樫本は低い声で呟いた。「あのガールズバンドが売れようが売れまいが、私にとってはどうでもいい関係のない話なんだ。だけどね、今スタッフから連絡が入ったよ」
 樫本は手元でスマホを操作した。「あのボーカルのガキがカメラを壊したんだって。地面に思いっきり叩きつけたらしい。撮影した動画データは全部あのカメラの中に入っていた。だから今回の企画は全部おじゃんになっちまったよ」
 うどんがビデオカメラを破壊するところをドブネズミは想像した。彼は目を閉じて微笑んだ。
「残ったのは、おれとあんたというわけだ」ドブネズミは言った。
「振り出しに戻ったのかね」樫本は言った。「いや、むしろ上がりかもしれないな。なあ、たとえば私と一緒に死んでみるのはどうだろうか」
 ドブネズミは顔を上げた。車はいつのまにか直線の道路を走っていた。いくら景色が通り過ぎても信号は一つも見あたらない。遠くに群立しているビルまで道はまっすぐ伸びている。
「どうだ?」
 樫本はそこで初めて後部座席を振り向いた。目は黄ばみ、船底のフジツボのような出来物が頬にいくつもあった。深海でうごめく奇妙な生き物のようだった。
「この道を初めて見つけたとき、この道こそが自分の死に場所としてふさわしいと直感した。この道は時速百キロ以上でこの先にあるビルの壁に突っこむことができる。いずれにせよ私はもうすぐ死ぬ。どこで死んだって、どんなふうに死んだって構いやしない。このまま車が突っこめば、君も一緒に解き放たれることができる」
「悪いけど」ドブネズミは手すりを握る力を強くした。「おれはあんたと一緒に死ぬつもりはない」
「向こうに小さなビルが見えるだろう。たとえばあのビルを私たちの墓と見立てることもできるぜ。なあ、ドブネズミ」
 樫本はそう言った直後、アクセルを思いっきり踏みこんだ。スピードメーターの針が一気に右側へ弧を描く。樫本の太い指はハンドルを固く握りしめている。エンジンの回転数が上昇し、乱れた振動が座席に伝わってくる。声も出せないほど激しい振動だ。車のヘッドライトが鋭い刃物のように夜の闇を一気に切り裂く。吸いこまれるようにビルへ近づいていく。誰にも止めることはできない。やがて強固で清潔な壁に突撃することを誰にも止めることはできない。
 ビルの壁が目前に迫ったときだった。生温かい風が車内にするりと吹きこんだ。風は樫本の首元に絡みついた。人の手に掴まれた感触がして、樫本は反射的に急ブレーキを踏んだ。バランスを崩した車は斜めに傾き、路面にブレーキ痕を引きずりながら、なんとか壁の直前で停車した。
 静寂が訪れた。樫本は汗ばんだ指をハンドルから一本ずつ剥がし、肩の力を抜いた。呼吸を整えて、首元に手をやった。粘ついた汗以外は何もない。
 樫本はゆっくりと後部座席を振り返った。窓が大きく開いている。座面のシートは血で染められていた。そこに残されていたものは血の染みと、ドブネズミが手にしていたリュックサックだけだった。樫本はしばらく後部座席から目を離せなかった。シートから窓ガラスに向かって、とても小さな血の足跡が点々と続いている。開かれた窓からは穏やかな風が吹きこんでいた。
 そこにドブネズミの姿はなかった。真っ暗な新宿の街へとドブネズミはすでに駆け出していた。

 うどんという名前を、うどんは使い続けることにした。ドブネズミの好物がうどんということを、彼女は以前から知っていた。そして彼女自身も本当にうどんが好きだった。彼女はデビューするとき、自分の名前をうどんにすることをどうしても譲らなかった。もしいつかドブネズミに会うことができたなら、世の中にある様々な種類のうどんについて語り合うことができるかもしれないと思っていた。
 いつものようにうどんは新宿駅で電車を降りた。その日の空は朝から灰色の雲に覆われていた。夕方の構内を行き交う人波をすり抜けながら、南口を出たあたりのスペースで彼女は荷物を下ろした。傷だらけのキャリーケースから小型アンプやエフェクターやマイクを取り出し、弾き語りのセッティングを始める。背負っていたアコースティックギターをケースから出して、ストラップを肩にかける。一弦ずつチューニングをしながら、彼女は不動産屋に冷たくあしらわれたことを思い出す。「あのね、この令和の時代、ギター弾きに貸す部屋はないんだよ」。彼女にはまだ決まった住所がない。決まった住所はないが、それでも彼女は一曲目のイントロをギターで奏で始める。
 うどんが歌い始めても、目の前の人々は歩みを止めようとしなかった。いくら心をこめ、大声で叫んでも、口元をマスクで覆い隠した人々は何かに追われるように足早に通り過ぎていった。あるいは忌み嫌うものに遭遇してしまったかのように彼女を一瞥して去っていった。
 ただ『リンダリンダ』を歌うときだけ、うどんの足元に一匹のドブネズミがあらわれた。ドブネズミは彼女の足元を素早く動き回り、ときどき思い出したかのように彼女の顔をじっと見上げた。まるで大切な言葉を伝えようとしているみたいに。しかし『リンダリンダ』の最後のストローク音が風の中に消えると、いつのまにかドブネズミも排水溝の中へと姿を消していた。
『リンダリンダ』が終わった後も、うどんは絶えることのない人波に向かって、ギターを思いきりかき鳴らし、顔をくしゃくしゃにしながら歌い続けていた。

〈了〉

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