見出し画像

いずれ嫌いになる(第10回)

10

 一月二十日の早朝、突然の叫び声でワタルは目覚めた。誰かに髪の毛を掴まれたように上半身を起こした。まわりを見回す。狭いアパートの一室。もちろん誰もいない。しかし夢の中の声ではなかった。確かにそれは現実の薄暗い空気を震わせ、彼の二つの鼓膜を震わせた叫び声だった。ワタル自身の叫び声でワタルが目覚めた以外にありえなかった。首のまわりにはぐっしょりと汗をかいている。
 再び寝つけそうになかったので、熱いシャワーを浴び、インスタントコーヒーと菓子パンを朝食にして、エアコンの温風設定を高くした。そして仕事の時間がくるまでヘッドフォンで音楽を聴いた。買ったばかりのコンポセット。年末、契約社員でありながらボーナスがわずかに出たのだ。
「コンポぐらい買ってあげるわよ」あの女は言った。
 ワタルは首を横に振った。自分は誰かに何かを買ってもらうような生活をしているわけじゃないと断った。でもそれだけではなかった。年上の女がときどき見せる高圧的な態度が嫌いだった。
『アルハンブラの思い出』のCDを聴きながら、ワタルは昔のトウコとのセックスを思い出していた。夜のひんやりとしたレーンの上で抱きしめていた彼女の感触はいつまでも彼の皮膚の上に残っていた。彼女と交わった日付と回数を思い出すことができるぐらいだった。
 ワタルは目を閉じ、枕の上に頭を乗せて、音楽にじっと耳を傾ける。そしてトウコの体の感触を両手の中にもう一度甦らせようとする。やがて日が完全に昇り、ヘッドフォンを外さなければいけない時間がくるまで、暗く誰もいないボウリング場の中に彼はとどまっていようとする。

 アパートから自転車で三十分ぐらいの場所に、梱包や発送を請け負っている物流会社があった。そこはおもに健康食品を扱っていて、一日三度送られてくる販売会社からの受注伝票に従って、商品を段ボールに梱包し、発送していく。飾り気のない灰色の建物で、鉄製の門からは宅配便の大型トラックが絶え間なく出入りしている。まわりにも同じような建物の会社が多く、排気ガスがいつも空中にうっすら漂っていた。
 ワタルは毎朝八時半に駐輪場に到着し、ロッカーで作業用の服に着替えると、休憩室で自動販売機の紙コップのコーヒーを飲むことにしている。朝のワイドショーが流されているテレビをぼんやり眺め、八時五十分からのミーティングで正社員の退屈な話を聞いた後、その朝いちばんに到着したトラックの荷物を倉庫内に搬入していく。「どうして物流の仕事に就こうと思ったんだね?」面接のときに受けた質問の裏には、どうして設備科の高校なのに物流の会社なんだね? という意味が含まれていた。確かにその会社の業務は彼が高校で学んだ事柄が一切反映されないものだった。横浜に移り住んだ後、ワタルはまず公共施設やビルなどの配管工事を請け負う会社に入った。だが軽トラックに乗って、先輩と二人で工事先を回っていくことにどうしても馴染めなかった。先輩の男は口臭のひどい口から会社の愚痴を吐き続け、客の前ではワタルをわざと注意して虚勢を張り、二分に一回は股間を掻きむしった。一度自分のミスをワタルになすりつけようとしたとき、ワタルは躊躇なくその男の顔面を殴った。そしてそのまま会社に行かなくなった。「たぶん自分に向いていると思ったんです」ワタルは物流会社の面接のときに適当に答えた。別に設備でも物流でも何でもよかった。ただ、倉庫での仕事を続けられているのはほとんど人と話す必要がなく、遅刻や欠勤をせずに黙々と体を動かし続けていれば誰にも文句を言われないからだった。
「これってどの棚にあるんすか?」新人の青年が伝票を手にして訊ねてくる。
「ああ、それはこっち」ワタルは自分の手を止めて、いちばん奥の棚に相手を案内する。「ほら。これ」
「ああ、ありがとうございます」青年はぎこちなく頭を下げる。
「うん」ワタルは自分の仕事に戻る。
 ワタルが普段どんな生活をしているのか誰も知らなかった。口数が少ないが親切で、端正な顔立ちをしているが格好をつけるわけでもない。悪い人ではないのだが、どこか近寄りがたい空気がいつも漂っている。それがワタルに対しての共通した印象だった。一度事務所で働いている同じ歳の女がデートに誘ったことがあった。日曜日に映画を観て、鎌倉を散策し、中華料理屋で夕食を食べた。そして別々の電車で帰宅した。それだけだった。それだけでワタルも女も互いに対しての興味を一切失った。
 仕事は六時に終わる。帰り道、ワタルはときどきネットカフェに立ち寄ることにしていた。パーティションで区切られた個室に入って、ラーメンとか親子丼とかを注文し、片手でマウスを操作しながら片手で空腹を満たす。ポータルサイトに移動して、パスワードを打ちこみ、ウェブメールをチェックする。ネットショップからのDMメールをごみ箱に捨てていくと、最後に一人の送信者だけのメールがずらりと並ぶ。最新の件名は「いちがつはつかの私」だった。

夫がまたしばらく帰らないんだって。
  仕事か女か。たぶん両方ね。
  最低な男。最悪な夫。
  いつもの時間、いつもの場所で待ってます。

出会い系サイトで知り合ったときから相手はヒロミと名乗っていた。四、五回ほどメールのやりとりをして、ワタルはヒロミと実際に会うことになった。真っ黒な髪を背中まで伸ばし、シンプルな型のスエードのコートを着て、化粧の具合が四十ほどの歳を窺わせた。気取りはなかったが、どこか裕福そうな空気を漂わせていた。コンポセットには首を横に振ったワタルだったが、二人で会うときはヒロミに金を出してもらっていた。

 了解。
 いつもの時間。いつもの場所で。   
 一月二十日

 ワタルは素早くキーボードを打ち、送信した。そして食後のアイスコーヒーを飲む。ヒロミが夫に未練があることは承知していた。レンタルビデオの返却日みたいに、関係の終了日が訪れるのはわかっていた。その方がよかった。いずれ嫌いになるならその方がいい。リクライニング式の椅子にもたれながら、ワタルはグラスに残った氷を細かく噛み砕いた。
 ネットカフェを出ると、書店やCDショップに立ち寄ったりしながら、アパートへ帰る。そして風呂に入り、少しだけ本を読んで、早い時間に布団に入る。部屋の隅にはやはりギターが置いてあった。少年の頃から弾いていたものだ。荷物が多くなるし、もう熱心に弾くつもりもないし、大阪に置いてきたのだが、しばらくして母親がわざわざ宅配便で送ってきたのだ。「これはやっぱりあんたが持っときな」と手紙に書いてあった。アパートの壁は薄いし、かといって昔みたいにわざわざ外で弾くわけにもいかない。たまに気が向いたときにぽろんと爪弾くぐらいだ。ときどきヘッドに刻まれたイニシャルの文字が目に入る。
 そういえば「Y・M」って何だっけ? ワタルは思う。Mはミドリカワ、でもYって何だったろう。思い出すことはできない。そのYの文字は彼の胸の中でできるだけ長く引っ掛かっていようとする。
 子供の頃みたいに日付で記憶する癖は、ワタルの中でもう機能を果たせなくなっていた。日付で記憶するにはあまりにも同じような日々が続きすぎた。どれも同じで、どれが何日に起こったことなど区別できない。そんなのっぺりした日々に自分自身も同化するようにワタルは横浜で暮らしていた。

 一月二十五日、土曜日。横浜駅近くにあるプラネタリウムは家族連れや恋人たちで賑わっていた。最近オープンしたばかりで、椅子も柱も映写装置も何もかもが新しく輝いている。高層ビルの最上階という静けさも売りの一つだった。ワタルとヒロミは一階のフロアで待ち合わせ、そのまま銀色の頑丈そうなエレベーターで上昇していき、球面の天井に星々が映し出されるまでの騒々しい時間を何も話さずにやり過ごした。
 映写が終わり、ビルを出る頃にはすでに日が暮れていた。まさにさっきまで見ていた架空の冬空が目の前に現れたタイミングではあったが、もちろん現実の夜空は数億もの星々に枯渇していた。ヒロミはタクシーを拾い、中華街へ向かうように告げた。「プラネタリウムも飽きてきたんじゃない?」窓の外を眺めていたヒロミが訊ねた。「星を見るのに飽きるなんてないよ」ワタルは答えた。ヒロミは短く笑った。「そう? 私にはどれも同じに見えるけど」
 ヒロミが選んだ店は二階建ての小さく古い店だった。だが内装は清潔で、観葉植物は青々として、従業員も丁寧だった。ヒロミは席に着くと、コース料理を二人分と瓶ビールを一本注文した。
「なぜか今日は泣きやまなかったの」ヒロミは切り出した。「おもちゃがいっぱいあるお祖母ちゃんのお家へ遊びにいこうねって言ったら、急にぐずりはじめてね。それでもなんとか車に乗せて、到着してバイバイしようとしたら、私の脚を掴んで離さないの。上の子も頭をよしよしして、あやしてくれたんだけど」
「女の子だっけ? 下の子は」ビールを一口飲んでワタルは訊ねた。
「そう、女の子。もしかしたら勘づいているかもしれないと思うの?」ヒロミはワタルを窺うように微笑んだ。「お兄ちゃんはもう中学生だし、私と夫の仲はなんとなくわかっていると思うの。でも下の子はどうだろう。ただ急にわがままを言いたくなっただけかもしれないし」
「そうだね。自分もヨガ教室に連れていってほしいと思ってるのかもしれない」
「ヨガの先生」ヒロミはワタルを指さして笑った。
 料理が運ばれてきた。ビールはヒロミが最初に口をつけただけで、あとはワタルが飲んだ。出てくるスープや前菜もワタルは順調なペースで平らげていったが、ヒロミはやはり少し口をつけるだけで、あとは下げてもらうように頼んだ。
「あなたはどんな子だった?」ヒロミは頬杖を突き、何もなくなったワタルの皿を見つめながら訊ねた。
「子供の頃?」
「そう。わがままだった?」
「どうかな。ある意味ではわがままだったかもしれない」
「いじめられても大阪弁を使わなかったから?」
「まあ、それも一つだね」
「どう? 横浜に住んでみて。大阪とやっぱり違う?」
「横浜に住んでるっていうより、大阪を離れたっていうことの方が強いかもしれないな。大阪を出たくて仕方なかったから。でもそれで何がどう変わっていうと、正直よくわからないけど」
「私は家を出たくて仕方がなかったわ」ヒロミは爪に塗ったマニキュアを一つずつ確認しながら言った。「阿倍野の楽器屋で、小さな古い店だった。父親がギター狂いで、しかも糖尿病。それで苦労している母親を見てたからね」
「楽器屋だったんだ」ワタルは箸を止めた。「兄弟はいた?」
「弟が一人」
「店を継いだの?」
「ううん。店は潰れたわ。弟は今どこで何をしてるかはっきり知らない。あれはきっと父親の方の血ね。ほっといたら破滅するタイプよ」
 ワタルはミドリカワという名字を言わないでおこうと思った。「弟の名前はなんていうの?」
「名前?」
「そう」
「ユウジ」
「ふうん。お母さんの方は元気なの?」
「ううん。お母さんもやっぱり糖尿病」ヒロミは力なく微笑んだ。「入院してるんだけど、見る人がいなくてね。親戚の人がときどき見舞ってるわ」
「君は帰らないの?」
「帰るわよ。先週も帰ってたの」
「それはもう食べないの?」ワタルは食べかけの杏仁豆腐を指さした。
「うん。食べる?」
「いや、いらない。出ようか」
 店を出た後、ワタルはいつものようにホテルのある方へ向かおうとした。だがヒロミの表情は硬かった。悪いと思うんだけど、今日はそういう気分じゃなかったみたいなの、ヒロミは小さな声で言った。そう言われて、自分もそうかもしれないとワタルは思った。自分もそうかもしれない。なんでこの女が自分の目の前にいるんだろう、そう思う。なぜあのギター男の姉なんかを抱くことになったんだろうか。
 改札を抜けて、別々のエスカレーターを上りながら、もう二度とこの女と会わないでおこうとワタルは決める。電車に乗りこみ、ポケットから取り出した音叉をこっそり耳に当てながら、窓の外をぼんやり眺める。

(11へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?