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いずれ嫌いになる(第2回)

 七月二十六日。レッスンが始まる時間の十分前。
 いつものようにミドリカワ楽器店に飾られている新品のギターをワタルは眺めまわっていた。ドレッドヘアの店長はどこにも見当たらない。そのかわりレジに座っていたミドリカワユウジがコツコツと革靴の底を鳴らして近づいてきた。
「今日はおかん、おらんからね……。代わりに俺がやりますから」
 それだけ言うと、ユウジはまたレジに戻り、背中を丸めて文庫本のページを開いた。黒いTシャツを着て、タイトな革のパンツ姿。こけた頬にはニキビの跡があり、口のまわりには無精髭を生やして、背中まで伸びた水分不足の髪を縛り、トルーマン・カポーティの『冷血』を熱心に読んでいる。
 ワタルは店の中をうろうろ移動しながら、ときどきユウジの方に目をやった。ページをめくるユウジの指は細く、血管が青く浮き出た手の甲は骨張って硬そうだった。それはどこか深海の底で独自に進化してきた奇妙な姿の生き物を想像させた。似ているな、とワタルは思った。メッキ工場で染みついた油を流し台で洗い落としている父親の手に似ている。ただ違うところは、ユウジの手の方が女のように白いことだった。
 ユウジはすでに自分のギターをスタジオに用意していた。レッスンの時間になると『冷血』を閉じ、ワタルを呼んでスタジオの中に入った。ワタルがスタジオに入り、ギターをケースから出し、楽譜を譜面台に置いて、音叉でのチューニングを終えると、ユウジはまずいつも練習している曲を弾くように指示した。ワタルはいつもレッスンの最初に弾いている『雨だれ』の楽譜をいちばん上に広げた。
 ワタルが演奏しているあいだ、ユウジは母親と同じように丸椅子の上で脚を組み、百八十センチの体を丸めて、膝の上で頬杖をついていた。そして革靴の踵でテンポを合わせていた。だが目の焦点はどこにも定まっていない。視線は確かにワタルの指先に向けられていたが、半分しか開いていない目が見ているものはそこにはなかった。踵を規則的に動かしながら、彼の耳は他の音を聴いている。まるでさっきまで読んでいた小説のことを思い出しているように、彼の意識はスタジオとは別の場所で働いていた。
「……はい。わかりました。もういいよ」
 ワタルの演奏が終わってしばらく沈黙が続いた後、ふと我に返ったユウジは小声で言った。痰が絡んでうまく声が出ていなかったが、別に咳払いもしなかった。ユウジは立ち上がって、壁に立てかけていたギブソンのレスポールを手に取った。使い古した家具によくあるような様々な傷がついている。傷の半分は中古の楽器屋で買ったときにすでにあったもので、もう半分はライブなどで暴れ回ったときのものだった。ユウジは床に放り出されたままのシールドを自分のギターに繋ぎ、真空管アンプの電源を入れると、ストラップを肩にかけて、エフェクターのスイッチを足で何度か踏んだ。大きめの音量に設定されていたため、指が弦に少し触れただけで、鋸の刃を無理やり入れたときのような歪んだ音が室内を震わせた。
 ワタルは自分のギターを膝の上で抱えたまま、ユウジの動きをじっと見ていた。いつもよりエアコンの設定が強くされていたために『雨だれ』の楽譜が譜面台の上でぱたぱた揺れていた。だがその音はたやすくかき消されることになった。突然、目の前にいる木のように痩せた男が、指慣らしとでもいうように素早いパッセージを弾きはじめたからだ。ワタルには聴いたこともない音だった。店長もそんな早く激しい曲は弾いたことがない。ただのでたらめな雑音にも聴こえる。だがそれでもユウジのプレイがかなりのテクニックを備えていることはなんとなくわかった。ヘッド近くのフレットで低音を鳴らしていたかと思うと、急に左手を腰のあたりまで引き寄せて何百匹の小鳥のさえずりのような高音を出す。それを何度も繰り返す。ときどきキーボードを素早く叩くみたいに右手でフレット上の弦を押さえるライト・ハンド奏法を見て、その音がいったいどこから出ているのか、ワタルはわけがわからなくなった。だが男の表情が明らかに変わっていることには気づいた。さっきまで水温調節のミスで熱帯魚をすべて死なせてしまったような表情を浮かべていた男が、足を大きく広げて、素早く両手を動かし、体全体を前後左右に揺らしながら、鋭く生き生きとした視線を自分の左手に注いでいる。
 もう一つ、ワタルの体を固まらせたのは音量の大きさだった。ワタルは無理やり違う世界に連れてこられたみたいに呆然とするしかなかった。あるいは巨大なスピーカーの中に閉じこめられたようでもあった。不必要に拡大されすぎた音量はワタルの存在よりも圧倒的に大きく、彼の内臓を震わせた。ヘッドフォンみたいに手で両耳を塞いでも無駄だった。体の中にまで音がどんどん侵入してくる。胃のあたりが少し気持ち悪くなる。耳を塞いだまま、ワタルは叫んでみた。体の中の音を追い出そうと思いきり大声を出してみた。だがレスポールを肩から下げている男は表情一つ崩さず、古い国の呪術師のように両足を広げて両手を不規則に動かし続けていた。
 ユウジが演奏を止めたのは、ワタルの膝からギターが落ちてしまったからだった。両手で耳を塞ぎ、うつむいたまま大声で叫んでいるワタルの膝の上には、ギターを支えるものが何もなくなった。ギターの大音量が消えた瞬間、ワタルの叫び声だけがスタジオに響いた。ワタルはやっと聞こえた自分の叫び声に顔を上げ、手をはずした。ユウジがギターのネックを握ったまま、少し首を傾けて自分を見ている。外科医のように冷静な顔つきだ。
「どうした」
 何もなかったようにユウジが訊ねた。ワタルは何も答えることができなかった。ただ首を横に振るだけしかできなかった。胃のあたりがまだ重たい。ユウジはレスポールを最初にあった場所に立てかけ、アンプの電源を切って、丸椅子に腰を下ろした。ワタルがいつまでもうつむいているのを見て、床に倒れ落ちたガットギターを拾い上げた。
「このギターって……」ユウジはワタルの顔を覗きこみながら、ガットギターをワタルに手渡す。「このギターって……どこで買ったん?」
 ワタルは手渡されたギターに傷がないか見回した後、ユウジの顔を見た。「買ったんじゃないよ」
「じゃあ、誰かにもらったんすか?」
「父さんにもらったんだ。父さんも誰かからもらってきたん、です」
「へえ……お父さんか……そうなんや。実は俺もな、ちょっと前にそれと同じギターを使ってたことがあるん、です」ユウジは膝の上で肘をつき、口の前で両手を組んだ。「まったく同じ型のやつ。中学生ぐらいから使いこんでたな。別に大事にしてたわけじゃないけど」
 ワタルは膝のあいだにギターを挟んだ。彼の一挙一動をユウジはじっと眺めている。
「それがな、ある日盗まれたんですよ。三ヵ月ぐらい前かな、近くで夜桜の宴会やってたから、小遣い稼ぎでもと思ってそのギターを持っていったんです。もちろんみんな酔っ払ってるし、まともに人の演奏なんか聴こうとする奴なんかおれへん。でも桜の下で弾くのもなかなか気持ちよかったし、とりあえず一人で弾いてたんですよ」
 ユウジの言葉づかいが、ワタルにはどこか気持ち悪かった。
「そしたらですね」ユウジは続けた。「一人のおっさんが近づいてきたんすよ。自転車に乗って、ぐでんぐでんに酔っ払ったおっさん。よくいるタイプのおっさんや。そんで俺の目の前で停まるなり、因縁をつけてきたんやわ。あ、因縁ってわかる? 喧嘩を売ってきてん。『何勝手なことしてるんや』とか『誰の許可を取ってるんや』って。とにかく一方的やったから、関わりにならんとこうと思ってまた弾き始めてん。そしたらおっさん、自転車に乗ったままいきなり俺の肩を蹴りよったわ。俺みたいなしょうもない人間に相手にされへんかったのがよっぽど腹立ってんやろうな。土の上に倒れこんだ俺の体を蹴り続けよったわ。なんか、わけのわからんことわめきながら、ずっと蹴っとったな。それでふと気づいたら、もういなくなってた。俺のギターも一緒にですよ」
 エアコンの風が冷たすぎるのかもしれない。話している途中で両手に息をふうふうと吹きかけながら、ユウジはワタルが握っているギターを見つめていた。ワタルはユウジが何を見ているのか知っていた。だからユウジの顔から決して目を離そうとしなかった。
「ヘッドのところに何か彫ってあるな」ユウジは指さした。ワタルは一瞬、自分が指されたのかと思って目を見開いた。「ほらそこにY・Mってあるでしょ。下手くそな字で。それとまるっきり同じ字が、俺のギターにもあったと思うんですよ。そうそう、確かあった」
 その字はヘッドの後ろに彫られていた。彫刻刀で直線的に彫った拙い字だ。そんなものが彫られていたなんてワタルはそれまで気づかなかった。『雨だれ』の楽譜がまだ小さな音を立てて揺れている。
「別に気にせんでいいですよ」ユウジは口の端を曲げ、声を出さずに笑い顔をつくった。「別にうまい演奏でもなかったし、大体あんなとこで弾いてたら、絡まれるのはわかってることやから。それに偶然まったく同じギターなのかもしれんやないですか。傷も何もかも。そうでしょう。そのギターはもちろんあなたのものですよ」
 ユウジは歯を見せていた。まるで自分のギターをワタルが手にしていることが嬉しいみたいに。
「そういえばこのあいだ、女の子と一緒におったよね?」ユウジは言った。「二人ともベンチに座って。あれは彼女?」
 ワタルはユウジの目頭をじっと見ていた。黄色く乾いた目脂がついている。たぶん朝起きたときから一度も顔を洗っていないのだろう。「違います」ワタルは目脂に向かって答えた。「そんなんじゃないです」
「へえ」はじめから興味がなかったようにユウジは軽く頷いた。「じゃあ、あなたは童貞って知ってますか?」
 ユウジは目を細めてワタルの反応を探った。ワタルは何も反応を示さなかった。睫毛一本すら動かさなかった。童貞の意味は知っていたが、ただ黄色い目脂だけを見ていた。
「俺はね、二十七歳で童貞なんです」ユウジは言った。「二十七歳で、まだおめこ見たことないんですよ。もちろん雑誌とかではあるけど、この目でじかにはないってことです。それでもしかしたらあの後、あの女の子の、あの不細工な女の子のおめこをあなたは見たんかなあと思って」
 ワタルは眉間に皺を寄せた。目の前の男があの女の子に何かしたのではないかと思った。
「ごめんなさいね。ぶっちゃけた言い方で。でも俺は正直に言ってるだけなんすよ。最近ね、ほんま正直に思うんです。もうこのままおめこなんか見なくてもええかなって」
「あの子に何かしたんですか?」ワタルはしっかりした声で訊いた。
「あほな。違うよ」ユウジは小さな歯を見せた。「そういう趣味は持ってないよ、俺は。ただな、あなたがこの先ずっとギターを弾いていくなら、おめこなんか見ない方がええんちゃうかなあって思って」
「どういうことですか」
「いい演奏がしたいならセックスするな。これが本日のワンポイントアドバイス」
 ワタルは手にしていたガットギターをユウジの方に押し出した。ギターに触っていると、ユウジの黄色い目脂に触れているような気がしてきた。
「それはもうあなたのもんやで」ユウジはギターを受け取らずに立ち上がった。「捨てるなり壊すなり、好きにしたらええ。それはもう俺の手から離れて、あなたのもんになったんやから」
「返しますよ」ワタルの声は震えていた。「僕は自分のを買う」
「はは、震えんでも大丈夫や。あなたはまだ不安やと思うけど」
 不安? ワタルは一瞬手にしたギターでユウジの顔面を殴りたくなった。
「これからあなたはまわりのことをどんどん嫌いになっていくよ。そんでいずれは何もかもが嫌いになる。だからそんなに震えんでも大丈夫や」

(3へ続く)

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