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魔人

 舞台女優である志村さんの部屋に、魔人が現れるようになってから半年が経とうとしていた。ちょうど扇風機を押入れにしまおうとしていた夏の終わりの夜、魔人は初めて現れた。それから半年のあいだ、魔人は一週間連続して現れることもあれば、十日ほど空けて何の前触れもなく志村さんの部屋に現れることもあった。困った志村さんは半年間そのパターンをなんとか掴もうとした。しかし時間帯が毎回決まって真夜中だということ以外、魔人が現れるパターンはまったくのバラバラで予測不可能であった。まるで赤子の夜泣きのように、魔人はいつも志村さんの予測を裏切り、彼女の部屋に現れたり現れなかったりした。魔人にとっては志村さんの都合などお構いなしのようだった。そのおかげで志村さんは次第にごはんがうまく喉を通らないようになったり、不眠症にかかったり、ついには台本をうまく覚えられず、舞台でも演技に入り込めないようになっていった。
 志村さんは一度、劇団で一番親しくしている同い年のミサワさんに、魔人のことを相談したことがあった。自分のことを打ち明けて相談できる人など、志村さんのまわりにはミサワさんぐらいしかいなかった。
「ふうん、そうなんだ。でもそういうことってよくあることなのよね。みんな口にしないだけで。気にしない、気にしない」
 ミサワさんはそう笑い、志村さんの肩を叩いた。そして手羽先にかぶりつき、三杯目のチューハイを大声で注文した。志村さんの方はまだ最初の一串も食べ終えてなかった。焼鳥屋を出て、すぐにミサワさんと別れると、志村さんは全身が空洞になったような深いため息をついた。
 その凍てつくような二月の夜も魔人は唐突に現れた。深夜二時に舞台の稽古を終え、くたくたになってアパートに帰り、電気ストーブのスイッチを入れて、台所の椅子に座りながら電子レンジの中でミルクが温まるのをぼんやり眺めていたときだった。電子レンジから現れたのはミルクではなく、魔人だった。
「まいど」
 魔人はいつもの立て付けの悪いドアのような不吉な声でそう挨拶した。その声に志村さんはまだ慣れることができなかった。魔人の声を聞くと、無意識に眉間に皺が寄ってしまうのだ。魔人は志村さんのそんな顔色をうかがうと、口の端を曲げて笑い、テーブルの上まで一気にジャンプした。
「四日ぶりでおまんな。顔色もいい具合に悪くなっとる」、魔人は梅干しみたいな皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにしてそう言った。
「ミルクはどうしたのよ」
 志村さんは頬杖をついたまま、テーブルの魔人を見下ろしそう言った。魔人は志村さんの言ったことが聞こえなかったみたいに醤油びんの隣にあぐらをかき、面倒くさそうに灰色のネクタイを弛めた。灰色のスーツに灰色のシャツ、灰色のズボン、灰色の靴下、灰色の革靴、そして灰色の帽子。皮膚の色まで灰色だった。まるで灰が入った壺を頭からかぶったように、魔人はいつもどおり全身灰色だった。
「何を言うてますのんや。どうでもいいことでっしゃろ。牛の乳のことなんか」、魔人は志村さんを見上げてそう言った。その口元は鎌のように横に広がっている。志村さんは何も答えず、魔人の口の端に溜まった白い泡を見ていた。
「芝居と同じでどうでもいいことでっしゃろ」
「何のことよ」と志村さんは言った。
「あんさん、ほんまは芝居なんかしとうないねんやろ?」、魔人は少し間をあけてそう言った。「毎晩こんな夜遅うに帰ってきて稽古しとるようやけど、別にそれだけのことや。率直に言わしてもろて、芽一つ出てきてへん。そりゃそうや。高校の演劇部からなんとなく続いてきただけのもんやからな。人生の生き甲斐っていうもんとも別に違う。まあ言えば牛の乳ぐらいどうでもいいことやろ。それに最近はちょっと疲れてきてるんとちゃうか、演じることに。どうや、図星やろ」
 志村さんは頬杖をついたまま、魔人の顔を無表情に眺めていた。たしかに魔人の言ったとおり、ミルクを飲みたいという気は別になくなっていた。志村さんはため息をついて言った。「あなたは分かってないわ。演劇部に入ったのは中三よ」
「へへ」と魔人は短く笑った。「いいや、わいには分かっとるで。だからこそ、わいはこうやってあんさんのところにお邪魔することになったんやからな」
 魔人が黙ってしまうと、まわりは時計の音以外何も聞こえなかった。ためしに時計を見上げてみると、深夜二時半を過ぎていた。夜はますます深くなっていき、志村さんの意識はますますはっきりと醒めてきた。魔人が現れると、志村さんの意識はいつも澄んだ夜の満月のように覚醒していくのだ。
「さあ」、魔人はそう口にすると、スーツのポケットからハンカチで包んだものを取り出した。そしてそれを自分の前に置き、ハンカチの端を四方にゆっくりと広げた。
「今晩は何の話をします? 劇団で隠れて付き合ってるブサイクな恋人同士の話? セックスの喘ぎ声がうるさい隣の部屋の男の話? それとも殺してやりたい人間の話でっか? ああ、久しぶりにむなしい宇宙の話でもします? それでもええでっせ。夜はまだまだ長い。牛の腸のように長い。あんさんが想像しているよりも、もっともっと長くて深いんや。宇宙のことをどこまででもとことん語り尽くすこともできるほどや。あんさんはまだ夜のことを知らなさすぎる。ほんまの夜っていうのはな、何もかも喰いつくすんや。人間一人なんかあっというまに喰われてまうで。最後には骨一本残らん」
 魔人が広げたハンカチの中には、赤黒い血にまみれ、柔らかくぬるぬるとした小さなものが山積みになって入っていた。それらはネズミかなにかの小動物から大量に取り出された内蔵のようにも見えた。
「ほな、わいはこれを食べながら話させてもらいますわな」、魔人はそう言うと、その一つを口の中にほおり込んだ。血にまみれたどす黒い塊は、魔人の細かい歯に何度も咀嚼された。魔人の口の端から血が滴り落ち、灰色のスーツやズボンに染み渡っていった。
 志村さんは魔人が食べている様子を眺めながら、舌の根元が乾いていくのが感じられた。この四日間志村さんは水分を摂る以外、ほとんど何も口にしていなかった。半年前、魔人が現れてきてから、食欲というものが徐々に失われてきたのだ。ときには食べることが苦痛に感じたことさえあった。今となってはまるで胃という限定された小さな空間がすっぽり消え去ってしまったようだった。
 その夜は結局宇宙の話はしなかった。犬が小学生にいじめられていたこととか、近頃いたずら電話が多いとか、そんな断片的な話だった。話の途中で魔人は顔をくしゃくしゃにし、口を大きく広げながら何度も大声で笑った。何がそんなおかしいのか志村さんにはまるっきり理解できなかった。その笑い声を聞いていると、ミサワさんの笑い声を思い出したりしていただけだった。

(2003年作)

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