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夢と魔法とみどりのおっさん 第六話

■ここは君のくる場所じゃない

 誰にだって戦争というものがいずれ訪れるらしい。つまり戦争がこないということは、その人間は一生奴隷ということになる。それではいったい何の奴隷なのかということになると、誰も答えることができない。たぶん誰もわかってはいない。あるいはわかっていても言葉にして他人にうまく説明することはできない。組子さんの説だ。
 しかしいくら何かわからないといっても、戦場へと向かうにはあまりにも軽装すぎるだろうと僕は思った。黒い長袖のシャツと黒いズボン、所持品といえば携帯電話といろんな店のポイントカードがつまった財布だけ。組子さんといえばいつもどおりの恰好だ。Tシャツに半ズボンにスニーカー。そして革のリュックサック。まるで今から学習塾にでも行きそうな恰好だったが、彼女はもちろん学習塾などには通っていなかった。彼女はそういった世界との繋がりを一切絶ったかのような確固とした目つきで電車の窓から外を睨んでいた。まるで自分がいまから向かうのは血も涙もない戦場なのだといわんばかりに。
 夜の八時頃、僕らは舞浜駅のホームに降り立った。まだキッズが多く、鼠の姿がプリントされた袋を手にしたり、鼠の耳が付いたキャップを被っていたりした。誰もが大声で話したり、笑い合ったりしている。
「戦わなければいけないんですよ」組子さんは呟いた。
「いったい何と戦えばいいんだろう」
「それはそこにある何かです」組子さんは言った。「たとえば今のところは奴らよ。カーペットコロコロ男」

 日曜日の朝、テレビの情報番組で夢と魔法の王国の特集が放送されていた。そろそろ近づいてきた夏休みに向けてのタイアップ番組である。若い女のレポーターキッズが新しいアトラクションに乗ったり、レストランで新メニューを注文したりして、大げさな感想をカメラに向かって述べている。岩山をバックに話しているレポーターを大勢の大人や子供のキッズが取り囲む。キッズはカメラに映ろうと他のキッズを押しのけたり、手を振ったりしていた。そこに一瞬、見覚えのある顔が映った。キッズとキッズのあいだに烏帽子田さんの姿がふと見えたのだ。あの野球帽を被り、あの灰色のスーツを着て、手にはデパートでもらうような紙袋を提げていた。烏帽子田さんには一度しか会ったことがないが、彼の風貌はそう簡単に忘れられるものではない。
 しばらくしてベランダの柵を叩く音がした。どうやら組子さんもテレビを見ていたらしい。
「見てましたよね、テレビ」空から組子さんの声が降ってくる。
「見てたよ。やっぱりすごいね、あそこは」
「いましたよね、あいつ」
「うん、いた」
「わたしの部屋にいたのとまるっきり同じだった。カーペットコロコロ男」
「コロコロ男?」
「画面の隅の方で、ずっとコロコロしてましたよ。見たんじゃないんですか」
 僕はテレビの画面を思い出そうとしたが、浮かんでくるのはやはり烏帽子田さんの姿だけだった。「見てたけど、そんな奴がいたなんて覚えてないな。僕が見たのは烏帽子田さんだよ」
「烏帽子田さんってクビになったんでしょう」
「でも王国の人間からつけ狙われるようになって――たぶん君の部屋に現れた男だと思うけど――然るべき時がくるまで身を隠してるって言ってた」
「で、その然るべき時がきたんですね」
「そういうことなのかな」
「やっぱり烏帽子田さんはノン・キッズだったんだわ。キッズ対ノン・キッズの戦争よ。早く行かないと」
「行くって、何しに」
「だから戦いに」
「ちょっと待って。ノン・キッズって組子さんと烏帽子田さんだけだろう、今のところ。戦うにしても数があまりにも違いすぎるよ」
「数なんて問題じゃあないです。それにあなたもいますし」
「僕もノン・キッズなの?」
「もしかしたらそういう素養はあるかもしれないです」
 僕はふと妻のことを思い出した。組子さんからみたら妻はどっちだったんだろう。というかこれはいったい何の話なんだろう。キッズ? ノン・キッズ?
「とにかく」組子さんは大声で言った。「戦わなければいけないんですよ」
「また吐いちゃうかもしれないよ」僕は組子さんを見上げながら言った。
「大丈夫です。前みたいに奴ら幽霊みたいに消えてしまいますから。奴ら本当は気の弱い連中なのよ。だからああやってこそこそと動き回ることしかできないんです」
 以前組子さんの部屋に現れたカーペットコロコロ男は、彼女がベランダから激しく嘔吐した後、ドアも窓も開けずにいつのまにか煙みたいに消えていたのだ。
「でもあんまりなめちゃいけないと思うよ」僕は言った。「彼らも生活が賭かっているから」
「私だって同じですよ。私も私の時間を賭けています。ねえ、あなたはおかしいと思わないんですか。何にもなかった海の上に山を削った土砂を埋めて、その上にでっかい玩具みたいな城を建てて、変なキャラクターたちを住まわせるなんて。それでお金儲けをしているんですよ」
「そういう類いのことは他でもやってるけどね」
「だからってそれが良いってことにはならないでしょう」
「それで」と僕は言った。「まず何をするんだろう」
「だから行くんです。夢と魔法の王国へ」
「いつ」
「今晩」
「明日は月曜だよ。仕事がある」
「やっぱりあなたはキッズかもしれない」組子さんは溜め息をついた。

 結局その夜、僕は組子さんと一緒に舞浜へ向かった。はっきり言って組子さんほどの切迫感は僕にはなかった。これは戦争なのですよと言われても、僕にはその相関関係をうまく思い浮かべることができなかった。組子さんの思い描いているものが僕の敵だとは限らないし、正直カーペットコロコロ男などには近づきたくなかった。あるいは組子さんにしたって明確なイメージを持っているわけではなかったかもしれない。しかしただ、彼女はその極めて不確かな何かを嗅ぎわけることができるようだった。特にかわり映えのない空気の中に潜んでいる不穏な流れを二つの大きな瞳で追うことができた。その不穏な流れが誰にも見つからないようにまわりの空気にうまく溶けこんでいたとしても、彼女が目を細めじっと耳を澄ませば、その侵入を見破ることができるようだった。そのような不快感が彼女にとって嘔吐してしまうぐらい切実なものであることは僕にもわかった。だからこそ僕は彼女と一緒に夢と魔法の王国へ行くことになったのだと思う。
 もう一つ、テレビの画面で見かけた烏帽子田さんの姿が気になっていた。なぜ彼はそんなところにいたのか。彼はある種の犠牲者だろうと思っていた。夢と魔法の王国の犠牲者なのか、わんぱく相撲の子供の犠牲者なのか、あるいは世の中が変化していくために切り捨てられる犠牲者なのか。とにかく二人で会った喫茶店で坐っていた烏帽子田さんの姿を思い出していると、いつも彼の背中に「犠牲者」という文字が商品のシールみたいに貼られている映像しか浮かんでこなかった。
 夜の十一時を過ぎた。組子さんと僕は茂みの中に身を隠して、キッズが少なくなるのをひたすら待ち続けていた。王国に侵入するタイミングを探っていたのだが、深夜にもかかわらずキッズはあたりにぱらぱらと歩いている。仕事を終えた王国のスタッフらしきキッズも黙々と舞浜駅へと向かっていた。歩道は閑散としていたが、両脇に並ぶ西欧風の街灯はどうやら夜中も消えることはなさそうだった。夜空に小さく浮かぶ月の光をかき消すかのように眩しく光り続けている。
「眠くない?」僕は小声で訊ねた。茂みが乾いた音を立てる。
「眠くないですよ」組子さんは前を睨みながら言った。「浜本さん、明日の仕事のこと考えてるのね」
「そりゃあ少しは」
「黙っててください」
 それからしばらくして黙っていると、入園口の方から男が近づいてきた。きましたよ、と組子さんは囁いた。男は真っ黒だった。最初は夜の暗さのせいだろうと思っていたが、こちらに近づいてくるとそうでないことがわかった。街灯に照らされた男の姿は本当に真っ黒だった。真っ黒なスーツに真っ黒なシャツ、そして真っ黒なネクタイを締めていた。男はまるで事件現場を調べる鑑識官のように腰を落としたまま近づいてきた。片膝を地面につき、片手を腰にやって、もう一つの手でコロコロを持ちながら、アスファルトの上を丁寧にコロコロしながら徐々に近づいてくる。ずっと下を向いているせいで表情はよくわからない。
「行きましょう」
 組子さんの鋭い語調を合図に、僕らは茂みを抜け出した。そしていちばん近くの金網をよじ登り、入念に植えこまれた木々のあいだへと飛び降りた。振り返ることなく、木々の薄暗いあいだを小走りに通り抜けていった。何の警報も鳴らない。すんなりと王国に侵入できたのは予想外だった。
「あれが例の?」僕は走りながら訊ねた。
「カーペットコロコロ男」組子さんは答えた。
「素朴な疑問があるんだけど」
「なんですか」
「なんでコロコロの粘着テープが地面に引っつかないんだろう」となりを走る組子さんの横顔を見た。「普通ならテープがぐちゃぐちゃになるはずだ」
 僕の質問など聞こえなかったみたいに組子さんはまわりの様子を窺っている。彼女の顔は少し青白くなっていた。
「ぐちゃぐちゃになったら、駄目なんですよ」組子さんは息苦しそうに答えた。おそらく体育の授業を受けていないせいで体力がついていないのだ。「ぐちゃぐちゃにならないようにしているんですよ」
 通り過ぎていく木のあいだからいろいろな建物が見えた。城塞のような立派な門や、農夫が住んでいそうな小屋や、はるか遠くにはシンデレラの高い城がそびえていた。アップライトに照らされたそれらの建造物はすでに終焉してしまった祭りの雰囲気を漂わせていた。たしかにそこには人々をキッズにさせてしまう夢と魔法が見事に演出されているようだった。だが細かい部分をよく見てみると、岩山に塗られたペンキは剥がれ落ち、木々には電飾のための導線が巻きつけられ、ごみ箱の中には鼠のイラストが描かれたビニール袋が無残に破り捨てられていた。
 やがて川に出た。もちろん人工の川である。あたりは鬱蒼と樹木が茂っていて、湿った土が敷かれていた。川床には段差がいくつもあって、水しぶきが絶え間なく続いている。どうやら川くだりのアトラクションのようだった。組子さんは立ち止まると、リュックサックを地面に降ろし、チャックを開けてなにやらごそごそし始めた。取り出したのはサランラップと輪ゴムで蓋をした牛乳瓶だった。
「それ何?」
「蛙の卵です」
 組子さんはサランラップをはずし、瓶の中を覗きこんだ。中にはドロドロの粘液にまみれた粒状のものが入っていた。彼女は瓶の中に指を突っこみ、納豆のように連なった卵を引っぱり出した。電灯に照らされてきらきらと反射したが、組子さんはそれをすぐに水の流れの穏やかな場所にそっと沈めた。
「孵化するまでそんなに時間はかからないでしょう。このあたりはきっと元気な蛙だらけになります」
「なるほど。蛙の王国になるんだ」
「こんなのまだまだ序の口ですけど」
 川はちょうど僕らの目の前でU字型に湾曲していた。あたりには電灯が少なく、水の流れがどこから来てどこへ行くのか暗くてよく見通せなかった。中州には短い草が生えていて、なぜか大砲が備えつけられている。もう長年使われていないかのような時間の重みを連想させる欠けや錆びなどの装飾がわざとらしく施されていた。それでも砲身は猛々しく夜空に立ち向かう角度に固定されていた。
 水の中で揺れている卵をしばらく二人で見ていると、大砲の砲身から何か黒いものが出てこようとした。腕のような長いものが砲口のふちをつかみ、脚のようなさらに長いものがカクカクと曲がりながら砲身の中から現れてきた。やっと全身が外に出て、草の上にぱたっと足をつけると、やはりそれはカーペットコロコロ男だということがわかった。手にはもちろんコロコロを持っている。
「連中ってどこにでもいるんですね」組子さんは言った。
「ここは連中の場所だからね」
 組子さんはリュックを背負うと、ポケットから地図を取り出して、足早にその場を去ろうとした。次に向かう場所は彼女しか知らなかったので、僕はとりあえず彼女の背中を追った。途中、振り返ってみると、大砲から現れてきたカーペットコロコロ男は川をばしゃばしゃと乱暴にわたり、こちらの岸まで足を伸ばしていた。そして組子さんが水の中に沈めたばかりの卵をコロコロしていた。水から上げたコロコロのテープには黒い粒々がぎっしりと引っついている。
「追ってきてるよ」僕は組子さんの背中に向かって言った。
「コロコロしながら?」
「そう。しつこく追いかけてくる」
「大丈夫。コロコロしてる奴なんかに追いつかれないですよ」
 だけどそう簡単にはいかなかった。樹木地帯を抜け出して、アスファルトの地面にでると、そこらじゅうにカーペットコロコロ男たちがうろついていた。彼らは地面に落ちている塵一つも見逃さないように熱心に地面を見つめながらコロコロしていた。まるで秋の虫が一斉に鳴いているみたいにコロコロコロコロコロコロと響きわたっている。自分たちの清掃世界に侵入してきた不審者に気づくと、彼らはネジを巻いたようにくるりと向きを変え、僕らにむかってコロコロし始めた。
「とりあえず逃げるしかないね」僕は言った。
「でもまだ卵は残ってますけど」
 とりあえず僕と組子さんは闇雲に走り出した。ショップやアトラクションの小屋や噴水や鉄製のベンチのあいだを走り抜けていった。夜空には監視台のような細長い岩山がそびえている。カーペットコロコロ男はいたるところでコロコロしていた。だが彼らの動きは遅く、いつまでも単一的だった。地面や電柱や鉄柵やベンチなんかをコロコロしていて、僕らの存在に気づくと、ゆっくりとコロコロしにむかってくる。まるで手にしているコロコロ自体がエンジンあるいは車輪であり、彼らを乗せて走っているみたいだった。
 どこまで走ってもカーペットコロコロ男たちはいた。どこまでも逃げても彼らがいるのならいつまで逃げていても仕方がない、いっそのこと彼らと正面から対峙したほうがいいんじゃないかという気がした。動きも遅いし、木みたいに痩せている。子供の頃にテレビで見ていた仮面ライダーがショッカー隊員たちを片づけるみたいに、自分だってカーペットコロコロ男ぐらい倒せるのではないかと思った。
「水のあるところに行きましょう」
 組子さんは再び茂みの中に入りこんだ。そして木の根元にしゃがみこんだ。「はやく卵をばらまかなきゃ。でもちょっと休憩」
「とりあえず奴らをある程度片づけてからの方が早いんじゃないかな」
「甘いんですね」組子さんは舌打ちした。「だってあのとき、わたしの部屋から消えちゃったじゃないですか。たぶん奴らを普通にぶちのめすなんてことはできないですよ」
「でも連中に何かできるとも思えないけどな」
「連中は何でもします。きっとできるかぎりのすべてのことをしますよ」
 どこからかふと甘い匂いが漂ってきた。砂糖を煮つめたようなどんよりとした甘さだ。茂みをかきわけて覗いてみると、お菓子の装飾が施された小屋が見えた。匂いの出所は小屋の煙突からもくもくと立ち昇る煙だった。どうやらそこで何かを調理しているらしい。こんな夜中にいったい何をしているんだろうと様子を窺っていると、突然後ろで組子さんが咳こみだした。肺の底から空気を搾り出すようなとても苦しそうな咳だった。彼女の顔色は依然として青白い。
「大丈夫かい」 
「たぶん……わたしたちを……あぶりだそうとしているんだわ」
 組子さんは上半身を折り曲げ、両手で口を押さえて、胃の中から出てこようとするものを必死に押しとどめていた。肩ががたがた震えている。そのとき、彼女がもたれている木の上の方で音がした。見上げると嫌な予感のとおり、枝と枝のあいだからカーペットコロコロ男が姿を現した。頭を下にし、幹を抱きしめるようにしてじりじりと地上に降りてくる。突然変異した巨大な昆虫みたいだった。手にはもちろんコロコロを持ち、幹肌をコロコロしている。だがカーペットコロコロ男の目的は幹肌を綺麗にするだけではなかった。ある程度降りてくると、カーペットコロコロ男は組子さんの頭の上をコロコロし始めた。彼女の髪の毛が粘着テープに絡みつく。しかし組子さんは悲鳴を上げたり痛がったりしなかった。ただ顔を伏せてじっと嘔吐に耐えていた。
 僕はカーペットコロコロ男の手首を強く掴み、その体を木から引き剥がそうとした。カーペットコロコロ男の体は発砲スチロールみたいに軽かった。手首を掴んだまま地面に思いきり叩きつけてみたが、紙を投げつけたように何の手応えも感じられない。カーペットコロコロ男は仰向けになった体を亀のように首を使ってひっくり返し、僕の方にくるりと向いた。
 一瞬、その姿は妻がベランダから見ていた男を思い起こさせた。四つんばいの男。妻が目にしたのはカーペットコロコロ男なのだろうか。でもそれは緑だったはず。僕はカーペットコロコロ男の脇腹を力の限り蹴ってみた。だがやはりダメージを与えた感触はない。柔らかいゴムを蹴ったようだ。腕を引っ張っても、頭を引っ張っても、往復ビンタを加えても同じことだった。それは夢の中で自分の動きが意図したとおりの効果を発揮できないときのもどかしさに似ていた。ただ自分の体力が奪われていくだけだ。カーペットコロコロ男は僕の攻撃を頭から無視していて、短い草をずっとコロコロし続けていた。だがそれでもやはりカーペットコロコロ男はだんだんと木にもたれてぐったりしている組子さんに近づこうとしていた。
 僕はカーペットコロコロ男からコロコロを取り上げようとした。やはりカーペットコロコロ男たちはこのコロコロによって動かされているのではないかと思ったからだ。片方の手でカーペットコロコロ男の手首をつかみ、もう片方の手でコロコロを奪おうとした。その瞬間だった。影で真っ黒になっていたカーペットコロコロ男の顔に、ナイフで切りこみを入れたような長細い目がきらりと光った。カーペットコロコロ男は凄まじい力で僕を投げ飛ばした。そのとき土の中に半分埋まっていた石で背中を強打した。だが痛がっている余裕はなかった。カーペットコロコロ男は地面に倒れた僕をぎらりと睨みながら、肩を上下に動かして、ゆっくりこちらに向かってきていた。僕を投げ飛ばしたときのカーペットコロコロ男はもうゴムのようではなかった。確実にこちらに敵意を持っている一人の大人の人間だった。
 僕は立ち上がり、組子さんを背負うと、全力で走り出した。茂みを抜けると、さっきよりも多くのカーペットコロコロ男たちがあたりを動き回っている。彼らの動きはまだ鈍かったのでその隙間を走り抜けることはできたが、こちらの存在に気づくと彼らはやはり向きを変えて、僕らの後を追いかけてきた。どこからか次々と集まりだし、兵隊のように列を組みながらこちらに向かってくる。
 組子さんの温かな息が首筋にかかる。彼女は苦しそうに何かを呟いている。しかし何を呟いているのかはよく聞き取れなかった。彼女の軽く小さな体が背中で揺れているのを感じていると、やはり彼女はまだ子供なのだということを認めずにはいられなかった。まだ大人の誰かがしっかりと守ってやらなければいけない年代なのだ。僕はできるかぎりカーペットコロコロ男たちを引き離し、彼らが比較的少ない方向を選んでいった。しばらく走っていくと、まわりにアトラクションのないひっそりとした場所にトイレが建っているのが見えた。僕は組子さんを背負ったまま男子用の方に入った。黄色い電球が弱々しく光っている。組子さんは文句を言うかもしれなかったが、僕が女子用に入るよりはましだった。
「とりあえずここには水があるよ」
 振り向いてそう話しかけても、組子さんは目を閉じたまま、ふう……ふう……ふう……と苦しそうに呼吸を繰り返しているだけだった。額にはうっすらと汗が滲んでいる。僕は組子さんをベビーシートに坐らせて、リュックサックをはずしてやった。彼女は水につけた雑巾みたいにぐったりとうなだれている。僕は彼女のリュックサックを開けてなにか飲み物を探した。中には蛙の卵が入ったビンがまだ四本残っていた。その横に緑茶の入ったペットボトルがある。僕はペットボトルの蓋を開けて、組子さんの口に近づけた。
「飲むかい」
 組子さんは飲み口にそっと口をつけた。そしてペットボトルを手に持ち、ゆっくりとお茶を喉に流しこんだ。「……大丈夫です」彼女は呟いた。
「もう帰ろう」僕は言った。「ここは君のくる場所じゃない」
「でも……卵を、ばら撒かなきゃ」
「そんなのすぐに見つかって、コロコロされるだけだよ」
 そのときだった。大便用の個室から水が勢いよく流れる音がした。そんな遅い時間に誰かが用を足しているとは考えにくい。便器の中からカーペットコロコロ男が這い出してきた可能性の方が高い。僕は組子さんのリュックサックを胸の前にかけて、彼女を再び背中に担いだ。外にはたぶんカーペットコロコロ男たちが集まってきているだろうが仕方ない。僕はトイレから走り出そうとした。しかし遅かった。ドアは勢いよく開かれた。振り返ると、みどりのおっさんが床の上に四つんばいになっていた。
「長い戦争がはじまる」
 それは烏帽子田さんの声だった。

第7話:https://note.com/osamushinohara/n/n4bbc2943606f

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