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星の樹

 空の端が白みはじめ、もう少しで太陽の片鱗が地平線からあらわれる時間になると、わたしはいつもどおり外出するため身支度を始めた。ベッドを出ると、まず熱いコーヒーで体を温める。冬の朝は窓ガラスが真っ白に曇り、外は水車が凍りついてしまうほどの冷風が吹きつけている。たとえ波が空中で凍結してしまったとしても不思議ではない冷たさだ。
 わたしは分厚いセーターの上から、木こりに貰った兵隊用のロングコートを着た。着るというより装着すると表現したほうが適切かもしれない。それぐらい頑丈で、ボタンがやたらと多いコートだ。「女の子には少し重いかもしれない」と木こりはつけ加えた。たしかに忠告どおりコートを着ていると次第に肩が重くなり、身動きが取りづらくなった。でも、その分ほとんどの寒さはしのげた。木こりの背丈はわたしとほとんど同じなので、サイズも気にならない。わたしはさらにその上からマフラーを口元までぐるぐる巻きつける。足元は分厚い靴下と真っ黒な皮のブーツを履く。頭には毛糸の帽子を深くかぶり、手にはトナカイの皮で作られた手袋をはめる。それだけの準備が整うと、木こりを起こさないように静かに小屋のドアを開け、外へ出た。
 空のほとんどはまだ暗い。青いインクのような色をしている。微かに瞬いている星を確かめる。吐く息で目の前が白く曇り、耳元でびゅんと風の音が鳴った。わたしは眉間に皺を寄せ、冷風から逃げるように小屋の裏側にまわり、足早に納屋へ向かった。
 それはちょうど大人の馬が一匹入れるかどうかの小さく古い納屋だ。扉を開けると、黴臭い匂いが漂ってくる。扉を閉め、束の間の温もりにほっと一息つき、電球をつけた。薄暗いオレンジ色の光が納屋の中を照らす。中の棚には木こりが仕事で使い込んだ斧や鋸などがきちんと整頓されて置かれてある。どれもこれも古く黒ずんでいて、握り手の部分が少し擦り減っている。床には大量の薪がきれいな山形に積まれ、縄でしっかりと縛られてある。他には鍋やランプや置時計など、もう使われなくなった家財道具が奥のほうにひっそりとしまわれてある。毎朝その光景を見るたび、わたしは木こりの中の何かに触れるような気がする。
 そんな木こりの道具とは不似合いに、入り口側の隅には錆びた鉄製のタンクが置かれてある。馬車の車輪をもう一回り大きくしたような丸い形のタンクだ。わたしはまずタンクの上に置いてある籠を手にする。籐で編まれた小さな籠で、長い紐がついてある。それをきゅっと腰に巻きつける。次にタンクに背を向けてしゃがみ、タンクに付いている二つの肩紐に両腕を通す。そして肩紐を両手で強く握り、体に緊張を巡らせると、一気に立ち上がり、その勢いと共にタンクを背負い込む。この瞬間が一日のうちでわたしの志気がもっとも高まるときだ。タンクはすごく重い。男の人でもこれを平然と持ち上げられる人はそういないだろう。これで今日もまた一日が始まる、タンクを背負うといつもそんな感じがする。わたしはいつものようにタンクの側面に備えつけられてある吸引器を手元に持ってきて、正常に機能するかどうか確認した。吸引器も鉄製で、おしりの部分からはホースが伸びており、それがタンクのてっぺんまでつながっている。大きさは馬のペニスほどある。といっても、わたしは馬のペニスをまだ実際に見たことはない。それに馬車の車輪も見たことはない。それどころか馬そのものすら見たことがない。ならばもうちょっと他に表現のしようがあるとは思うのだけれど、でもなぜだか馬のペニスと馬車の車輪以外はわたしにはうまく思いつけない。正確な表現はできないけれど、でもまあ大体それぐらいの大きさだとは思う。いつか馬のペニスや馬車の車輪を実際に目にするときがくれば、わたしはきっとこの納屋や丸いタンクや吸引器のことを思い出すのだろう。わたしは吸引器を元に戻した。体を動かしタンクの位置を調節すると、電球を消し、納屋を出た。
 小屋の前の広場を抜けると、すぐ森に入る。砂浜へ行くには森を通らなければいけない。でも、わたしは森があまり好きじゃない。冬になると森は一斉に葉を失う。黒い幹と枝だけになった木々が小屋のまわりを取り囲むようになる。その風景はまるで地中から奇形の骨がたくさん突出してきたように見える。木々の間を歩くとどこか体のなかみをちくちくと突かれている感じがするのだ。でも、砂浜に通じる道は森しかない。前に進むたびに、切りつけるような冷気が鼻腔に流れ込み、わたしは何度も鼻をすすった。耳がちぎれるくらいに痛む。
 枯れた森の中は薄暗く、しんと静まり返っている。ブーツが枯葉を踏みつける音と、タンクと吸引器がぶつかり合う金属的な音だけが森の中に大きく響いた。わたしはなるべく星の状態を観察しながら、森を抜けることにしている。黒い枝の間に見え隠れする夜明け前の空を見上げながら、歩くことにしている。どの星が若くてどの星が老いているか、新しく生まれた星はないか、小さくなって落っこちてしまいそうな星はないか、とか。コートのポケットに手をつっこみ、鼻をすすりながら、星のひとつひとつを観察する。その作業は毎日繰り返しても終了してしまうことはない。星はいくら数えても数えきれることはないのだ。そしていつも二十ばかりの星を観察し終えた頃になると、ちょうど波の音が聞こえてくる。森を抜けると、そこは海だ。
 わたしは星の観察をやめ、砂浜をざくざく進む。厳しい冷風が吹きつけ、波が高く持ち上がっては、その身を砂浜に激しく打ちつけている。もちろん空中で凍結したままの波など何処にも見当たらない。強い風のせいで海面は地震みたいに大きく揺れていた。「冬の波には気をつけた方がいい」と木こりはわたしに忠告した。その忠告どおり、わたしは波から遠ざかったあたりを歩く。そして、まずいちばん近くにある老いた星を目指す。
 砂浜には、真夜中のうちに空から落ちてきた星達が転がっている。老いた星達だ。そばに寄ると、見上げなければならないほどの大きさがある。老いて小さくなったといっても、やっぱり星は星だ。大きい。わたしの背丈の三倍以上はあるだろうか。表面は焦げ茶色をしていて、触れるとザラッとした感触がある。すごくゴツゴツした大きな球体である。まるで木の幹を何十本も複雑に絡ませて、それを巨人が無理やり手で丸めたみたいにみえる。でもそんな見ためとは違って、老いた星は意外に軽い。もちろんわたし一人の力で持ち上げることはできないけれど、強い風でも吹くと、ふと思い出したようにカサッと乾いた音を立てて、少し転がる。なにしろそれはもう老いてしまった星なのだ。夜明け近くになると、砂浜のいたるところに老いた星が点在している。普段は二、三十ぐらいだけれど、多いときには百を超える数の老いた星達が、誰もいない白い砂浜の上で静かに転がっている。
 ある一つの老いた星を目の前にすると、わたしはまず背中のタンクから吸引器を手元に持ってきた。そしてその先についたゴムのキャップを外した。薄暗い闇の中で、長い銀の針はいつも微かにきらめく。針が剥き出しになった吸引器を、注意深く肩の上に担ぎ、そこで一呼吸置いた。それから思いっきり勢いをつけて、わたしは針を老いた星に突き刺した。でも感触は硬い。老いた星の表皮というのはすごく硬くなっているので、針はいつも半分ほどまでしか刺さらない。たぶんわたしの腕力が足りないせいもあるんだろう。それから後は手で押して吸引器をぐいぐい押し込めるしかない。針が最後まで刺さらないと、星のなかみに届かないのだ。この作業がいちばん苦労する。なかなか奥に入ってくれない。厚着をした服の中でじっとりと汗が出てくる。それでようやく針が根元まできちんと刺さると、今度は吸引器のおしりから挿入されてある吸引棒をゆっくりと引き抜く。星のなかみを吸い出すのだ。星のなかみはホースを伝って、背中のタンクにどんどん蓄積されていく。そして吸引棒を最後のひっかかりまで引き終えると、いったん針を抜き、吸引棒を元の位置まで押し戻す。一回では星のなかみはすべて吸い出せないので、また同じ穴に針を突き刺し、さっきと同じく吸引棒を引き抜く。その作業を五、六回ほど繰り返すと、一つの老いた星からなかみを完全に吸い出すことができる。
 老いた星の方はなかみを吸い取られるほど、みるみる小さくしぼんでいく。細胞が収縮し、乾ききっていくのだ。完全になかみを吸い取られたときには、大きな岩石みたいだったものがクルミぐらいにしぼんでしまっている。クルミと見間違えるほどクルミそっくりになっている。針で突き刺した黒い穴も見つからないほど小さくなっている。わたしはクルミのようになった星を砂の上から拾い上げ、腰にぶら下げた籠の中に入れた。そして再び砂浜を歩き出し、次の老いた星へと近づいていった。
 
 星達の中でも、老いた星は近いうちに光を失うことになる。老いた星は古代、まだ星の樹が若い頃、その実として生まれた星だ。老いた星は気が遠くなるくらいの時間を越え、夜の中でずっと発光し続けてきた。長い長い時間のことだ。でも、どれだけ強い光を放ち、多くの時代を眺めてきた星でも、永久に暗闇を照らし続けることはできない。どんな星であろうと、わたし達と同じようにいつか必ず死んでしまう。星はその永久と思われたような長い一生を終えるとき、ゆっくりと光を弱め、その姿を小さくしていき、静かに力尽きていく。そしてまわりの闇と見分けがつかないほど暗くなると、星は星の樹から離れ、夜空をななめに横切り、きまってこの砂浜にボサッ、ボサッ、と落下してくる。それは樹木の枝から熟しすぎた果実が落ちるのと同じことだ。冬は特にその量が多い。毎年冬になると、零度以下の厳しい風が町に吹きつけるようで、その風に研ぎ澄まされるかのように星はいっそう輝きを増す。他のどの季節よりも冬こそが、星にとって自らの輝きを完全に開放することができる最良の季節なのだ。でも、寒さに耐えられない星も多い。すでに輝く力を弱くした老いた星達。彼らは若い星のように寒さに対抗できるほどの輝きをもはや持つことができず、ただ冷風に身を切りつけられるだけで、そのまま砂浜に落とされてしまうことがある。冬が老いた星の死期を早めてしまうのだ。冬の夜の砂浜には、とうとう冬を越せなかったたくさんの老いた星が落下してくる。だからわたしも冬は忙しくなる。
 とにかく、星の樹から落下してきた砂浜の星達を掃除すること。それがこの世界でわたしに与えられた仕事だった。

 砂浜を隅から隅まで歩き回り、老いた星の抜け殻が籠にあふれるぐらい詰まった頃になると、すでに海面は太陽の光で細かく光り輝いていた。かもめが朝食の魚を探しながら、海の上を飛び回っている。もう空には星は見えない。砂浜にも星は見えない。それはわたしがもうすべて掃除してしまったからだ。
 わたしは朝の仕事が終わると、タンクを背中から降ろし、砂浜の上で膝を抱えた。そしていつものように海の方を眺めながら、しばらく星の樹のことを考えた。「星の樹のことはなるべく考えない方がいい」と木こりはわたしに忠告した。木こりは、わたしがこの世界に辿り着いてからいろいろな忠告をわたしに与えてくれた。わたしに寝床を与え、仕事を与えてくれたのも木こりだった。まるでそれも自分の仕事の一つだというように、木こりはこの世界での生きる術をわたしに与えた。
 木こりは星の樹についてはあまり話さないけれど、毎日老いた星を掃除するたび、わたしは巨大な星達が無限のように結実している星の樹を気にせずにはいられなかった。でも、いくら夜空に目を凝らしてみても、星の樹らしき姿を確認することはできない。だからといって朝に海を眺めていても、べつに何かが見えてくるわけじゃない。ただ空と海を隔てるまっすぐな水平線がはっきりと走っているだけだ。「星の樹はこの世界が出来あがったときから存在してたんだ」と木こりは言っていた。でも、わたしには星の樹というものが一体この世界のどこに存在しているのか分からなかった。
 星の樹のことを考えると、わたしの頭の中はいつも真っ暗になる。わたしの頭にいつも思いつくのはただの闇だった。なにか恐ろしく巨大なものにあまりにも近づきすぎてしまったため、全体を把握することができない、そんな種類の闇だ。いくら星の樹について想像してみても、わたしの想像力はその闇以上へはどこにも辿り着かなかった。
 冬の朝日はとても眩しい。光の純度が高いんだろうか、瞼を半分ほどしか開けられなかった。わたしはそれ以上考えるのを諦め、星のなかみがいっぱい詰まったタンクを背負って立ち上がった。そして木こりの小屋へ帰るため、再び森の道へと戻っていった。

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 テーブルの上には、すでに朝食の用意がされていた。パンと温かいスープが二人分、そして何種類かの野菜のサラダが大きな鉢に盛られてある。部屋の真ん中では古いストーブが燃料を黙々と燃やし続けている。
 わたしが砂浜から帰ってくると、木こりはいつも朝食を作ってくれている。ドアを開け、その光景を目にすると、いつもほっとした気持ちになった。手袋を外した両手をストーブで温めながら「いつもありがとうね」とお礼を言うと、「一人分より二人分作るほうが楽なんだ」と木こりは答えた。
「今日は昨日より寒かった」わたしはコートを壁に掛けた。
「これからはもっと寒くなる」
「星がいっぱい死んでたわ」
「仕方ない。それが冬さ」
 木こりはそう言うとスープを一口すすった。
 本格的な冬を迎えるのはわたしには初めてだった。わたしがこの世界に辿り着いたのは、ちょうど夏が始まった頃だ。初夏の暖かな光が海面に降りそそぎ、蟹たちが浜に姿を現し出す頃、わたしは広い砂浜にしがみつくように、一人倒れていた。なぜ蟹かというと、ぼんやり意識を取り戻し、目を開いてみたら、一匹の小さな蟹がわたしの目の前をちょうど横切ろうとしていたのだ。
「体の調子は変わらないか?」木こりがふと訊ねた。
「うん、平気よ。もうぼんやりしなくなった」
 わたしはそう答えて、朝食の席についた。
 この世界に辿り着いてからしばらくの間、わたしはずっとものが二重に見えていた。べつに熱もなかったし、体もだるくなかった。ただ、カーボン紙がずれてしまったみたいに同じ風景が二つに重なって見えていたのだ。きっと両目が一つの像を結ばず、別々のところを見ているんだとわたしは思った。そのせいでわたしはまっすぐ歩くことができなかった。眠るときに硬直していた筋肉が痛くなった。
「朝起きたら、いつのまにかひとつに戻ってたわ」
 わたしはまず湯気の立っているスープをすすった。体の中に火が灯っていくようだった。木こりは料理が上手だ。とても美味しい。広場の一部を耕した畑で、野菜も栽培している。
「あなたがくれたコート、あれとても温かいわよ」
 わたしはそう言うと、もぎたてのトマトを口に入れた。
「そうか、それは良かった。でも、君はまだこの世界になじんだわけじゃない。君は一度として冬を越していない」
 木こりは口元を拭うと、両手をテーブルの上に静かに置いた。そしてわたしの目をまっすぐ見つめながら言った。
「いいかい。前にも言ったように、冬の風ってもんはいろんなものからいろんなものを奪い去る。どれだけ暖かい部屋の中にいたって、どれだけ土の中の奥深くに潜りこんだって、冬の風はすべてのものから確実にその取り分を取っていくんだ。削り取るようにさ」
「それが冬の力なのね」
「そう。おれ達は毎年冬を越すたびに、少しずつ何かを失っていく。そうやってこの世界にだんだんなじんでいくんだ」
「蟹も?」
「蟹?」
 木こりは少し不意を突かれたような表情でわたしを見たが、すぐに話を続けた。
「ああ、蟹もそうさ。蟹も世界になじんでいる。少なくとも君よりかは。蟹もおれも自分のものを冬の風に奪い取られるのに慣れている。でも君はそうじゃない。おそらく冬の風は、まだ世界になじんでない君からいっぺんにたくさんのものを奪い取ろうとする。そうなると君はその突然できた大きな空洞に耐えられず、ぺしゃりと倒れ込んでしまうかもしれない」
 木こりはそこまで話すと、へらを使ってバターをパン一面にきれいにぬり、もぐもぐ食べ始めた。
「空洞」
 わたしはそう口に出してみた。そして馬のことを考えた。
 砂浜で倒れていたとき、わたしはすでに自分の名前をさっぱりと忘れていた。それどころか一体それまで自分がどこで何をしてきたのかまったく思い出せなかった。ただ、頭の中に残っていたのは、馬の記憶だった。この世界での生活を始め、木こりと共に暮らしているうちに、馬のことがふと思い浮かぶようになってきた。ちょうどものがひとつに見え始めた頃だ。わたしは馬の姿を実際に見てみたいと思い、町や森の中を歩き回った。わたし自身のことを思い出せるかもしれないと考えたのだ。でも、町に住む人は誰一人として馬を飼っていなかった。城の兵隊が馬にまたがっている姿も見たことがなかったし、森にも野生の馬は見当たらなかった。この世界のどこにも馬は存在していないようだった。ひょっとすると大昔、冬の風に存在そのものすら奪われてしまったのかもしれないと思った。でも、わたしの頭の中には馬はいた。まるで舞台の袖から袖まで一気に走り抜けるように、馬はわたしの頭の中に現れたり消えたりした。冬の風はわたしから馬の記憶を奪い取るんだろうか。
「気をつけた方がいい」しばらくしてから木こりはそう忠告した。
「ありがとう。気をつけるわ」わたしは答えた。
 木こりは朝食を食べ終わると、自分の食器を台所に持っていった。わたしは鉢に残った野菜のサラダを食べ続けた。

 木こりが仕事に行く準備を整え、窓の外を見ながら煙草を吸っているとき、わたしは砂浜で拾ってきた大量の星の抜け殻をいつものように木こりにあげた。毎晩木こりは夕食を食べた後、いつもテーブルに置いた酒を飲みながら、ナイフを使って星の抜け殻に細工を施し始める。それが木こりの夜の過ごし方だった。「クルミよりも質がいいんだ」と木こりは言った。木こりはそれで灰皿やドアのノブなど実用的なものから、動物の形をした置物や実際に音が鳴る笛のような装飾的なものまで作る。木こりは刃物を手にすると何でもこなせてしまうほど手先が器用だった。
「これだけあれば虫や魚も作れる」
 木こりはそう言うと、星の抜け殻を大きな布の袋の中にカラカラと入れた。そして煙草を自作の灰皿でもみ消し、仕事場である森の中へと出かけていった。
 わたしも食器の洗い物を済ませた後、再び外出する格好をし、納屋へ行ってタンクを背負った。午前中のうちに星のなかみを城の発電所へ届けなければならないのだ。

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 わたしは朝とは反対方向に森を抜け、町の入り口に着いた。
 町の入り口からは一本の大きな石畳の道が城までまっすぐ続いている。その道をずっと進み、町の中心にある噴水を通り過ぎると、城の姿がだんだんと目の前に現れてくる。決してきらびやかではない、角張った石造りの城が見えてくる。ほとんど城塞だ。「戦争のために作られたようなもんさ」と木こりは言っていた。そのとおり、城の前には近づく者を威圧するかのような大きな正門が立ちはだかり、その両脇には兵士が二人ずつ門番をしている。
 わたしはそこで屈するように横道にそれ、城壁沿いの道を進んでいく。長い草が生い茂った、ほとんど誰も通らないような細い道だ。そこをしばらく歩いていき、そのまま城のちょうど裏側まで回る。すると巨大な城壁の根元にぴたっと寄生するように、古ぼけた小屋が建っているのが見えてくる。
 わたしは小屋の前で立ち止まると、ドアの前に立っている見張りの兵士に通行許可証を見せた。兵士は首だけを斜めに傾け、しばらくわたしの手元を見た。
「通行を許可する!」
 兵士はそれだけの言葉をわざわざ大声を張り上げてわたしに伝えた。周囲はわたしと兵士以外、誰もいない。
 最初のうち、わたしはその兵士と何度か会話を試みたことがあった。でもそれはまったく無意味な試みだった。わたしが挨拶や天気のことを投げかけてみても、彼は何も投げ返してこなかった。ただ槍を地面に立て、鎧で包まれた体を支えたまま、頑なに無言を守っていた。わたしが何を言っても微動だにしなかった。「通行を許可する」以外は兵士の声を聞いたことがなかった。兜を深くかぶり、目付きはどこを見ているのか分からなかった。きっと眼球の位置も正面に静止したままだろうとわたしは思った。眠るときも立ったままかもしれない。ごはんをきちんと食べているかどうかも怪しい。「兵隊なんてそんなもんさ。決められていること以外何もできない」と木こりは言っていた。でもわたしには、太い鉄の棒のように立ち尽くしている兵士の態度が、ただ職務をまっとうに果たそうとする意志だけからくるものではなく、なにかもっと、彼自身そのものが根底から太い鉄の棒になってしまっている、そんな印象を受けていた。
「馬って知ってますか?」
 小屋に入る前、わたしはためしにそう訊ねてみた。でも兵士は開けたドアのノブを持ったまま、やっぱり何の反応も示さなかった。わたしは諦めて小屋の中に入った。すぐに背後でばたんとドアが閉まる音がした。
 小屋の中には、地下へと続いている螺旋階段がある。発電所へ行くにそれを下りていかなければならない。でもそこは薄暗く、ほとんど足元が見えない。角度も急で、タンクを背負っているわたしにとって少々手強い。しかも幅が狭いため、タンクが引っ掛からないように、わたしは体を傾けながら一歩ずつ足元を確かめて降りていかなければならなかった。地上へと突き抜けるような足音が縦穴の中に響き渡り、壁で支えている手の上を蜘蛛やイモリがときどき這いずっていった。
 長い階段を下りきると、頑丈な鉄の扉がある。そこがちょうど城の真下にあたるところだ。扉の向こうには発電所がある。なぜそんな地下深くに発電所を作らなければならないのか、わたしにはよく分からなかった。でも、きっとここじゃ冬の風も届いてこないんだろうなと思った。
 体全体を使って重い扉を押し開けると、機械の低い作動音が聞こえてきた。所長はいつものように椅子に座り、机の上に両足を放り出して、本を読んでいた。
「こんちは」わたしは言った。
「よう」所長はいった。
 発電所といっても、そこは単なる部屋だ。木こりの小屋と同じぐらいの広さしかない。しかも部屋の半分は発電機が置かれているのでもっと狭い。
「ちょっと待ちな」
 所長はそう言うと、手にしていた本をぱたりと閉じた。そして机から足を下ろし、骨と皮だけの痩せた老体に気を使いながら、ゆっくりと立ち上がった。所長といっても、発電所で働いているのは彼だけしかいない。「ずっと昔からあのじいさん一人だけなんだ」と木こりは言っていた。
「最近は調子が悪い」所長は短く切り揃えられた真っ白なあごひげをさすった。
「冬のせい?」わたしは所長の顔を横から覗き込んだ。
「違う。わしじゃない。こいつだ」所長は怪訝な表情でわたしを見返し、発電機の方を指さした。
 発電機といっても、それはただの巨大なたんすにしか見えない。木材で作られた四角い形をしていて、小さな引出しや扉がいっぱい付いているだけである。機械的な部分はてっぺんから太い鉄のパイプが何本も伸びていて天井に突き刺さっているところと、内部から何かが唸っている音が聞こえてくることだけだ。
「もうこいつも長い。わし以上だからな」
所長はそう言うと、机の横に置かれてある鉄の棚を物色しだした。棚には一体何に使われるか分からない機械の部品が標本みたいに並べられている。一番下の段に置かれた木の箱には、ペンチやドライバー、めちゃくちゃに絡み合ったコードなどが乱雑に放りこまれている。所長はそこから油さしを手に取ると、発電機に向かった。
 発電機の中心には大きな正方形の扉がある。所長はその扉を開けると、中を点検しだした。扉の中は、鉄板が型を押したように丸くくぼんでいる。所長が扉の横にある小さなボタンを押してみると、丸いくぼみは徐々に回転を始めた。機械の唸りが徐々に高くなるにつれて、くぼみは急速に回転していった。猛烈なスピードだった。まるで平原の道を勢いよく駆け抜けていく馬車の車輪みたいだった。馬は尻を激しく叩かれ、ものすごく興奮していた。鼻息が荒く、たてがみを振り乱し、歯茎がみえる口元からは涎が垂れている。我を忘れ、暴れ回るようにひたすら道を突き進んでいる。赤褐色の肉体が緑の平原をまっすぐに走っていく。一体どこへ向かっているんだろう。後ろに引かれている馬車は地面に激しく打ちつけられ、もう粉々に砕かれてしまいそうだった。
 所長が再びボタンを押すと、くぼみは力を失うように回転を止めていった。所長は扉の中を覗き込み、くぼみの鉄板と発電機が接している何ヵ所かに油をさした。そのあと再びボタンを押し、くぼみを回転させ、その様子をじっと点検していた。その作業を何回か繰り返すと、所長はわたしの方を振り返って納得したように頷き、「貸せ」と言った。わたしは合図を待っていたかのように所長のところまで進み、今まで背負っていたタンクをようやく足元に下ろした。そしてホースをタンクから引き抜いた。
所長はタンクの底を細い両手でしっかりと掴むと、ゆっくりと胸のあたりまで持ち上げ、そっと丸いくぼみにはめ込んだ。それから何回か位置をずらし、「ガチャッ」という音を確認すると、タンクから手を離し、扉を閉めた。そのあいだ所長は重そうな表情一つしなかった。
「冬だからいっぱい詰まっとる。時間がかかるぞ」
 所長はボタンを押し、発電機の中のタンクを回転させた。そして、グゥイイイイイィィンンという音がし始めると、また椅子に戻り、本を読み始めた。
 発電機がタンクから星のなかみを吸い取っているあいだ、所長がふと訊ねた。
「おまえさんは星をよく見とるか?」
 所長が分けてくれたみかんを食べていたわたしはふと顔を上げた。
「砂浜に行くときには」わたしは答えた。
「何かわかったことは?」
 わたしは少し考えた。
「星の年齢ぐらいはだいたい」
「ふむ」
 所長は持っていた本をわたしの前に置いた。
「読んでみい」
 わたしは白菜ぐらいの厚さがある本を手に取り、開かれたページに目を通してみた。そこには日付と星のスケッチ、そして星の様子を一つ一つ詳細に記録した手書きの文章が書かれてあった。ためしにページをぱらぱらめくると、胡麻みたいな小さな文字がどのページにもびっしりと敷きつめられていた。
「星の観察記録じゃよ。それで一ヶ月分」
「所長、すごい労力」
「わしじゃあない。昔から城に星の観察係というのがおってな、そいつらが毎日毎日記録しとるんじゃ」
「星の観察係」鉄の棒みたいな兵士が熱心に星を観察し、それをコリコリ記録しているところを想像してみた。わたしはなんだか可笑しくなった。
「その記録によるとこの百年、新しい星は生まれてない」
 所長は机から足をゆっくりと下ろし、そう言った。
「百年前の記録から新しい星が生まれたという報告はぴたりと途絶えておる。わしもだいぶ前それに気付いてな。それからは新しく生まれた星はないかと毎晩探しとるんじゃが、いっこうに見当たらん。予兆すらもな」
「星が生まれてこない?」
「ただ、毎晩少しずつ落ちていくだけじゃ」
 発電機の音がさらに大きくなった。タンクの回転が加速されたようだった。馬が地を駈け、木をなぎ倒し、海を飛び越えている。
「それはつまり」わたしは言った。
「ふむ」
「星の樹が死につつある、ってこと?」
「当然のことじゃよ。星が死ぬなら星の樹も死ぬ」
「じゃあ、あとは何が残るの?」
「何も残らん。残るとすれば完全な闇じゃ」
 所長はそう言うと、口をすぼめ、みかんの種を皿の上にぷっと出した。
「王はその事実に気付き、この発電所を作りよったんじゃ。いずれやってくる闇に対抗するため、人工的に光を作り出そうとしてな。しかし無駄なことじゃよ。なにしろ相手は完全な闇じゃ。どんな種類の光だろうとすっぽり飲み込む」
「太陽は?」わたしは訊ねた。
「何を言っとる。太陽も星の一つじゃ。星の樹が死ねば太陽ももちろん死ぬ。毎年冬の風が強くなってるのも、太陽の力が弱くなっているからなんじゃよ」
「ふむ」わたしは所長の真似をした。
 星の樹がなくなる、そう告げられてもわたしにはよく分からなかった。いずれこの世界に危機的な状況が訪れるらしいということは理解できたけれど、それを実感として自分の中にうまく結びつけることはできなかった。なにしろわたしはこの世界に来てからまだ間もないし、毎朝の仕事や生活のこと、そしてわたし自身のことで精一杯なのだ。それに星の樹の姿すら見たことない。
「安心せい。いずれ世界がまっくら闇になるのはもっともっと先のことじゃ。その頃にはもうわしもおまえさんも、今生きている連中はみんな死んでるよ」
 所長はそう言うと、またみかんの種をぷっと出した。そう言われても、わたしには安心のしようもなかった。
 発電機が星のなかみを吸い終え、回転を止めると、所長はタンクを抜き出した。わたしはタンクを再び背負い、帰る支度をした。
「木こりは元気か?」
 わたしが発電所を去る際、所長はそう訊ねた。
「毎日森に出かけていってますよ」
 わたしがそう言うと、所長は薄い眉を歪め、あごひげをさすりながら床を見た。
「あいつにとって冬はずいぶん厳しい。おまえさんにはいろいろ言っとるかもしれんが、町の連中と比べたらあいつ自身もまだこの世界になじんでいないんじゃ。あいつはまだ弱い。そしてその弱さを守ろうとしとる。だからあんな森の中に住んどる」
 わたしはどう答えていいのか分からなかった。
「わしはあいつのことは分からんでもない。だけど、あいつは長くは生きられないような生き方をしとる。長生きすることの大切さをまだ分かっちゃいないんじゃ」
「そう伝えておくわ」わたしはとりあえずそう答えた。
「おまえさんも長生きしなよ」
 わたしは笑った。
「ありがとう。また明日」
わたしはそう言うと、発電所を出て、地上への階段を上っていった。
 
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 テーブルの上には一人分の昼食が用意されていた。時計の針は正午をとっくに過ぎていた。発電所でタンクを空にするのに時間がかかったため、わたしが小屋に戻ってきたときには木こりはすでに午後の仕事に出かけたあとだった。わたしはストーブに火を点け、防寒具を脱いだ。そしてテーブルにつき、木こりが作ってくれた野菜炒めを食べた。だいぶ冷えていたけれど、野菜が新鮮で油が少なく美味しかった。
 発電所に星のなかみを届ければ、わたしの一日の仕事は終わりだ。昼食を食べ終わると、買い物に出かける夕方までわたしはいつも眠ることにしている。一日の睡眠時間を昼と夜の二つに分けているのだ。そうすることによってわたしは真夜中に目覚め、夜明け前に砂浜に出かけるという毎日のペースを掴むことができた。
 わたしは小屋の明かりを消し、ベッドに入った。「木が余ってるんだ」と木こりは言い、このベッドをわたしに作ってくれた。弱い太陽の光がシーツの上に丸い窓の形をした陽だまりを作っていた。窓の向こうは冬の空がどこまでも澄み渡っていて、森の黒い先端が広々と連なっているのが見えた。わたしは目を閉じ、耳を澄ませて、森で木こりが木を割っている音を聴きとろうとした。しばらくしてから、遠くの方でそれらしき音が聞こえたような気がした。でも、そのときにはわたしはすでに半分眠ってしまっていたので、夢の中に出てきた馬の蹄の音のようにも聞こえた。

「おれのことは気にしないでくれ」
木こりは最初、わたしにそう言った。「君にはまだ住む家はない。だから当分の間ここで暮らす。それだけのことなんだ」
 そのときわたしはベッドの上で寝込んでいた。砂浜で倒れているところを木こりに発見され、そのまま小屋のベッドに寝かせてもらっていた。わたしの体はひどく冷えていたらしく、体を動かすたびに関節が痛み、頭痛に襲われた。まるでわたしの頭の中で元気な小人達が二手に分かれ、脳の取り合いをしているみたいだった。
「ここはどこ?」わたしはもつれる舌で訊ねた。
「そう訊かれても答えようがない。どこにでもある世界さ」
 木こりは台所で鍋の火を調節しながらそう答えた。
 わたしは部屋を見回してみた。必要最小限の家具だけが置かれたシンプルな部屋だった。家具はどれもこれも古く、小屋に使われている木も長い間の生活が染み込んでいるように黒ずんでいた。それらの古い木達に囲まれていると、わたしは次第に落ち着いた気分になっていった。
「何をしてるの?」わたしは訊ねた。
「食事を作ってる」
「あなた自身は?」
「木こり」
 わたしが何かを訊ねないと、木こりは何も話さなかった。
 わたしは何を話したらいいのか分からなかった。話すべきことは全てわたしの中から消え去っていたのだった。自分のことがまったく思い出せない、わたしは木こりにそう告げた。
「仕方ない」木こりは言った。「おれにも君のことは分からない。おれが君に与えられるのはこの世界のことだけさ」
 木こりはわたしの元に温かいスープを持ってきてくれた。スプーンで掬い上げてみると、いろんな種類の野菜が入っていた。頭の中ではまだ小人達が遊び回っていたけれど、わたしがスープを一口ずつ飲み続けていると、小人達は疲れたように一人ずつ眠りこけていった。そして最後にはわたしも小人と一緒に眠りに就いた。
 次の日から、わたしは木こりと一緒に暮らすようになった。

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 町では仕事を終えた人達が一斉に帰路に着こうとしていた。町の人々は仕事終えると、みんな鳩のようにそれぞれの家にまっすぐ帰っていく。そのせいで町の夜は静かだった。盛り場が活気付くということもない。
 わたしは閉店まぎわの食料品店に入った。夕飯の材料と朝食のパン、そして木こりが飲む酒を買うためだ。わたしは木こりから教えられていた酒の名前を店主に告げた。店主は眉をゆがめて、少し唸った。店にあるかどうか分からないらしく、探してくると言って、店主は倉庫の中に入っていった。その間わたしはドアのガラスの向こうを見ていた。町の見回りを終えた五、六人の兵隊が隊列を組み、城に戻ろうとしていた。彼らはみんな同時に同じ腕と足を出し、寸分も狂っていない同じ歩幅で歩き続けていた。町の人達は兵隊の行進に特に関心を向けることもなく、ただそれぞれの目的地に向かって道の端を歩いていた。店主が倉庫から戻ってきた。待たせて悪かったと謝り、手には酒の瓶が握られていた。その酒のラベルを見てみると、木こりがいつも飲んでいる酒のラベルではなかった。わたしは自分が間違った酒の名前を告げてしまったんじゃないかと思った。あるいは、わたしは正しい名前を告げたけれども、店主が倉庫の中から間違った酒を持ってきたのかもしれなかった。店主は持ってきた酒をすでに袋に入れ、わたしから代金をもらう準備をしていた。何がどういう風にして間違ったのか分からないまま、わたしは仕方なく代金を払い、間違った酒の入った袋を持って店を出た。
 木こりの小屋へ戻る途中、わたしは噴水の縁に腰を掛けて、道の往来をしばらく眺めていた。人々は分厚いコートに身を包み、手袋をはめ、帽子を深く被っていた。目が隠れるぐらい帽子を深く被り、地面に何かを探し求めるようにうつむきながら歩いていた。あたりはしんと静まり返っていて、話し声がまったく聞こえてこなかった。彼らはみんな一人で歩いていた。友人や同僚、恋人や家族と一緒に歩いている人は誰一人としていなかった。噴水の回りを多くの人々が行き交ったけれど、彼らはみんな虚ろな表情をして、無言のままわたしの前を通り過ぎていった。空を見上げてみた。夜の闇に覆い尽くされそうな空に、わたしは星を探した。でも街灯が放っている強い光のせいで、星の光をはっきり確認することができなかった。延々と噴き出る噴水の水音だけが背中の方で聞こえていた。

 木こりの広場まで戻ると、小屋のドアが少し開かれたままになっているのが見えた。明かりは灯されてはいなかった。ドアを閉め忘れてしまったとわたしは思い、小走りでドアの前まで向かった。でも、そうではなかった。
「どうしたの!」
 わたしはドアを開けた瞬間、思わず叫んだ。ドアのすぐ近くで、木こりが床にうつ伏せになって倒れていた。
 木こりの体は痙攣を起こしたようにわずかに震えていた。床についた顔を覗き込むと、顔中の筋肉が削ぎ落とされてしまったように青白く、目の回りが黒くくぼんでいた。部屋の暗さが木こりの顔にいっそう不吉な影を落としていた。
 木こりの額に触れると、ひどい熱があった。わたしがいくら呼びかけても、木こりは何も返事をしなかった。ただ短く早い呼吸を続けているだけだった。わたしはとりあえず木こりの体を抱え上げた。木こりの服はとても冷たくなっていた。木こりの片腕を自分の肩に回し、胸のあたりを両腕でしっかり掴むと、木こりをベッドまで運んでいった。意識をなくした木こりの体は砂袋みたいに重かった。
 木こりをベッドに寝かせると、わたしは部屋の明かりとストーブを点けた。そして布を水で濡らして、木こりの額にそっと置いた。わたしは椅子に座って、眠っている木こりの様子をぼんやり眺めていた。ドアの前に置きっぱなしになっていた荷物に気付くと、それをテーブルの上まで持ってきた。これも冬の風の仕業なんだろうか、わたしはそう思った。
 部屋の中がだんだん温まってくると、わたしはお腹が空いてきた。木こりも食べられるものと思い、おかゆを作って、そこに町で買ってきた卵を落とした。木こりが目覚めるかもしれないとしばらく待ったけれど、木こりは身動き一つせず深い眠りに落ちていた。わたしは一人でおかゆを食べることにした。
 おかゆを食べてから砂浜へ仕事に行くまでの間、わたしはずっと木こりに付き添っていた。布が温かくなるたび、水に濡らして取りかえた。木こりはときどき無意識に小声で何かを呟いていたけれど、その言葉は聞き取れなかった。ふと丸い窓の外を見てみると、星が一面にきらめいていた。丸い窓から見る夜空は、まさしく巨大な一本の樹木に星の実がたくさん結実しているようだった。夜空は澄み切っていて、ときどき老いた星が落下していくのが見えた。また一つ光がなくなったんだ、ふとわたしはそう思った。
 空の端が白みはじめる頃になると、すでに木こりの呼吸は穏やかになっていた。わたしは台所におかゆがあることを小さな紙に書いた。そしてもう一度木こりの額の布を取りかえると、重々しい防寒具を着こみ、砂浜へ仕事に出かけた。

 ちょうど秋の初めにさしかかった頃だった。わたしと木こりは夕食を食べ終えた後、砂浜で夜の海を眺めたことがあった。砂浜にはまだ星が一つも落下してきてはいなかった。わたし達は波の打ち寄せる音が聞こえる所まで進み、腰を下ろした。そしてしばらくの間、海をただぼんやりと眺めていた。波打ち際では足が四本生えた魚が陸に上がろうとしていた。
 ふと、木こりがポケットから笛を取り出した。星の抜け殻で作った笛だ。木こりは笛をそっと口につけると、目を閉じた。そして海に向かって、旋律を奏でた。笛の音色が波紋のようにあたりに響き渡っていった。薄い雲が夜風に流れ、星がくっきりと輝いているのが見えた。木こりの奏でる旋律には、わたしの中の何かを柔らかく打つものがあった。笛の音を聴いていると、長い間使わなかった引出しをそっと開けられていくような気持ちにさせられた。わたしは手元の砂をすくってみた。砂は指の間からさらさらとこぼれ落ちていき、手を開けてみると小さな貝の破片だけが残っていた。
「あなたが作ったの?」
 木こりが最後の音を吹き終わった後、わたしはそう訊ねた。
「今頭に浮かんだ音を、ただ吹いてみただけさ」
「よく吹くの?」
「いや、吹かない。吹いたとしても誰も聴かない。誰も音楽なんて聴きやしない」
「じゃあなぜ吹いたの?」
「君が聴いてくれるからさ」木こりは言った。「町の連中は誰も音楽なんて耳を傾けたりしない。それどころかこうやって砂浜を歩いたり、海を眺めたりさえしない。ただ町の中で夜通し光ってる街灯の下を歩き回ってるだけさ」
 木こりはそう言うと、指で砂をなぞり、不思議な図形を書いた。
「町の人達が好きじゃないのね」
「おれとは違う連中なんだ。そして、君とも違う」
 木こりはそう言うと、笛を口につけ、さっきの旋律を再び奏でた。わたしもまたそれを聴いていると、今度は引出しの中から馬が飛び出してきて、しばらく心臓の鼓動が早くなった。

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〈しばらく帰らない。畑に水をやってくれるとありがたい〉
 わたしが書き置きした紙の裏に、そう書かれていた。
 砂浜から戻ると、木こりのベッドは空になっていた。小屋の中のどこにも木こりの姿は見当たらなかった。納屋の方も覗いてみたけれど、木こりがいつも仕事で使っている斧が一本消えていただけだった。小屋に戻り、台所の鍋を開けてみると、おかゆが半分ほどに減っていた。食器はきちんと洗われていた。
 わたしはテーブルの椅子に座り、いったい何が起こったのか考えてみた。でも、何が起こったのかなんてわたしにはもちろん分からなかった。わたしに分かったのは、木こりがいなくなった、ただそれだけだった。わたしは木こりの体調が心配だった。一晩眠っただけで回復するほど、木こりの体調はましなものではなかった。熱はひどかったし、顔色は衰弱しきって青白かった。そんな状態のまま、この冬の空の下に飛び出して平気でいられるはずがない。それほど遠くには行けないということだ。斧を持っていったなら、木こりが向かった先はたぶん森の中だ。今から森の中を探しにいけば見つかるかもしれない。
 テーブルの上に置かれた籠の中には、昨日よりも大量の星の抜け殻が詰め込まれていた。昨夜はさらに冷たさを増した風が吹きつけたせいで、砂浜にはたくさんの老いた星が転がっていた。すべてを片付けるのにずいぶんと時間がかかってしまった。「午前中のうちに星のなかみを発電所に届けること」。この仕事を始める際、兵士はその約束をわたしに固く守らせた。木こりを探しに行けば、それまでには確実に間に合わない。
 わたしの頭の中で、馬がぐひんと鳴いた。

 小屋に戻ってきたときには、もう太陽が森の向こう側に完全に沈んでいた。わたしは小屋の中に入ると、すぐにストーブの火を点け、防寒具をベッドの上に脱ぎ捨てた。
 木こりは見つからなかった。わたしが森の中をどれだけ歩き回り、いくら叫び続けても木こりは姿を現さなかった。ときどき鹿やキツネが不思議そうに顔を上げてわたしの方を見ていただけで、どこまで進んでも誰にも遭遇することはなかった。どこかに誰かが通った形跡が残っていないかも探してみたけれど、それらしきものは何もなかった。足跡らしきものも残っていなかった。こんな冬に森の中に入る人間など誰もいないようだった。枯れた木々の間にわたしの叫び声だけが空しく響き渡っていた。
 わたしは発電所に行かなかった。星のなかみが詰まったタンクを納屋の中に置いたまま、太陽が落ちるまで森の中をずっと歩き回っていたのだ。わたしはひどくお腹が減っていたので、鍋に残っていたおかゆを温め直し、木こりが栽培した野菜でスープを作った。
 木こりは一体どうしてしまったんだろう、わたしは夕食を食べながらそう考えた。木こりがこんなふうに突然いなくなってしまうなんて初めてのことだったし、木こりの最近の暮らしぶりを思い出してみても、とくに変わった様子も見つからなかった。わたしは所長の言葉を思い出した。思い出したけれど、その言葉が一体何を意味しているのか、わたしにはよく分からなかった。
 夕食を食べ終わると、ふっと気が抜け、次第に眠くなってきた。あらゆる種類の疲れが全身を重くさせていた。わたしは立ち上がり、ベッドに倒れ込むと、地の底に引きずられていくように深い眠りに落ちた。

 気が付くと、目の前は真っ暗だった。
部屋全体が濃い影に覆われていた。ストーブは燃料をなくし、ただの冷たい鉄の筒になっていた。壁にかかったコートは闇の中でだらりとぶら下がり、台所に積み重ねられた食器は何かの骨のようにも見えた。わたしは思わずシーツを口元まで引っぱり上げた。そのとき冷たい空気がシーツの中にひやりと滑り込み、わたしはぐっと身を縮ませた。わたしが眠っている間に、冬の冷気は部屋の隅々にまで忍び込んでいたのだ。
 暗闇に体をなじませるように、わたしはベッドの上でシーツにくるまり、じっと身を固めていた。暗闇の中のどこでもないところをぼんやりと見ていた。しばらくの間そうしていると、わたしはだんだんとある錯覚に陥っていった。きっとわたしはわたしの知らないこの世界にたった一人で取り残されてしまったんだ、この暗い小屋の中にひとりぼっちで取り残されてしまったんだ、わたしはそう強く思い始めた。その思いが頭の奥深くまで染み渡っていくと、わたしの体はだんだんと震え始めた。冬の冷たさがわたしを根底から激しく揺さぶっている、そんな感じの震えだった。わたしは木こりの忠告を思い出した。冬の風はわたしから何かを奪い取ったんだろうか。わたしが眠っている間に、わたしのものを奪い取ったんだろうか。わたしはひどく不安な気持ちに襲われた。体のなかみが小刻みに震え、奥歯がガタガタ鳴った。わたしが震えていると、ベッドも震え始めた。ベッドが震え始めると、壁が震え、カーテンが震え、床が震え、食器が震え、テーブルが震え始めた。まるで外で巨人が小屋を激しく揺さ振っているみたいだった。わたしは強く目を閉じ、体の震えが通り過ぎるのをじっと待った。夢に出てきた馬のことを考えた。弾丸のように地上を駆け回っていた馬の姿を何度も想像してみた。興奮した馬の皮膚はとても熱くなっている。誰にも馬を止めることはできない。触れることさえできない。わたしだけが馬を見失うことはなかった。馬を見失わないでいるわたしを、馬はどこかへ連れて行こうとしていた。でもどこかは分からない。夢は途中で終わってしまう。途中で終わってしまった夢をわたしは何度も繰り返し、思い出していた。

 次の朝起きると、馬がまたぐひんと鳴いた。
 わたしは砂浜に行かず、再び木こりを探すため森の中に入った。
 森の中は日を重ねるごとに冷え込んでいった。鋭い風の音があたりに鳴り響き、枯れた木の枝は相変わらずわたしの体のなかみをちくちくと突いた。そう感じるだけでなく、実際に体の中が痛くなった。体のなかみを少しずつ剥ぎ取られていくような小さな痛みが全身を走った。それはやっぱり冬の風のせいなのかもしれないけれど、とにかく大声で木こりを呼び続け、森の中を休みなく動き回ることで体を温めるしかなかった。
 わたしは木にもたれて昼食用に持ってきたパンを食べながら、木こりのことを考えてみた。木こりがわたしにくれたこのコート。これは町の兵士が着ているコートと全く同じ形だった。木こりは昔、城で兵士として働いていた、わたしはそう推測した。でも、今は森に住んで木こりをしている。それには何か理由があるに違いなかった。兵士を辞めなければならない理由があるに違いなかった。所長は木こりを弱いと言った。もしかすると木こりは毎年冬が来るたび、あんなふうに倒れ込んでいたんだろうか。木こりは「慣れている」と言っていたけれど、本当は冬に怯えていたんだろうか。冬の風は一体わたし達から何を奪い取っていくのだろう。昨夜わたしを襲ったあの激しい震えは一体何だったんだろう。そして、町の人々はどうしてあんなに虚ろな表情をしているのだろう。
 
 日が暮れる頃になると、わたしはくたくたに疲れて、小屋に戻ってきた。簡単な夕食を済ませた後、テーブルに頬杖をついてぼんやりしていた。
 木こりのいなくなったベッドを見てみた。枕はきちんと置かれ、白いシーツは皺ひとつなく伸ばされていた。夏の初め、木こりは砂浜で倒れていたわたしを背中に抱えて、小屋に連れて帰り、そのベッドに寝かせてくれた。そしてそのまま数日間寝込んでいたわたしに、ただ黙って食事を与えてくれた。ものが二重に見え、やがてそれもおさまり、普通に生活できるようになってからも木こりはわたしに何も訊ねなかった。わたしが自分のことを思い出せたのかどうか、木こりは一切訊ねなかった。そんな事を訊ねられてもわたしには答えようがないことを、木こりは古い友人のように分かっていた。その代わりわたしとこの世界を繋げるように、木こりはこの世界のことをわたしに語った。
 枕元の上の棚には、木こりが星の抜け殻で作った置物が並べられていた。森に住む動物達の置物だ。ちょうどチェスの駒ぐらいの大きさがある。わたしは立ち上がり、それらに顔を近づけて、横から順に見ていった。実にたくさんの種類の動物達が作られており、よく見てみると瞼の重なりから羽や尻尾の毛並み一本一本まで、とても精巧に彫られているのが分かった。まるで本物の動物がなかみを抜かれ、そのまま小さくなってしまったように思えた。
 わたしはそれらを一通り見終えると、もう眠ろうと思い、部屋の明かりを消した。その瞬間、何かがずれた。視界が二重にずれたようにも思えたし、突然こめかみを強く突かれたようにも思えた。そのせいで長い間錆びついていた歯車がガクンと大きく傾いた、そんな感覚を受けた。明かりが消された部屋の中に、星の光が射し込んでいた。冬の風が日々冷たくなるにつれて、星の輝きも強くなっている。わたしはもう一度木こりのベッドに近づき、棚の上の動物達を眺めてみた。動物達は生命を与えられるように窓から射す星の光を全身に浴びていた。
 馬がいたのだ。
 星に照らされた棚の上に、馬の置物があった。馬は二本の前足を高く上げ、今にも駆け抜けていきそうな恰好をしていた。わたしは思わず馬の置物をつまみ上げた。そして窓に近づけてみた。さらに強い光に照らし出された馬の細部を見てみると、それは私の頭の中にあらわれた馬、そのものの姿をしていた。
 この世界で生きるようになってから、わたしは一体わたし自身を取り戻そうとしているのか、それともわたし自身を失おうとしているのか、自分でもよく判断できなかった。あるいはそのどちらでもないかもしれなかった。でも今、星の光の中を駆け抜けようとしている馬の姿を手の中で見回していると、木こりの笛の音を聴いていたときのような気持ちを自分の中に甦らせることができた。馬はわたしという人間とわたしという存在をしっかりと結びつけている、わたしはそう確信することができた。
 わたしは馬を失うわけにはいかなかった。そして、木こりも失うわけにはいかなかった。

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 木こりがいなくなってから三日目の朝。わたしはコートの右のポケットに馬の置物を入れ、左のポケットに間違って買った酒の瓶を入れて、森の中に向かった。
 森の中を歩き続けた。ポケットの中で馬の置物を握りしめながら、木こりを呼び続けた。寒気に襲われると、酒を少しだけ口に含んだ。熱い液体が食道をゆっくり流れていくのが分かった。一昨日よりも昨日よりもさらにさらに森の奥へと進んでいった。すると遠くの木々の間から、一本の細い煙が立ち昇っているのが見えた。それを見つけた瞬間、わたしは煙の方向に走っていった。長い距離があった。息が切れるぐらい走った。でも、そこにいたのは木こりではなかった。町に住んでいるらしい青年だった。青年は地面にひざまずき、空に向かって祈りを捧げていた。青年の前には膝ぐらいまでの高さの土の山が盛られ、そのてっぺんに細い板が垂直に突き刺さっていた。板は上部から燃え続けていて、次々と朽ち果てていた。青年はわたしが森の中で遭遇した初めての人間だった。「それは?」とわたしが訊ねると「恋人の墓」と青年は答えた。
「ほかに森で人と会わなかった?」わたしは訊いた。
「会ってないよ」青年は答えた。
「それよりも、僕と会ったことは誰にも言わないでほしい」青年は言った。「僕が森の中で祈っていたなんて、町の誰にも言わないでほしいんだ」
「うん」
「約束してくれるかい?」
「約束する」わたしは言った。
 青年は板が燃え尽きるのを最後まで確認すると、立ち上がって膝の土を手で払い、町の方へ戻っていった。

 夕方、木こりの広場の手前まで戻ってくると、数人の人影が小屋のまわりを取り囲んでいるのが見えた。よく見ると、人影は兵士だった。わたしはとっさに木の陰に隠れた。兵士達は小屋を出たり入ったりしては、何か話し合っていた。何を話しているのかは私のところまで聞こえてこなかったけれど、どうやら何かを調べているような様子だった。ある兵士はわたしの仕事のタンクを背負い、持ち去ろうとしていた。わたしは兵士達に見つからないように木々の間を移動し、小屋の裏側へ回った。納屋の中はすでにめちゃくちゃに荒らされ、中の荷物が外に放り出されていた。一人の兵士が黙々と畑を踏み潰していた。わたしはもう木こりの小屋に戻ることはできなかった。音を立てないように後ずさりを始め、兵士達の姿が小さくなって見えなくなると、わたしは美味しかった野菜達に祈りを捧げながら、その場を走り去った。
 町の入り口に辿り着いた頃には、わたしはひどい頭痛に襲われていた。頭の中で小人達が皿を次々と割り続けているみたいだった。ポケットから酒の瓶を取り出してみた。酒はもう底の数センチほどしか残っていなかった。にがい酒だった。錆びた鉄のような味がした。わたしは体を冷やさないためと我慢し、それを少量ずつだけれど飲んでいた。全速力で走ったのが悪かった。全身が錆びた鉄みたいに重くなっていた。まっすぐ歩くことができなかった。視界がときどき二重にぼやけた。町に入ると、兵士とすれ違わないような細い裏通りを選び、ふらふら歩き続けた。しばらく歩くと、前から兵士が一人こっちに向かってくるのが見えた。わたしは反射的に一番近くの酒場のドアを開け、転がり込んだ。転がり込んだまま、床にうずくまっていた。酒がまわったせいやら兵士に遭遇したせいやらで、わたしの心臓は大きく乾いた音を立て続けていた。
「何しとる」
 わたしはふと顔を上げた。二重にずれている風景の中で、カウンターに座っている人物がわたしの顔を覗き込んでいた。一瞬、森の中で会った青年の姿がその人物の像に重なった。
「苦しそうじゃの」カウンターの人物はそう言うと椅子から降り、わたしに近づいてきた。近づいてくると像は鮮明になっていった。所長だった。所長はわたしの体を抱え込むと、自分の隣の椅子にゆっくり連れていった。わたしはテーブルに倒れ込むようにして椅子に座った。
「何かあったんか?」所長は再び自分の椅子に座った。
 バーテンがわたしの前に水を一杯そっと差し出してくれた。わたしは喉を鳴らして水を飲んだ。
「兵士に追われてる」
 わたしは空になったコップをテーブルの上に静かに置き、落ち着きを取り戻すようにそう言った。
「ふむ」所長は言った。
「ふむじゃないわよ。木こりの小屋がめちゃくちゃに荒らされてた」
「そうか。わしの芝居もまだまだじゃのう」
 所長はそう言うと、グラスにほんの少しだけ口をつけて酒を飲んだ。
「芝居?」
「状況はかなりやばい。ふむ」
「今それを体験してきたわ」
「はっきり言って、今おまえさんは反逆者扱いされとる。町に背いた者としてな。城の連中はそういう目でおまえさんを追っとる。捕まったらひどい目に会うぞ」
「反逆者」わたしはそう口に出してみた。
「星のなかみを届けなかったからのう」
「それだけで?」
「星のなかみは町にとって必要不可欠なもんじゃ。星のなかみがなけりゃあ、町は生き延びることはできん。おまえさんにどういう理由があろうと、星のなかみを届けないということは、町が生き延びることに反対してるということになるんじゃ。自動的にな」
 微かに二重にぼやけた所長を見ていると、その背後にまだ青年の残像が残っていた。
「わしは焦ったよ。おまえさんがいっこうに星のなかみを届けにこないからの。兵士には嘘をついておいた。『あの子はまだ若い。まだ冬に慣れておらん。体調を崩しておるだけじゃ』とな。だけど連中もばかじゃない。それに連中は闇を極端に嫌っとるからな。おまえさんのことを探り始めたってわけじゃ」
「わからないわ」わたしは言った。「なぜそんな重要な仕事をわたしにさせるの?」
 所長はグラスに少し口をつけた。
「おまえさんにぴったりだからじゃよ」所長は言った。「星のなかみを抜き取れる時間帯は、星が落下し尽くした夜明け前しかない。太陽が昇ってしまうと、その強烈な光に星のなかみは焼き尽くされちまう。城の連中は闇を嫌い、夜の中をまともに歩くこともできない。だからまだこの世界になじんでない、闇を受け入れられるおまえさんにまかせとるんじゃよ」
 所長はそう言うと、小皿の上の豆をぽりぽり食べ始めた。わたしは頭痛が少しましになってきた。でもカウンターの奥に立っているバーテンを見てみると、シェイカーを振っている腕が五、六本に見え始めていた。
「わたしはただ、木こりを探してただけなのよ」
 わたしがそう言うと、所長は素早くわたしの方を見た。
「木こりがいなくなったのか?」
「ひどい熱を出して帰ってきて、次の朝にはもういなくなってた」
「ふむ」
「木こりは兵士だったんでしょ?」わたしは訊いた。
 所長は顎を小刻みに動かし、豆をぽりぽりするスピードを早めた。
「あいつは兵士だったよ。だけど落ちこぼれじゃ」
「どうして辞めたの?」
 バーテンが空になったわたしのグラスに気付き、また水を注いでくれた。わたしはまたそれを半分ぐらいまで一気に飲んだ。
「兵士っちゅうもんは、冬の風になかみを完全に奪い取られた人間がなるもんなんじゃ。空っぽになった人間だけがが兵士をやっとる」
「なんとなくわかる気がする」
「王が兵士志願者の連中にまずさせることはな、まずほとんど裸の状態にさせて冬中ずっと外に立たせておくんじゃ。昼も夜も関係なくずっとな。これがかなりきつい。耐え切れずに死ぬ人間だっておる。これを四年間繰り返す。四年繰り返すことで、大体の人間からなかみを完全に抜き取ることができる」
「わたしの仕事にちょっと似てるかも」
「そうじゃな。星になかみがあるなら人間にもある。木こりはその四年間に耐えて、兵士になりよった。だけどな、空っぽにはなりきれていなかったんじゃ。完全に抜き取られたつもりが、木こりの中にはまだなかみが残っておった」
「木こりのなかみ」
 わたしはそう口に出してみて、納屋を思い出した。
「兵士としては失格なんじゃ。なかみが残ってるなんざな。まわりの兵士の連中は木こりをばかにしよった。だけど木こりはそれを自覚するようになってから、わずかに残された自分のなかみを守るようになった。周りの連中からどれだけ落ちこぼれようが、冬の風から必死に自分を守りよった。そして木こりは次第に城や町のやり方にも徐々に疑問を持つようになってきよった。兵士なのに自分の頭で考え、反発心を持つようになった。それもなかみが残ってたせいじゃ。そしてわしからこの世界の仕組みを聞き出し、城から出よったんじゃ」
「それで森に一人で住むようになったのね」
「ふむ。おそらく城を出て、森の中に住むようになってからの木こりはずっとこの世界のことを考えていたとわしは思う。森で木こりをやっとるなんて、ただのかりそめじゃよ。本当はずっと探しとるはずじゃ」
「探してる?」
「星の樹じゃよ」
 所長はそう言うと、口の中に溜まった豆をごくりと流し込んだ。
「城の連中はおまえさんを調べとるうちに、木こりが何をしようとしてるのかも、とっくに調べ上げとるはずじゃ。おまえさんと同じように、今ごろ木こりも兵士に追われとるじゃろ」
 わたしのせい、わたしはそう思った。
「いずれは、ばれてただろうけどな」所長は言った。
「きっと木こりは星の樹を見つけたんだ」わたしは言った。
「間違いなくな」
「木こりは何をしようとしてるの?」
「それはわしの口からは言えん。木こりから直接聞きなさい」
「じゃあ木こりはどこにいるの? 星の樹はどこにあるの?」
 わたしはポケットに手を突っ込み、馬の置物が入っているか確認した。馬の置物はずっと握りしめられていたせいで、微かに熱を帯びていた。
「それも言えん」所長は言った。「木こりの気持ちはわしにもよく分かる。木こりが考えてることは、わしも若い頃よく考えておった。だけどな、だんだん年を取ってくると、これでいいんじゃと思えるようになってくる。わしはわしなりにこの世界が好きなんじゃよ」
 わたしは所長の言葉を頭の中で一周させた。
「行くわ」私はそう言って、椅子から降りた。
「もう戻ってこんのか?」
 所長はドアの前まで進んだわたしの方を振り向いて言った。わたしは頷いた。所長の姿はさっきよりもずっとぼやけて見えていた。二つに重なっている像のずれがだんだんと拡がっているようだった。所長の後ろにはまだ青年が立っていた。
「恋人がいたの?」わたしは酒場のドアを開ける前、ふと訊ねた。
所長は一瞬不意を突かれたような表情をした。
「忘れたのう」
 所長はごまかすように笑うと、背中を向けて、また豆をぽりぽり食べ始めた。

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 わたしは森の中を走り続けていた。
 星の樹。樹ならばやっぱり森の中にあるはずだ、わたしは単純にそう考えた。それに森以外わたしにはまったく見当がつかなかった。町を出るとき、見回りの兵士がわたしに気付いた。兵士はわたしを見つけたとたん走って追いかけ、わたしは森の中に逃げ込んだ。
 森の中はすっかり夜の帳が下り、冷たい空気が漂っていた。星の微かな光が森の中へとこぼれ落ちていた。わたしは二つの像がどんどん離れていく視界の中で、なんとか星の光だけを頼りに森の中を突き進んだ。冬の風がわたしの頬や耳を切りつけるように痛め、体温を奪っていった。酒を飲む余裕もなかった。ただ走り続けることが、冬の風からそして追ってくる兵士達から逃れる唯一の方法だった。わたしは兵士に追われながら、木こりを探した。兵士達に場所を悟られないため、木こりを大声で呼ぶこともできなかった。ただポケットの中で馬の置物を強く握りしめながら、木こりのことを想っていた。馬の置物は手の中でゆっくりと温かくなっていった。
 一体今自分が森のどのあたりを走っているのか、わたしは分からなくなっていた。青年と遭遇した場所を通過したと思ったけれど、青年の恋人の墓はどこにも見当たらなかった。同じ風景ばかりが続いた。暗闇に包まれた木々がその形をいっそう歪ませ、わたしの前に延々と立ちはだかっているだけだった。わたしはまさしく闇雲に走り続けた。視界の中では二つの風景がどんどん両側に離れていき、自分はその二つの間を突き進んでいるような感覚があった。わたしは木こりが何をしようとしているのかだんだんと分かってきた。それはたぶん、こういうことだ。木こりは星の樹を倒そうとしている。この世界を今のわたしの視界のように打ち崩すため、星の樹を根幹からぶっ倒そうとしているのだ。そう思えば思うほど、その考えはわたしの中で確信的なもの変わっていった。星の樹を木こりは打ち倒そうとしている。星は今新しく生まれることはなく、次々と冬の風に落とされている。冬の風はわたしからなかみを奪い取ろうとし、馬はわたしを一つに結びつけようとしている。木こりに彫られた馬。わたしはポケットの馬の置物を強く握りしめていた。
 木こりに会いたい、わたしはそう強く願った。
 突然、足元に大きな何かが現れ、それに足を引っ掛けた。全速力で走っていたため、勢いよく地面の上に何度か転がった。転がっている途中、足を引っ掛けたものが視界の中に入ってきた。それは土の山だった。青年の恋人の墓だった。死人がわたしの足を引っ掛け、わたしは砂の上に倒れ込んだ。
 砂?
 わたしの口元は砂にまみれていた。口の中でがりっと音が鳴った。顔を上げてみた。白い波しぶきが微かに見えた。わたしは知らず知らずのうちに森を抜けてしまったのだ。砂浜の上をゆっくりと立ち上がった。波が砂浜を激しく打ちつけている音が聞こえた。
 あたりを見回してみた。でも、それはいつもの砂浜の光景ではなかった。長く続く砂浜を完全に埋め尽くしていたのは、圧倒的な量の老いた星だった。わたしが毎朝掃除していた星の量など比べものにならない。風が吹くたび、老いた星達のひしめき合う音があちこちから連続して聞こえてきた。わたしはその間をすり抜けるようにして進んでみた。まるで広い平原を横断しようとしている象の群れの中に間違って入り込んでしまったみたいだった。量だけではなかった。わたしは老いた星の異変にすぐ気付いた。老いた星達は内部から微かな光を放っていた。ちょうどなかみが詰まっている中心の部分が緑色に発光していたのだ。緑色の光は心臓の鼓動のように一定のリズムで強くなったり弱くなったりしていた。その光のせいで外側の表皮が緑色にぼんやり浮き上がっていた。わたしは老いた星達の間を抜けると、波打ち際に立ってその大きな連なりを眺めてみた。闇の中を緑色の点線がどこまでも揺らめいていた。
 わたしは波打ち際を進んだ。どこまで進んでも、カサカサと音を立て続けている星の行列は終わらなかった。なにか密やかな儀式でも行われているような雰囲気だった。ふと、太腿が見えた。老いた星達を眺めていると、その間に人間の太腿が見えた。わたしは突き動かされるように星の中へ駆け寄った。老いた星を強く押し分けながら、太腿のところに向かっていった。最後の星を押し分けると、そこにいたのは木こりだった。木こりは老いた星を背もたれにして座っていた。わたしはボロボロに変わり果てた木こりの姿にしばらく唖然としていた。木こりの衣服はあらゆる部分が破けていて、そこから血が滲んでいた。投げ出された二本の足は打ち上げられた流木みたいだった。靴を片一方しか履いていなかった。うなだれた顔を覗き込んでみると、目を閉じ、鼻や唇から流れ出した血が黒く固まっていた。手元には納屋からなくなっていた斧が放り出されていた。老いた星がそんな木こりの姿を頭上から緑色に照らし出していた。
 木こりは人影に気付き、ゆっくりと顔を上げた。そしてわたしの顔を確認すると、微笑みを浮かべた。
「やあ」木こりは言った。
 いつもより少ししゃがれていたけれど、元気そうな声をしていた。
「やあ、じゃないわよ」わたしは言った。「大丈夫なの?」
「平気さ。見た目ほどじゃない。ここでゆっくり休ませてもらった」
「兵士にやられたのね?」
「朝、森の中で眠ってるところを見つかっちまってね。奴らは容赦がない。隙を見てなんとか逃げ出してきた」
「でもね、休んでるところ申し訳ないけど、そうそうのんびりもしてられないのよ」
「君も追われてるんだろ」
「あなたを探してたらね」
「これだけの星をほったらかしにしない方がいい」木こりは忠告した。
「ありがとう。でも少し遅すぎたわ」わたしは言った。
 わたしは木こりの片腕を自分の肩に回し、そのまま木こりの体をゆっくり抱え上げようとした。木こりは一瞬苦痛な表情を浮かべた。
「歩けないの?」
「こん棒で殴られすぎると、だんだん足がないみたいに感じるようになる」
 よく見ると、木こりの脛はボールを埋め込んだみたいに腫れ上がっていた。
「おれはきっと見つからない。だから君はこのまま逃げた方がいい」
「そういうわけにもいかないのよ」
「君がここにいると、おれまで見つかる」
 わたしは木こりの忠告を無視し、砂浜の上に座り込んだ。
「あなたの昔のことは所長から聞いたわ」わたしがそう言うと、木こりは呆れたように溜め息をついた。
「昔からおしゃべりなじいさんだ。なあ、ここは冷える。きみはどこかへ離れた方がいい」
 わたしはポケットから酒の瓶を取り出した。
「いつものやつじゃないけど、これで温まりなさい。もう少ししか残ってないけど」
 木こりは瓶を受け取ると、味見するように少し口にした。「いつものよりいける」そう言った。
「あなたは木こりをしながら、ずっと星の樹を探してたのね」
 木こりは底に残っていた酒を一気に飲み干した。
「逆さ。星の樹を探し出すために木こりになった」
「星の樹を倒そうとしてるの?」
「ああ」
「なぜ?」
「じいさんは話さなかったのかい?」
「話したがらなかったわ」
「そうするとこの世界が終わるからさ」
「わざわざ倒さなくても、星の樹はいずれ死ぬんでしょ?」
「星の樹はさらに生き延びようとしてるさ。そのために毎年、厳しく冷たい冬の風を町に吹かせてる」
「冬の風? 星の樹と何か関係があるの?」
 木こりはまた溜め息をついた。
「じいさんはいつも肝心なことを話さない」木こりは首を横に短く振った。「いいかい。冬の風は星の樹が吹かせているんだ。星の樹が冬の風を地上に吹かせ、おれ達のなかみを奪い取ってる。じゃあ、その奪い取ったなかみを星の樹は一体どこに運んでると思う?」
「わからない」
「星の樹自身さ。星の樹は町の人々のなかみを自らの内部に運び、空の星達に送ってるんだ。つまり星は町の人々のなかみで輝いてる。星のなかみは町の人々のなかみってわけさ」
「何のためにそんなことを?」
「生き延びる、ただそれだけのためさ。それだけのために星の樹は昔から多くの人々からなかみを奪ってきた。いずれ星の樹が死ぬとしても、一体それまでにどれだけ多くの人々がなかみを奪い取られると思う?」
 わたしは町を歩いている虚ろな表情の人達を思い出した。
「町の人達はそれに気付いてないの?」
「なかみを奪われた人間は闇を遠ざけ、光ばかりを崇めるようになる。光の根源のような星の樹を崇めるようになるんだ。星の樹にとっては好都合さ」
 二つに分かれた視界の中で、二人の木こりがわたしに話し続けていた。わたしはこのまま二つに引き裂かれたくはなかった。わたしは誰にも何にも自分のなかみを奪われたくはなかった。自分が一体なぜこの世界に辿り着かなければならなかったのか、そんなことはわたしは知らない。でも、少なくともこの世界はわたしのいるべきところではなかった。わたしはポケットの中で馬の置物を握りしめた。
「星の樹はどこにあるの?」わたしは訊ねた。
「闇の中」木こりは答えた。「闇を受け入れられる、なかみが詰まった人間でないと星の樹を見ることができない」
「あなたは見たのね」
「兵士をしてたおれにはもうほとんどなかみは残っていなかった。でも、ちょうど君と暮らし始めてから、おれはずっと自分になかみが戻りつつあるのを感じてた。君と一緒にいると、奪われたはずの多くのなかみがおれの中にどんどん甦ってくるような感覚があった。そして森の中を歩いていると、おれはいつの間にか闇の中にすっぽり包まれていた。星の樹に遭遇したんだ。おれは斧を振り上げて星の樹の根元をぶった切ろうとした。でもその瞬間、冬の風が強烈に吹き荒れて、吹き飛ばされてしまった」
「それであんな高熱を出して帰ってきた」
「もう一度森の中へ入ってみたが、星の樹は姿を現さなかった。闇の入り口すら見つからなかった。きっとなかみがまた奪われてしまったんだ」
 木こりはそう言って夜空を見上げた。どこからか警笛の音が聞こえた。兵士達はもうすぐ側まで近づいてきているようだった。
 わたしはポケットから馬の置物を取り出した。ポケットの中から緑色の光が溢れ出した。馬が発光していたのだ。夏の草原のような淡い緑の光を放ちながら、馬は駆け抜けようとしていた。
「あなたが作ったものよ」
「確かに。君と一緒にいると、その動物がおれの頭の中に現れてやたらと走り回っていたんだ」
 馬の鳴き声が聞こえた、激しい蹄の音が聞こえた。わたしの頭の中からではなかった。その音は実際にわたしの耳に届き、わたしの鼓膜を震わせていた。
「大丈夫。もうすぐ馬がわたし達を迎えにくるわ」わたしはそう言った。

〈了〉2001年作

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