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空を飛ぶための生活法(後篇)

 新宿の漫画喫茶でぼや騒ぎがあったと朝のニュースが伝えていた。店の横の路地に積み上げられていたごみ袋がくすぶっていたのを店員が見つけたらしい。最近そのあたりでは不審火が何度か発見されていた。雑居ビルが立ち並んでいることもあって、警察は警戒を強めていることも付け加えられた。
 あの夜にそんな騒ぎが起こっていたことなど、小原はまったく気づかなかった。街はいつものように静かで、雨が降りだしそうな薄暗い雲が広がっていただけだった。あのとき、あの警官といったい何を話していたのか、彼はうまく思い出すことができなかった。寒さのせいだったのか、あるいは警官という職業がそうさせてしまったのか。どちらにせよ相手が木彫みたいに固く強張った表情をしていたことぐらいしか思い出すことができなかった。
 電車の吊り革を握りながら、小原は目を閉じていた。部屋の中で飛行している状態を思い浮かべようとしていた。背中の小さな穴から空気が抜けていくように、重さがゆっくりと肉体から失われていく。手足を自在に伸ばし、風が吹いてくる方にむかって、暗闇の中を漂っていく。宙返りを何回か繰り返していくうちに、上下が入れ替わり、左右が入れ替わる。そんな感覚を呼び起こすため、小原は地図に張り巡らされた道路を想像しようとした。だがいくら瞼の裏側に交錯図を作り上げようとしても、像が結ばれることない。線路のきしむ音、車内アナウンス、ドアの開閉音、乗客の喋り声、衣擦れ、足音、咳払い、舌打ち。雑多な音が暗闇の中で細かく沸き立ち、滲み出ようとする赤い線をばらばらに分断してしまう。何よりも明るすぎた。瞼の裏側がつくりだす闇はあまりにも薄っぺらすぎた。やはり必要なのは、すべてを断絶する完全な闇と沈黙だった。
 小原は目の前に坐っている会社員ふうの男に視線をむける。丁寧に梳かした髪の両脇に白髪が混じっており、襟を立てたカシミヤのコートを着て、硬そうな鞄を膝の上に置いている。保険会社の重役といった感じだ。背筋を伸ばし、イヤホンをつけて、経済誌を熱心に読んでいる。隣に坐る女子高生が眠たそうに頭を寄りかけているのにも動じる様子はない。この男は今どこにいるのだろう、小原は電車の急ブレーキに踏ん張りながらそう思った。同じ満員電車に押しこまれながら、目の前の男はここではないどこか別の場所にいるような気がした。電車が進んでいる方向とはまったく違う場所にむかっているような気がした。もしかするとこの男も部屋に通っている一人なのかもしれない。仕事を終えると、あの駅で降り、あの住宅街を歩き、地下へと続くあの螺旋階段を下りているのかもしれない。あの闇を飛んでいるのは決して自分だけではない。そんなことを考えていると、人が押し寄せてきて、さらに窮屈になった。
 その日の昼休み、小原は早めに会社に戻った。いつもなら食事の後に公園のベンチで本を読んだりするのだが、店を出ると急に雨が降りだしたので、仕方なく駆け足で会社に帰った。ドアを開けると、彼の席のあたりで女子社員が三人集まっているのが見えた。彼女たちは小原の机を見下ろしながら、何か小さな声でこそこそ囁き合っていた。その中の一人は必死に笑いをこらえている。小原が帰ってきたことに気づくと、彼女たちはふと口をつぐみ、何もなかったかのようにそれぞれの席に散らばった。小原は椅子に坐り、机の上を見まわした。別に変わったところはないし、気にするところもない。だが、どことなく社内の様子が変わっているのを彼は感じとった。彼に接するときのまわりの態度がいつもと比べてよそよそしくなっている。彼に声をかけたり回覧の文書を渡したりするとき、相手は目に見えない膜にそっと触れるかのような緊張をなんとなく漂わせている。
 そのようなことはそれまでに何回かあった。暇を持て余した者同士が会話していくなかで、まわりの社員に対して固定したイメージを勝手に作りあげて面白がり、それに基づいた関わり方で接していく。小原も何度かその犠牲になったことがあった。それほどひどいイメージではなかったようだが、彼が何か言うたびに意味のわからない笑いがどこかで起こったりした。どうせまたそのような類いの遊びだろう、彼はいつものように誰かに話しかけることもなく、一人でマッキントッシュにむかっていた。だがそれでも薄い膜に覆われた緊張はいつまでも残っていた。
 六時を過ぎると、小原はそそくさとコートを着て会社を出て、足早に駅にむかった。部屋で長く飛んでいたい気分だったが、次の週まで部屋を訪れる予定は入っていなかった。地下鉄のホームに下りると、ちょうど電車が到着したので、一つだけ空いていた席に腰を下ろした。ドアが閉まる直前、赤木が車内に駆けこんできた。
「ぎりぎりセーフ」赤木は息を弾ませながら、小原の前の吊り革を握った。
「今日は早いね」薄っすらと笑みを浮かべている赤木の顔を、小原は無表情に見上げた。
「久しぶりに走りましたよ。やっぱ歳とりましたね。きついっす」
「約束でもあるの?」
「ええ、ちょっとね。いつものやつなんですけど」
「なにかと忙しそうだね」
「いや忙しくないっすよ、ぜんぜん」赤木は大きく息を吐きだすと、前髪を整え始めた。
 次の駅に着くと、別の路線から乗り換えてきた乗客が次々と乗りこんできた。もはやまっすぐ立つことすらできないほど窮屈な状態になったが、赤木は絶対に小原の前から移動しないように踏ん張っていた。
「小原さん、今日は大変そうでしたね」赤木は少し前屈みになり、小声で話した。
「何が?」
「みんな様子が変だったじゃないですか」
「ああ」
「何かおかしいなって思ってたんすよ」
「たしかにおかしかったね」
「わけわかんないっすよね」
「わけはわからないよ、いつも」
「ひどいっすよ。あの女たち、なんて言ってたか気づいてました?」
「さあ」小原は赤木から視線を外して、横をむいた。一瞬、人波のあいだにいる子供と視線が合った。「別に気にしなかったな」
「あいつら小原さんのこと、ホモらしいって笑ってたんですよ」
「へえ」
「馬鹿でしょ」
「驚いた。どんなとこがだろう」
「しょせん勝手な決めつけですよ。いつも大人しいし、ほとんど喋らないから何考えてるかわからないし、彼女がいる様子もないからとか言って、きっとホモに間違いないって。もうみんなのあいだでは噂以上のレベルになってますよ」
「なるほど。初めてだな。そんなふうに見られたのは」
「平気なんすか?」
「どうだろ」小原は首をかしげた。「でも別に仕方ないし」
「え」赤木の眉毛がつりあがった。「ちょっと待ってくださいよ。小原さんって、実際そうなんですか?」
「いや、そういう意味じゃないよ」小原は首を振った。「ただ、何を言われるかなんてどうしようもないことだから」
「ふうん。そんなもんすかね」赤木は納得できないように、目の前の窓ガラスをじっと見つめていた。「もし俺がそんなこと言われたら、ちゃんと綿密に計画立てて、一人ずつきっちり復讐してやりますけどね。相手がぼろぼろになって立てなくなるまで」
「もちろん腹が立つのもわかるけどね」
「やっぱり小原さんて、どっか変わってますよね。なんか超越してるっていうか、悟ってるっていうか。なかなかっすよ。ははは」
 乗り換えの駅に着くと、赤木は網棚からリュックを下ろし、肩にかけた。「それじゃあ、その調子で我が道突き進んでいってくださいよ」
 赤木は人の波に消えていった。小原は深く呼吸をして、しっかりと目を閉じた。

 枕元の時計はすでに三時を過ぎていた。小原はうまく眠ることができなかった。気持ちを落ち着けようとしても、頭の奥のどこかが固く張りつめている。何も考えないようにしても、勝手に何かを考えている。首のまわりには汗がじっとりと滲んでいた。小原は身を起こし、ベッドに腰を下ろしたまま、しばらく床の上を見つめた。そして部屋の電気を点け、浴室に入って、熱いシャワーを頭の上からしばらく浴び続けた。こめかみの奥に硬い鉄の玉を押しこまれているような気分だった。
 新しいタオルで体を拭くと、大きめのカップにコーヒーを注ぎ、パワーブックの電源を入れた。まだ腋の下や股の間に汗が残っているような気がした。軽くストレッチをしてみたが、頭の重さはとれなかった。別に体調を崩したわけではない。ただなにか体中の血管が沸々とざわついているような感じだった。いつものように本のページを開いてみるが、ただ文字を追うことしかできない。
 パワーブックが汲子からのメールを受信していた。ベッドに入る前に確認したときは何もなかったはずだった。小原はマウスに手を伸ばした。受信時間は三時十五分になっている。ちょうど小原がシャワーを浴びていた時間だ。そんな時間に汲子がメールを送ってきたことはそれまでなかった。画面をスクロールしなければならないほど長い文章を送ってきたのも、それまでになかったことだった。

 どれだけ日にちが経っても
 電動自転車の人たちは立ち去ってくれそうにありませんでした。
 わたしが行きたい方向に全然進んでくれないし
 そっちには行きたくないと思ってる方向にばかり
 わたしを連れていこうとするのです。
 少しペダルを踏んだだけなのに、車輪がすごい勢いで回転して
 目が回るぐらいどんどん前に進んでいって
 いつも結局、引き返せないぐらい遠い場所まで連れていかれます。
 これじゃあやっぱりいけないから、わたしは決めることにしました。
 三十分かけて多摩川の土手まで行って、そこに電動自転車を捨ててきたのです。
 同じ道をわたしは歩いて帰りました。部屋についたときはもう真っ暗でした。
 それからは買い物にも、美容室にも、キーボード講座にも
 自分の足で歩いて行くことにしています。
 なるべく自分の足が届く範囲の世界で生活するようにしました。
 でも、ときどき視線を感じることがあります。
 部屋の窓から、電動自転車の人たちがこちらを覗いているような気がするのです。
 すごく嫌な気分です。汗がじとっと出てきて、奥歯がガタガタ震えてきます。
 壁を思いっきり叩いて、大声で助けを呼びたくなります。
 でもきっと誰も助けにきてはくれないでしょう。
 だって誰もいないからです。
 そもそものはじめから、わたしのまわりには誰一人いなかったのです。
 気持ちを落ち着けて、呼吸を整えて、わたしは冷静に対応しようとします。
 たぶんわたしはどこかで間違ってきたのだと思います。
 どこかで間違った道に入ってしまったのです。
 わたしという女は、いつのまにか別の女になってしまったように思います。
 実は電動自転車を捨てた次の日、会社を辞めました。
 それには理由があります。
 兄のこと。そして母のこと。
 今はまだ何もしていません。ただ週に一度、キーボードを弾いているだけです。
 不思議ですね。メールというものは。
 相手の場所が遠くなっても近くなっても
 あいだの距離はいつも一定のような気がします。
 あなたとのあいだもいつも同じ距離です。

 それを三回読み返した後、小原は汲子に電話をかけてみようと思った。メールが送られてきてから三十分も経っていないし、きっと彼女はまだ起きているに違いない。会社のバッグから携帯電話を取りだし、通信履歴を表示させた。その数ヵ月、ほとんど誰とも話をしていなかったので汲子の番号はすぐに見つかった。液晶画面をしばらく眺めた後、通話ボタンを押す。呼び出し音にじっと耳を澄ましてみる。そのあいだベッドの脚にもたれながら、メールの文面を目で追い続けた。何回も何回も繰り返して読んだ。いつまでも待っても、汲子の声は聞こえてこなかった。小原の発信した電波は、誰もいない真っ暗な空間にむかって吸いこまれていくだけだった。
 カップの底に残っていたコーヒーを流しに捨てると、彼は洋服に着替え、電気を消して外に出た。風のない夜だった。星がいくつか光っている。小原はいつものようにゆっくりとした歩調でまわりのもの一つずつに目をむけていった。まるで初めて歩いた道のように、目に映るものすべてを丁寧に観察しながら、マンションのまわりの細い道をひたすら歩きまわった。
 彼は汲子と付き合っていたときのことを思い出していた。
 二人が別れる二ヵ月ほど前のことだ。小原の部屋の小さなベッドの上で二人は眠っていた。抱き合っている途中はいつも床に落ちないように気をつけなければいけないほど狭いベッドだった。すでに二時を過ぎていた。突然テーブルの上で鳴り響いた携帯電話に小原は起こされた。一瞬警報器が鳴ったのかと勘違いしたが、隣で汲子がするりと上半身を起こし、小原に覆いかぶさりながらベッドから出ていって、携帯電話を手にとった。五月にしては暑い夜だった。まだ昼間が続いているような錯覚を覚えながら、小原は体をもそもそと起こした。汲子はTシャツに下着のまま窓際に立って、独り言を呟くように小さな声で話している。何を話しているのかはっきり聞き取れない。ただ電話のむこうから絶え間なく聞こえてくる言葉に短い相槌を打ちながら、ときどき相手を落ち着かせていた。
 汲子はずっと窓に額をくっつけながら、相手の声に耳を傾けていた。三十分ほど経って話が終わっても、窓のそばから離れようとしなかった。まるで自分の手の中に悩みごとがおさまっているかのように携帯電話をしばらく見つめていた。
「どうした?」小原は訊ねてみた。
「おかあさん」汲子がそう答えるまでにしばらく間があった。
 小原はベッドから出ると、グラスを二つ取り出して、麦茶を注いだ。汲子はテーブルのそばに腰を下ろしたが、麦茶には手をつけようとしなかった。
「……お兄ちゃんが、見つかったんやって」思い巡らせていたことをとりあえずまとめたように汲子は言った。
「見つかった?」
「うん。見つかったらしい」
「どっか行ってたの?」
「家出してたの」
「家出? いつから?」
「ある日、煙みたいにふっと家からいなくなって、半年間行方不明やったの」
「そうやったんや」
「捜索願は出してたけど、どこにいるのか見当もつかなくて」
「心配やったろうな」
「昔からそういう人やったの、お兄ちゃんて。いつのまにかすうっといなくなってしまう。こんなに長くいなくなったのはなかったけど」
「ふうん」
「おかあさんはいつも電話のむこうで泣くばっかりやった」
「今も取り乱してたみたいやな」
「いつもこんな感じ。いつも夜中に電話してくる」
「でもとりあえずは落ち着くやろう」
「どうやろうね。わからへんわ」汲子は床に身をごろりと横たえた。「なんか、あの人たちのことが、少しずつわからなくなっていくような気がする」
 小原は麦茶を少しだけ口にした。飲みこむ音がやけに大きく響いた。「どこで見つかったん?」
「何が?」
「お兄さん」
「……横浜やって」言いにくそうに汲子は言った。
「横浜?」
「公園のベンチの上で寝ているところを、警官に職務質問されたらしいの」
「知り合いでもおったんかな。横浜に」
「おれへんと思うよ。あの人ずっと神戸から離れたことなかったし、友達もほとんどいなかったから」
「じゃあなんで横浜やったんやろう」
「さあ」汲子は溜め息をついた。「ただ思いついただけじゃないかな」
「でも」小原は言った。「もしかしたら、会いにきたのかも」
「会いにきた?」
「うん」
「誰に?」
「汲子に」
「まさか」
「おかしくはないやろう」
 汲子は黙った。しばらくして面倒くさそうに身を起こすと、何度も髪をかきあげて、立てた片膝を両腕で抱きかかえた。「ほんまにそう思う? あの人がわたしに会いにきたって」
「いや、ただそんなふうに思っただけや。兄妹でしか話せないこともあるかもしれんし。どっちにしても身柄を引き取るのに会うことになるんやろう?」
「ううん。わたしは行かない」
「じゃあ誰が」
「おかあさん」
「神戸から?」
「うん。それですぐ二人で神戸に帰っていくの」
「それだけ?」
「それだけよ。そういうもんよ」
 小原は立ち上がり、トイレに行った。戻ってくると、汲子はもうベッドの中に入っていた。うつぶせになって、両手の上に顔を乗せ、身動き一つしなかった。小原はベッドから少し離れた場所に腰を下ろした。もうすっかり目は覚めていたが、夜明けまではまだずいぶんと時間があった。

10

 楠礼次が身を投げたときの様子を私たちは掴むことができた。品川から大阪にむかう最終の新幹線に乗りこんだところまでは把握していた。だが新横浜に着いたところで彼はふいに立ち上がり、鞄も持たずに小走りでドアにむかい、そのまま夜の街に消えてしまったのだ。それから真っ昼間のアスファルトに体を叩きつけるまで、彼は誰にも見つかることなくビルの屋上で息を潜めていた。
 かつて楠は男性同性愛者をメンバーとするクラブに所属していた。高所得者むけのクラブで、一回の行為に支払う金額は血統証つきの子犬を一匹買えるほどだったが、そのかわりメンバーのプライバシーは徹底的に守られていた。楠は月に一度クラブに電話をかけ、若く白い肌を持つ青年をホテルの部屋に呼びつけていた。そして相手の体をまさぐり、自分の体を舐めさせていた。朝がくると、ホテルを出てそのまま父親の会社にむかって車を走らせた。
 運転している途中、彼はふとどこか知らない街をさまよっているような感覚に襲われることがあった。目の前を通り過ぎていく風景がまったく見覚えのないものに思えてきて、道を一つずつ確認しながらハンドルを慎重に切っていかなければならなかった。一晩中名前も知らない男の体を抱き続けたことで残るものといえば、結局自分はどこにも辿り着けないのだという不安だけだった。白く柔らかいものが体の中を少しずつ食い尽くしている、そんな感覚がいつまでも残っていた。俺はいつか自分で命を絶つだろう、解剖されたら体の中にはそいつの真っ白な糞がぎっしりつまっているに違いない、そんなふうに思えてならなかった。
 ある夜、楠は途中で行為をやめてしまった。相手の手や舌が自分の体に絡みついてきても、まったく勃起しなかったのだ。彼は諦めて、相手に金を渡し、ソファに深々と腰を下ろした。そして煙草に火をつけ、肺の底まで煙を吸いこんだ。相手の青年は何も言わず、床に脱ぎ捨てていた白いシルクのシャツと黒いスーツを身に着けた。しかしすぐに帰ろうとはせず、楠のそばに近づいてベッドの上に腰を下ろした。そして遠くの風景を見渡すように目を細めて楠を見つめた。
「申し訳ありませんでした」青年は頭を下げた。
「別に謝らんでええよ」楠は目を反らし、掠れた声で答えた。
 青年はしばらく迷い考えていた。だが目の前の男が太い指でこめかみを押さえながら、まるで地震でも起こったみたいに体を震わせているのを見ていると、やはり新大阪にある部屋のことを話すことにした。
 その部屋は雑居ビルの地下にあった。一階は駐車場、二階は皮膚科、三階は社交ダンスの教室。まわりに建ち並ぶ高層ビルのせいで日照は一日中遮られていた。楠は仕事を終えると、クラブに電話をかけるかわりに、青年に教えられた部屋を訪れた。
 完全な暗闇の中で肉体を浮かせていることは、楠にとって知らない男の体を抱くよりも解放的な行為だった。仕事から解放され、父親から解放され、自分の肉体から解放され、白く柔らかいものからも解放されたような気になれた。自在に体を動かせるようになると、飛行の高さも少しずつ上昇していった。
 いつしか彼は自分の以外の誰かが闇の中にいるような気配を感じるようになった。闇をじっと見つめていると、すぐそばに小原がいるような気がしてくる。自分と同じように小原も体を浮かせていることがわかってくる。手を伸ばし、相手の指先に触れる。その冷たくほっそりとした手をしっかり掴む。それは紛れもなく学生時代に何度か触れたことのある小原の手だった。楠は小原の手を握ったまま、暗闇をじっと見つめる。そこにあるはずの小原の姿を必死に認めようとする。だがどれだけ目を見開いてもそこには闇しかない。楠は空中に浮かんだまま、ゆっくりと小原の体を引き寄せる。そして自分の胸元に押し寄せると、力の限り抱きしめた。楠は洋服を床の上にぱたぱたと脱ぎ落としていった。裸になってしまうと、終了の時間がくるまで小原の体を夢中になって求め続けた。彼はそんなふうにして何年ものあいだ小原の体と自分の体を交じわらせた。そして最後はいつも何もない闇にむかって精液を放出した。
 楠が部屋の中で裸になったり、射精したりしていたことを私たちは知っていた。だが彼がそこで求めていたものについてはまったく干渉していなかった。部屋における三つのルールさえ守っていれば、そこでどんな行為が行われようと私たちは構わない。
 小原に対するのと同じように、私たちは楠のコンピューターにも日常的にアクセスしていた。彼のコンピューターには厳重なセキュリティが何重にも施されていて、不審な侵入者が少しでも近づこうとすれば、すぐに足跡がつく仕掛けになっていた。さらにネットワークケーブルに常に接続されているという状態ではなかった。それでも私たちは時間をかけて少しずつ彼のコンピューターに接近し、なんとかデータの中身を把握することができた。ただ、それほど厳重なセキュリティで守られていたにもかかわらず、保存されていたデータはたいした内容ではなかった。ほとんどが決算書類や仕入表など仕事関係のもので、メールも取引先とのやりとりばかりだった。特別目立ったものは何もなかった。しかし彼が自殺したことを受けて、私たちは再び彼のコンピューターにアクセスしてみた。すでにほとんどのファイルは消去されていたが、あるフォルダの深い階層に一つの文書ファイルが残されていた。それまで見たことのないファイルだ。
 楠は物語を再び書こうとしていた。あるいはかつて彼が学生時代に書き上げた小説の続きを書こうとしていた。ただその内容は、すべてが彼の人生で起こった事実に基づいたものだった。実務経験がないにもかかわらず父親の一存で会社での地位がどんどん上がっていったこと、それに伴って彼の立場が孤立していったこと、ちょうどその時期に同性愛者クラブの会員になったこと、そして私たちの部屋を訪れるようになったことなどを数年にわたって詳細に書き綴っていた。特に暗闇での交わりについては多くのページを割いて書かれていた。物語の中で楠と小原は右手と左手のようにしっかりと抱きあっていた。唇を重ね、脚を絡めあい、互いの性器を舐めあい、順番に相手の中に入りあった。

 学生時代に彼が書いた小説は基本的にはフィクションだった。
 ある大学生の青年が卒業を控えた夏休みに北海道を一人で旅するという話だ。すでに必要単位を取得し、船舶史におけるディーゼルエンジンの進化についての卒論も書き上げ、都市銀行の重役である父親のコネクションによって鉄鋼会社から内定をもらっていた。これからしばらくは社会に出るまでの猶予期間だ、このあいだに自由というものを胸いっぱいに吸いこんでやろう、青年はそんなふうに考えていた。
 まず札幌で一般的な観光を楽しんだ後、伯父の経営するペンションがある摩周湖へ移動した。とりあえず一週間ぐらいはそのあたりの山や川を見てまわるつもりだった。財布の中にはいつも父親名義のクレジットカードを忍ばせていたので、金の心配をする必要はない。あらゆる気がかりを脱ぎ去ってきた彼は、すがすがしい気分で深い青みを湛えた湖面を眺めた。
 伯父は母親と同じく物静かな人物で、一人旅をする甥に対して自分の息子のように親切に接してくれた。ペンション自体は古く小さい建物だった。何回も改装を繰り返したせいか、結局これといった特徴のない造りになってしまっていたが、それでもどことなく居心地が良かった。柱の傷一つ一つにまで伯父の愛情が息づいているような温もりが漂っていた。
 一つ特徴を挙げるとすれば、母屋から少し離れた小屋に馬が繋がれていたことだ。茶色の毛なみが艶やかで、額から鼻先にかけて白い筋が走り、丁寧に切り揃えられた真っ黒なたてがみを持つ牝馬だった。妻が死んでしばらく経った後、近くの乗馬クラブで佇んでいる姿を見かけて、自分の手元に置いておきたくなったのだと伯父は話した。老齢で体力は落ちているが、人を乗せられないことはない。だが伯父は馬の背中に乗るつもりで買い取ったわけではなかった。芝生の上でほとんど動こうとせず、ただこちらをまっすぐに見つめる真っ黒な目が妻の目とあまりにもそっくりだったのだ。伯父はそのことを甥に話してみようかとも思った。しかし嬉々とした表情で馬の首や横腹を撫でているのを見ていると、余計な話かもしれないと思った。
 伯父の了解を得ると、青年は小さい頃に父親から教えられた乗馬の感覚を思いだしながら、毎日馬の背中に乗って出かけていった。最初は手綱の扱いに覚束ないところもあったが、次第にまわりの景色に目をやる余裕が出てきた。どこまで走っても、八月の大地は広がり続けていた。遠くに見える緩やかな稜線はくっきりと輝き、そのふもとでは白樺の林が涼しい風を送りだしていて、透き通った川の水は淀みなく流れていた。山より高いものはなく、空は手の届きそうなところに広がっていた。短い草の上で気持ちよく響く蹄の音を耳にしながら、青年は空を飛ぶような心地を覚えていた。こんな場所で一生を送れるとしたらどんなに素晴らしいだろう、この夏の草原以外に人生に必要なものなどあるだろうか、そう思わずにはいられなかった。つい十日前、面接官相手にエンジンの効率化について必死に話していた自分がなんだか馬鹿馬鹿しく思えた。
 夕食どき、青年は馬の名前を伯父に訊ねてみた。そういえば名前を聞いていなかったことを思いだしたのだ。名前はないんだと伯父は答えた。名前はつけないことにしたんだ。乗馬クラブにいたころはもちろん名前があったけど、今はもうその名前を使っていない。別になくてもわたしも馬も不便しないんだよ。それにわたしたちだけでなく、ここでは何かの名前を取り上げてどうこうすることがないしね。だって自分の名前も忘れてしまうぐらいだから、伯父はそう微笑んだ。
 ペンションを発つ前日の空はよく晴れていた。昼食を済ませた後、青年はそれまでよりも遠出をしてみようと思った。名前のない馬に跨がって、草原を抜け、林を抜け、橋を渡り、山のふもとまで辿り着いた。目の前では木々が鬱蒼と茂っていて、ひんやりとした空気が漂っていた。木漏れ日が光の柱のように差しこんでいる。青年は馬の速度を落とし、ゆっくりと木々の間を進んでいった。ときどき草の間で何かがかさっと動いた。馬の息づかいと蹄の音以外はほとんど何も聞こえてこない。上下の規則的な振動に身をまかせながら、青年は木の幹肌や葉の形、花の咲く様子などの一つ一つを丁寧に観察しながら進んでいった。
 しばらくして、まっすぐ歩けないほど木が密集しているところに入った。光もあまり届いていなくて、土が絨毯のように柔らかい。仕方ないので青年は馬から降り、手綱を木に縛りつけて、そこから先を一人で進むことにした。振り返ると、馬はどこか哀しげな目でこちらをじっと見ていた。大丈夫さ、すぐに戻ってこられる、ここには人を迷わせるものなんて何もないさ、青年はどんどん足を進めていった。しかし青年の判断は間違っていた。伯父の言ったとおり、そこは名前のない場所だった。名前のない木が乱立し、名前のない鳥が鳴き、名前のない花が枯れ、名前のない岩が崩れ、名前のない湧き水が流れていた。目印として木に巻きつけたバンダナを見失ったせいで、歩けば歩くほど同じ風景の中をぐるぐる回り続けているように青年には思えた。あるいはまったく見当違いの方向にむかっているようでもあった。それは何の手がかりもない暗闇を進んでいるのと同じことだった。だんだんスニーカーは泥まみれになり、汗が染みこんだシャツはひんやりと冷たくなっていた。
 どれぐらい時間が経ったのかわからない。青年が水音を耳にしたときはすっかり日が沈んでいた。自分の手のひらも見えない暗闇の中で、幸運にも摩周湖のほとりまで近づいていた。そのまま水際に沿っていけば、自動的にペンションに続く道路に辿り着くことができるはずだった。青年はやっと胸を撫でおろした。だが彼にはもう木の枝を折る体力さえ残っていなかった。それに何も目にできない中をそれ以上進んでいくのは危険だった。ここで朝になるまで待とうと青年は考え、できるだけ乾いた土の上で身を横たえた。
 足の先のすぐ近くから水の寄せる音が絶えず聞こえていた。指一本も動かしたくないほど疲れていたにもかかわらず、青年はうまく眠ることができなかった。深呼吸を何度も繰り返した。次第に自分がこんなところで一体何をしているのか青年はよくわからなくなった。何もかもが剥ぎ取られ、泥まみれになり、まったく違う人間になってしまったような気がした。ゆっくりと眠りが彼を覆い尽くそうとしていたが、まるで他人の毛布を被せられているみたいに意識はどこか醒めていた。そのとき聞こえてきたのは、馬のいななきだった。遠くの森の中から何回か、まるで夜の海をさまよう汽笛のように馬の哀しげな声が聞こえてきた。青年は目を閉じながら、その声にじっと耳を澄ませていた。
 青年を揺り起こしたのは若い警官だった。伯父から連絡を受けた警察は早朝から捜索を開始し、一時間もしないうちに摩周湖の展望台から黄色のウインドブレーカーを着ている青年を発見した。青年は病院で検査を受けたが、ほとんど衰弱しておらず、そのまま伯父のペンションに戻ることになった。青年は伯父にむかってひたすら頭を下げた。伯父は青年を咎めることもなく、卵をとかした温かいうどんを出してくれた。必ず見つかると思っていたよと伯父は慰めた。そんなに広い森じゃないし、崖や川があるわけじゃないから、丸一日かけて探せば必ず見つかるはずなんだ。怪我がなくて本当によかった。怪我をして動けなくなっているんじゃないかと、それだけが心配だったから。
 青年はうどんを食べ終えた後、申し訳なさそうに馬のことを切り出した。木に繋ぎっぱなしだから、今から連れ戻してきますと言った。伯父は首を振った。馬はもういないよ。実は今朝早く、君のあとを追って森に入ったんだ。しばらく進んでいくうちに、手綱が地面に落ちているのを見つけた。もちろん君が逃がしたんじゃないことはわかってる。あいつはどこかに去ってしまったんだ。ここにはもう二度と戻ってこないと思う。だけど仕方ない。別れとはそういうものなんだよ。
 鉄鋼会社で働き始めてからも、青年はときどき馬のことを考えることがあった。あの馬はあの森の中に今でもいるのだろうか、もしかしたら馬はまだ自分のことを背中に乗せているつもりでさまよっているのかもしれない。青年の瞼の裏には、どこまで歩いても出口が見つからなかった森の中の景色が映し出された。あの夜、あの森の中で、自分は自分の名前を失っていた。仕事で夜遅くに帰ってきた日は、ベッドの上でいつまでも目を閉じていた。

 楠のコンピューターに新しく残された文書ファイルには、やがて青年が同性愛者のクラブに入会して男の体を抱くようになり、新大阪にある地下の部屋を訪れ、そこで大学時代の友人と体を交じわらせることになる十年間の物語が書かれている。そのいきさつは私たちが調べ尽くした楠の現実の動向と完全に一致していた。
 最後の数ページで青年は東京で友人と再会し、新横浜で新幹線を降りた後、港の見える公園まで歩いていき、ベンチに身を横たえた。ひどく冷たい風が大きな波を持ち上げていたが、そんなことは青年には関係なかった。夜が明けると、そこから見える七十階建てのビルにむかった。自分なら飛べるかもしれない、青年は本当にそう思っていた。屋上につながる鉄製のドアを開けると、柵を乗り越え、靴を脱ぎ、コンクリートの端っこに両足を揃えた。そしていつも暗闇で飛んでいるように、目を閉じて気持ちを集中させた。瞼の裏に浮かんでいたのは大学時代の友人の美しい手だった。決心はなかなかつかなかった。風が強く吹き上がると、腰を下ろし、気持ちを整理させた。そして再び大地のない空間の前に立ち尽くす。立ってはしゃがむを何百回も繰り返しながら、青年はビルの屋上で時がくるのを待った。
 三日目、自分はあそこで馬を残していくべきではなかったのだ、青年はふとそう思った。彼は空中に人を見た。それは青年自身だった。馬の背中に乗って闇をさまよっている自分自身だった。すでに空を飛んでいる自分を彼は目にした。そのあとを追いかけていくように青年は、そして楠は足を一歩空中に踏み出した。

11

 小原は二日間会社を休んだ。体温計の数字は下がらず、咳は続けざまに出て、朦朧とした意識のままベッドに横たわっていた。たぶん徘徊のせいだろうと思った。睡眠不足で真冬の風に長い時間吹かれていたせいで、体力が根こそぎ奪われたのだろう。三日目は午後から出社することにした。病院で注射を打ってもらうとずいぶん楽になったこともあったし、その日の夜は部屋を訪れることになっていた。
 会社に行くと、何人かの人間が声をかけてきた。大丈夫ですか? まだ休んでたほうがいいんじゃないですか? 小原は適当に返事をして、コンピューターを立ち上げた。急を要するメールが一件届いていたが、営業の者に確認してみると、すでに赤木が処理したということだった。彼はその日から有給休暇を取っていた。今頃ゲレンデで気持ちよく滑っているんだろうと小原は想像した。
 たまっていた仕事が一段落したのは夕方だった。トイレから戻ると、小原は企画チームのチーフに声をかけられた。このあいだトラブルが起こったときに、赤木が疑っていた男だ。四十五歳で、薄手のセーターにシルバーのネックレスをつけ、一年中日焼けをしている。話しながら眼鏡のブリッジを触るのが癖だった。チーフは机とパイプ椅子とホワイトボードしかない狭いミーティングルームに小原を招き入れた。二人はむかい合って腰を下ろした。
「風邪だったの?」特に興味はないが、とりあえず話の入り口として切り出したというようにチーフは訊ねた。
「ええ。そう診断されました」小原は答えた。
「へえ。病院に行くタイプだったんだ、君って」チーフは笑みを浮かべた。
「実はそういうタイプですね」
「医者の前では話すんだ」
「医者ぐらいですね。親身になって話せるのは」小原は冗談めかして言った。だがチーフは何も聞こえなかったように小原を見つめていた。
 チーフが自分のことをよく思っていないことを小原はずいぶん前からわかっていた。二人がまともに言葉を交わしたのは、小原が入社してすぐにチーフと一緒に取り組んだ仕事のとき以来だった。そのとき、相手が自分とはまったく別のタイプの人間であるいうことを二人は肌を通してひしひしと感じた。それからというもの、互いのあいだの境界線を絶対に踏み越えないように二人は細心の注意を払ってきた。
「君ってさ、共有ディスクに頻繁にアクセスしてるよね?」チーフが訊ねた。
「え」小原は質問の意図がわからなかった。
「調べてみるとさ、社内で君がいちばんアクセスしてるみたいなんだ。記録もちゃんと残ってる」
「それがどうかしたんですか?」小原は相手の目をじっと見た。「仕事に必要なときに、必要な時間だけアクセスしてるだけですけど」
「それはもちろんわかってるよ」チーフは人差し指で眼鏡のブリッジを上げた。「君がこれまで真面目に、与えられてきた仕事をこなしてきたのは知ってる、文句の一つも言わずにね。だから私も不思議で仕方ないんだけど。こないだミスが立て続けに起こっただろ。その原因をずっと調べてきたんだ。でも調べるといってもこんな小さな会社だから、疑いのある場所はすぐに絞りこめる。つまり共有ディスクに保存されている社員のスケジュールデータと、広告用の紙面データが勝手に書き換えられたとしか考えられなくてね」
「それが僕だというんですか?」
「もちろん可能性の話だよ。他の人間が書き換えた可能性もまだ残ってる。君が実際にデータを書き換えているところを見た者は誰もいない。でもサーバーに残ってる記録から考えれば、君だという可能性がいちばん大きいのは確かなんだよ。君が何月何日の何時にどのファイルにアクセスしたのかが全部リストアップされている。すでにチェック済みのファイルに対して、あえてトラブルを起こすようなタイミングで、君のコンピューターからアクセスされてる形跡が残ってるんだよ」
 小原は音を立てずにゆっくりと息を吐きだした。「ちょっと待ってください。まったく意味がわからないです。僕がそんなことをする必要は何ですか? 同じ会社で仕事をしている人間が、何のためにわざわざそんなトラブルを引き起こすんですか?」
「いやだからそれは」物わかりの悪い高校生を相手にするようにチーフは口の端を曲げた。「こっちが今それを訊こうとしてるんだよ。会社はあのトラブルで損害を被ったんだ。せっかく決まりかけてた新規の契約も振り出しに戻ったし、ポスターも刷り直さなきゃいけなかった。決して見過ごせない額だよ。次の賞与にもきっと響いてくる。汗水流して仕事をした結果損をするなんて、便器に蓋をしたまま小便するようなもんだよ。絶対あってはいけない。そんな子供でもわかるような馬鹿げたことをなんで社内の人間がやる必要があるんだろうかね」
「その記録は本物なんですか?」
「もちろん」チーフはまたブリッジを上げる。
「それは見せてもらえないんでしょうね」
「今はまだその段階じゃない。まずは君の話を聞くのが先だから」
「僕の話なんてないですよ。何のことかわからない、それだけです」
「それだけだと君の立場はますます悪くなるけど」
 小原は大げさに咳払いをした。舌の根元が乾いている。「他の誰かがぼくのコンピューターを勝手に使って、データを書き換えたのかもしれない。そういうことはまったく想像しないんですか?」
「誰かがそんなことをすると思うふしでも?」
「さあ、知らないですよ。でも仮にもし、そういうことを計画するとしたら、わざわざ自分のコンピューターからアクセスして、足のつくような馬鹿な真似は誰もしないんじゃないかと思うだけです」
「えらく遠回しな言い方をするじゃないか」チーフは少し苛立った。「今君が言ったことはかなり問題だと判断するよ。まるで私たちが馬鹿だと言ってるふうに聞こえるね。君は普段、猫をかぶって当たり障りなく過ごしてるつもりのようだね。誰とも喋りすぎることはないし、会議でも積極的に意見を発言することもない。どんなことがあっても冷静な表情を保とうとしている。でも本性はどうなのかわからないっていうことをみんなは言ってるんだよ。ちなみに最近、君のプライベートに関する変な噂が社内で広がっているみたいだね」
 にやついているチーフの顔を小原は観察した。落ち着きのない子供が粘土をこねくりまわして滅茶苦茶につくったような表情だと思った。
「まあいい」チーフは言った。「いずれにせよ、社長に報告する必要がある。君の態度は非常に良くなかった。次に話をするときは、おそらく社長も同席することになると思う。そのときにはアクセス記録もちゃんと用意する。それは動かしがたい証拠になるだろう。その状況が何を意味するかぐらいはわかるよね?」
「さあ」小原は相手の目をじっと見た。「わからないですね」
 チーフは得意げにブリッジに触れる。「なあ君、この世の中で絶対に必要とされる人間などいやしないことぐらいは知ってるだろう。もしそんな人間がいたら迷惑でしかないんだ。世の中っていうのは否応なしに入れ替わっていく。それなら生きていくのに重要なことは、あいつは必要じゃないって陰で言われないように振舞うこと、そうだと思わないか?」
「そういうふうに振舞っている人間が他人のコンピューターを使って、データを書き換えたんじゃないですか」
「わかった」チーフはトーンを落として言った。「せいぜい腹をくくっておくことだ。さもなきゃ浮浪者みたいに野たれ死ぬぞ」
 誰かがドアをノックした。まだ入社して間もない事務の女の子だった。彼女は恐る恐る顔を出して、取引先から何度も電話が掛かってきていることをか細い声で伝えた。チーフは立ち上がり、ミーティングルームから出ていった。少し時間を空けてから、小原も自分の席に戻った。パーテーションのむこうから、チーフの大きな笑い声が聞こえてきた。まわりは静まりかえっていて、誰も小原を見ようとしなかった。メールが一件届いていた。送信アドレスに見覚えはなかったが、つい開封してしまった。添付されていた画像ファイルがモニターに映し出されると、小原はすぐにファイルを閉じた。それは裸になった白人男性の画像だった。男性は海岸の岩場に身を横たえて、勃起した自分の性器を握りながら、白い歯を爽やかに光らせていた。

 駅に着いたのは七時前だった。予定の時間まではあと一時間以上もある。時間より早く着いても、ドアの鍵が閉まっていることはわかっていた。だが小原は一刻も早く会社から出て、外の空気を吸いたい気分だった。
 コーヒーショップに入ると、彼はいちばん大きいサイズのアイスコーヒーを注文した。そして窓際のいちばん端の席に坐り、バッグから楠の小説を取りだして、続きを読み始めた。主人公の青年が伯父から借りた馬に乗って、草原を走り抜けている場面だった。小原はその場面をとても気に入っていた。馬に乗ったこともなければ北海道に行ったこともないのに、その場面を読むと、地面を軽やかに蹴る蹄の音や、髪をなびかせる爽やかな風をありありと感じとることができた。果てしなく続く空と大地を見渡すことができた。それこそが楠の小説のいちばん素晴らしい部分だと思っていた。そこには何事にも依らない、無条件に成立している世界があった。彼はいつも呼吸を止めて、その場面を読むようにする。そうする方がその世界により入りこめるからだ。自分が今吸いこんでいるのは東京の空気ではなく、見渡すかぎりの草原を流れる空気なのだ、そんなふうに思うことができた。
 だがその夜に限っては、草原の空気をうまく吸いこむことができなかった。文字の上を目線がつるつる滑っていくだけで、頭の中には何も入ってこない。集中しようとしても、いつのまにか他のことを考えている。彼はときどき窓の外に目をやった。改札口から会社帰りの人々が溢れでてきて、目の前を次々と通り過ぎていく。意味もなく人数を数えてみる。腕時計に目をやった。店に入ってからまだ十分しか経っていない。彼はやはり苛立っていた。なぜ苛立たなければならない? たいしたことじゃないじゃないか。あの男と自分とは何の関係もないんだ。あんな会社と自分の人生とは何の関係もないんだ。
 それでも結局、小原はうまく飛ぶことができなかった。いつものように道路の網目を想像していると、ほんの少しばかりは浮くことができたが、それ以上は無理だった。指先を少しでも動かすと、空気が抜けていくようにゆっくりと体が沈んでいく。仕方がないので椅子の上に寝転んだまま、彼はじっと耳を澄ませた。いつもなら聞こえてくるはずの楠の声も、その夜は何も語りかけてこない。ただ風が何も震わせることなく通り過ぎていくだけだった。
 やがて暗闇から伸びる手が埃をはらうように小原の肩を叩いた。彼は起き上がり、片腕を相手のいる方に伸ばして、入り口のドアまで連れ戻してもらうのを待った。そのとき彼は無性に誰かと話をしたくなった。相手は誰でもよかったし、内容は何でもよかった。とにかく全身の力を抜いて、意味のない言葉を交わしたくなった。ふと、目の前にいるはずの人物に話しかけてみようかと思った。もしかしたら何か言葉を返してくれるかもしれない。しかしその気配を察したかのように、暗闇の中の手はいっこうに小原の手を掴もうとしなかった。
 どこか気まずい緊張感が生まれた。そこはそんな場所ではなかった。話したいときに話せる相手がいるような場所ではなかった。いや、違うな、小原は思いなおした。そもそも自分には話したいときに話せるような相手などどこにもいないじゃないか。彼が話す意志を失ったのがわかると、暗闇の手はいつものように彼の手を柔らかく掬いあげた。
 灰色の部屋に戻ると、小原は靴を履き、コートを着て、ショルダーバッグを肩にかけた。まだ完全には体調が戻っておらず、頭の中がぼんやりしていた。だが外に続くドアのノブに触れた瞬間、ある光景が頭の中をよぎった。それは改札口から出てくる人々の姿だった。コーヒーショップの窓際の席に坐って、目の前を流れるいくつもの顔をぼんやり眺めていたときだ。確かその中に赤いマフラーを巻いた男の姿があった。男は帰宅する人波の中を逆流し、切符を買って、自動改札を通っていった。小原の位置からはほとんど後ろ姿しか見えなかったが、それでもどこか見覚えのある背格好だった。あれは赤木だったのかもしれない、小原はそう思った。
 螺旋階段の上はすぐにでも雨が降り出しそうな気配だった。住宅街を抜けて、小原は駅前に着いた。コーヒーショップがある方に目をやってみる。彼は何か嫌な予感を覚えた。もしかしたら赤木も部屋を訪れているのかもしれない、あるいは自分が部屋を訪れていることをすでに知っているのかもしれない。

 目が覚めると、寝汗でシャツがぐっしょりと濡れていた。ベッドから出ると寒気がした。もうそれ以上眠れる気はしなかった。窓の外からトタン屋根を叩く雨音が聞こえてくる。小原は新しいシャツに着替えて、熱いコーヒーを入れると、カーテンを少し開けた。激しく降りそそぐ雨に街灯の光が反射している。三時間後にはこの雨に打たれながら、いつものように連中のいる会社にむかうことになる、そして夕方までエアコンの生ぬるい風に吹かれ続けることになる。いずれ訪れる現実を打ち払うかのように、彼は勢いよくカーテンを閉めた。
 ベッドの上に座り、壁にもたれて、地図のページをめくることにした。もうずいぶんと赤線が引かれていた。特に皇居周辺の道路は歩き尽くされていた。小原は目を閉じて、それまで歩いてきた道を思い出そうとした。だが彼が思い出せるのは、現実に即したとおりに正しく繋がった道ではなかった。頭の中で渋谷の片隅にある路地を進んでいると、いつのまにか赤坂の太い幹線道路に繋がっていた。皇居のまわりのランニングコースを曲がると、新宿のすえた臭いが漂う雑踏に紛れこんでいた。そして気がつくと自宅の周辺の路地をさまよっていたりした。まるでテレビのチャンネルが何の脈絡もなく次々に変わっていくみたいだった。
 夜が明けても雨は止まなかった。汲子からのメールに気づいたのは、天気を調べようとパワーブックを立ち上げたときだった。電車の時間が迫っていたので、小原はそれを携帯電話に転送して、電車の中で読むことにした。

 なぜあなたにこんなにもメールを送り続けてきたのか
 最近そのことを考えます。
 以前よりもずいぶん多くのことをあなたに書き続けてきました。
 まるで今のほうが、ほんとに付き合っているような気がします。
 あなたとは実際に顔を合わせて話をするよりも
 こんなふうなやりとりのほうが良かったのかもしれません。
 もしかしたらこっちのほうが長続きしたのかもしれない
 というのはひどい言い方ですね。
 もちろん、あなただけのことを言っているわけではありません。
 わたしはわたしで問題を抱えていました。
 わたしの問題。それがいったいどんなもので、いったいどこにあるものなのか。
 わたしはそのことからずっと顔を背けてきたような気がします。
 何も知らないとかぶりを振れる場所に逃げて
 何も知らないふりをする自分になりたかったんだと思います。
 でも結局、兄は母を刺してしまいました。
 兄は手にした包丁で母の背中を刺したのです。
 もしそこにわたしがいたなら、そんなことが起こらずにすんだのかもしれません。
 少なくともそれほどひどいことは起こらなかったでしょう。
 母は今でも集中治療室に入っていて、兄は逃亡を続けています。
 何回か母の様子を見にいきましたが、まだ話せる状態ではありませんでした。
 警察から事情を訊かれました。でも何も話せることはありませんでした。
 彼ら二人のことについて、いつのまにかわたしは何も知らなくなっていたのです。
 今日、新幹線で神戸に帰ります。
 今の部屋を引きはらって、母と兄が住んでいたアパートに住むことにします。
 地震からもう十年近くが経ちました。
 神戸の町はすっかりきれいになって、落ち着きを取り戻しています。
 でも、わたしはずっと揺さぶられ続けてきました。
 いくら神戸から遠く離れても、いくら長い時間が流れても
 あのときの揺さぶりはずっと体の中に残っています。
 それはときどき泣き出してしまうほどわたしを震わせます。
 わたしをずっと震わせているもの。たぶんそれがわたしの問題です。
 これからは肉体的にも精神的にも辛い生活になると思います。
 そこには電動自転車に乗っているような自動的な生活はないでしょう。
 いつ崩れ落ちるかわからない地面の上に
 自分の足で立っていかなければいけません。
 ねえ
 あなたの大地が崩れ落ちたことはありますか?
 大地が激しく揺れ動くとき、
 わたしたちは初めてその力を知ることができるのだと思います。
 あなたはいつも、何があっても涼しいような顔をしていました。
 でも、きっと心の奥底では、
 何かが起こってくれることをずっと待っていたんじゃないかしら。
 最近そんなふうに思えてならないのです。
 さようなら。
 これが最後のメールになります。

12

 地図を見ていると、新宿区でまだ歩いていない地帯があることに小原は気づいた。新宿御苑の中だけがまだ赤く塗られていなかった。シャワーに入り、髭を剃って、できるだけ皺の寄っていないシャツに着替えると、小田急電車で新宿にむかった。通勤ラッシュ名残はまだ残っていたが、彼にはすでに関係のないものだった。
 結局、自主退職という名目で小原は会社を辞めることになった。会社側にとっても、小原にとってもその方が望ましい形だった。話し合いの中で社長は減給を提示した。元々業績が伸び悩んでいた上にこのあいだのミスの痛手が重なって、経費を大幅に削減していく必要がある。うちみたいな零細企業は常に不安定な状態だっていう認識は当然持っているよね、社長は隣のチーフとちらちら目を合わせながら話した。社長が口にした減給額は、それまでの半分にも満たないものだった。それが彼らの追いつめ方だった。到底生活できないような額でそれまで以上の仕事量をどんどん詰めこんでいくのだ。小原は社長室を出ると、コンビニに行って便箋を買い、三分で退職願を書いて、再び社長室に入っていった。社長室から出てくると、机の上から彼がいた形跡をすべて片づけて、早々と会社から出ていった。誰も何も声をかけてこなかった。声をかけられても答えるつもりはなかった。
 新宿御苑の桜の花はどこにも残っていなかった。入園客はまばらで、鳩たちがつまらなそうにうろうろ歩いているだけだ。雲一つない空にヘリコプターの音が響いている。芝生の上では外国人の親子がフリスビーを投げ合っていた。彼らから少し離れたベンチに小原は腰を下ろし、売店でいちばん安かったサンドウィッチの箱を開けた。ただハムときゅうりが挟まれているだけで、全然うまそうには見えなかった。一口食べてみると、やはりうまくなかった。鳩の餌でもついばんでいるみたいだった。
 外国人の息子が放り投げたフリスビーが噴水の中に落ちてしまった。父親が縁石の上に膝をついて、木の枝で必死に拾い上げようとしている。小原は汲子のことを思い出していた。汲子からメールが送られてくることはもうなかったし、小原から送っても何の返事も返ってこなかった。一度電話をかけてみたがやはり何の応答もなかった。図書館で過去の新聞を調べたり、インターネットのニュースサイトをさかのぼったりした。だがいくら探しても、神戸で息子が母親に重傷を負わせたというような記事はどこにも載っていなかった。
 汲子が東京からいなくなった。一ヵ月前のことだ。しかし小原にとってそのことは何年も前に終わっていて、すでに土が被せられたことのように思えた。汲子はずっと前から神戸に移り住んでいて、すでに誰かと幸せに暮らしているんじゃないかと思えることもあった。それは楠の死を知ったときとどこか似ている違和感だった。彼ら二人の残した現実はまったく現実らしくない現実としてふわふわと浮かんでいた。
 旅に行くことを考えた。楠が小説の舞台に選んだ北海道でもいいし、汲子が帰っていった神戸でもいい。とにかく東京から遠く離れた場所に行ってみたいと思った。だがそれは無理な計画だった。彼には金がなかった。預金通帳に印字されている金額は決して多くなく、どれだけ切りつめても半年経てば底をついてしまうことは明らかだった。誰が考えても、昼間から公園のベンチで不味いサンドウィッチを食べるより、職業安定所で次の仕事を探す方が賢明な選択だった。きっと自分は賢明な人間ではないのだろうと小原は思った。会社を辞めたら、もっと自由な気持ちになれるんじゃないかと想像していた。いろんな関わりあいから解き放たれて、どこでも好きな場所に行けるだろうと思っていた。だが彼の前に現れたのは自由ではなく金の問題だった。人々を自由という気分にさせている金のことだ。金がなければどんな小さな翼も羽ばたきはしない。小原に残っているのは薄っぺらな預金通帳だけだ。それも刻々と失われ続けている。たとえ貯金をすべて引き出したとしても、彼にはむかうべき場所などどこにもなかった。彼はただ毎日地図を開いて、目についた道を辿っているだけなのだ。しかしそれでも、何事もなかったように頭を切り替えて、新しい仕事を探しにいこうという気にはどうしてもなれなかった。
――あなたは大地が崩壊するのを待っているんでしょう?
 外国人の男の子がじっと彼を見ている。柔らかそうになびく金色の髪が印象的だ。小原は男の子の青い目をしばらく見つめた。そしてサンドウィッチをひときれ手に取り、男の子にむかって差し出してみた。だが男の子はそんなことに引っかかる子供ではなかった。彼は毎朝もっとうまいサンドウィッチを食べている子供だった。平日に父親とフリスビーで遊べるような生活を送っている子供だった。彼はすぐにでも逃げられるような距離をとりながら、珍しい動物でも発見したように小原のことを観察していた。
 やっとのことでフリスビーを拾い上げた父親が息子のもとに近づいてきた。怪訝そうな目で小原をじろじろと見まわすと、息子の手を引っぱって足早に立ち去ろうとした。小原は手にしたサンドウィッチを地面に捨てた。待っていたかのように鳩たちが一斉にサンドウィッチに群がってきた。鳩の大群を見て踵を返そうとする息子。それを力強く制止した父親が小原にむかって何かを言った。鳩たちの羽ばたきで何を言ったのかは聞きとれない。ただ「ポリス」という単語が聞こえた。小原は箱に残っていたサンドウィッチを鳩たちの中心にむかって投げ捨てた。混乱した鳩の姿を見下ろしていると、ふと大声で笑ってみたい衝動に駆られた。かつて楠がサラリーマンにむかって突然笑いだした姿を彼は思い出していた。

「草刈男が干草の上で眠るようにおやすみなさい」
 いつもの穏やかな調子でその台詞を残すと、女は暗闇の中に消えていった。小原にとって女はいつからか本当の女ではなくなっていた。脱ぎ捨てられた着ぐるみのように女というただの概念に変わってしまっていた。いや、違うなと彼は思った。自分が女というイメージを勝手に作りあげていただけだ。最初にこの部屋に入ったときから何かが女という役割をとっているにすぎないのだ。
 小原の体と地面との距離は離れていく一方だった。彼は部屋を訪れるたびに飛行の高さを上げていった。重力と完全に縁を切る方法をおぼえ、闇の中を自由に動き回ることができるようになった。ただ一つ、奇妙なことがあった。小原がどれだけ体を高く浮き上がらせても、天井に突きあたることはなかった。まるで超高層ビルのエレベーターのように彼の上昇を妨げようとするものが何もないのだ。それでも終了の時間がくると、誰かの手が彼の肩を叩いて合図をする。小原にはその仕組みがよくわからなかった。もしかすると自分はそれほど高く飛んでいないのかもしれない、ただ高く飛んでいると思いこんでいるだけなのかもしれない。しかしたしかに体が浮き上がり続けている感覚はあったし、地面に着地するときにはかなりの時間を要した。自分が本当はどのあたりを飛んでいるのか、暗闇の中では何も知る術がなかった。
 飛んでいるあいだ、楠はいつのまにか小原のそばまで近づいていて、親しげに話しかけてきていた。内容はいつも同じ、小説や映画についてだった。それらはすべて学生時代に話されていたことだったし、部屋の中でも繰り返し話されてきたことだった。だがそれでも楠は途中でやめることなく、はじめて出てきた話題のように熱心に自分の意見を話していた。
 楠があらわれない日もあった。そんなときは汲子があらわれた。小原は自宅のパワーブックにそのことも書いていた。汲子はいつも何かを組み立てていた。積み木のような固く四角いものを手にして、縦にしたり横にしたりしながら慎重にそれらを積み上げていた。もちろん彼女の姿が見えたというわけではない。ただ小原にはそんなふうに感じられたというだけのことだ。汲子はいつもその作業に集中していた。小原も黙って彼女の作業を眺めていた。だがいつも結局、彼女のつくろうとしているものは完成することがなかった。ただ音もなく崩れ落ちてしまうだけだった。空中に浮かびながら、そういうものを積み上げようとすること自体に無理があるし、風が吹けばいとも簡単に吹き飛ばされてしまう。小原は汲子の手を掴もうと腕を伸ばした。しかしもちろん彼の指先は何にも触れることはない。
「……
――仕方ない。ここじゃ無理や――闇にむかって私は言う。
――そうやね。崩れるばっかり
――いつからここに?
――そんなんわからない。あなたは気づいてなかったの?
――気づけへんかったな
――ほんまに?
――さあ。わからん
――あの人のことは?
――あの人?
――友達
――楠のことか。あいつはだいぶ前からいたな。最近はあんまり出てけえへんけど
――あの人、もうすぐいなくなるわ
――いなくなる?
――死んでしまうの
――まさか
――ほんまよ。今だって殺されかけてる
――そんなことないよ
――わたしはそう思うわ
――だってあいつはもう
――知ってる。でも、あの人はこの部屋で殺されるのよ
――殺されるって、いったい誰に
――あなたのまわりにいた人。たぶん、あなたのすぐ近くにいた人。かわいそう。とってもかわいそう。あなたの友達はあなたのことが好きやったのよ。きっとあなたが思ってた以上に。それやのにこんな真っ暗な場所で殺されるなんて。

 汲子は泣いていた。空中で膝を抱え、肩を震わせながら涙を流している彼女の姿を私ははっきり感じとることができた。汲子はいつまでも泣いていた。まるで他の誰かのぶんまで余計に涙を流しているみたいに……」

 小原のコンピューターを通してサーバーにアクセスし、データを書き換えた者。そういうことができるのはたぶん赤木ぐらいだろうと小原は考えていた。きっと隣で仕事をしているふりをして、自分に気づかれないようにコンピューターに侵入していたのだ。もしそうだとしたら、ホモの噂を流したのも赤木に違いなかった。あの男は自分を追いやるために、あらゆる伏線を張っておいて、最後にチーフの耳元で自分の名前を囁いたのだ。だがいったい目的は何なのか、そんなことをする意味は何なのか、小原にはわからなかった。ただ赤木の言動を一つ一つ思い返していると、前もって入念に計画されていたことだけは間違いないようだった。
 もしかするとあの男は頭が狂っているのかもしれない、小原はそう思って、十日ほど続けて赤木を尾行したことがあった。夜、赤木が会社から出てくると、見失わない程度の距離をとりながら後をつけていくことにした。別に赤木を尾行したところで自分を貶めた証拠を掴めるとは思っていなかった。ただ、赤木という男の素性がどんなものなのかを見てみたかった。赤木の自宅は川崎の高層マンションの最上階にあったが、その部屋にまっすぐ帰っていくことはなかった。いつも途中のCDショップで視聴したり、マッサージ店に寄ったり、モデルガンなどを扱っているミリタリーショップで店長と話しこんだりしてした。待ち合わせをしていた友人たちと居酒屋に入っていったこともあった。赤木は気さくな態度で友人たちと大声で笑い合っていた。何も知らない者の目には、明るく屈託のない青年に見えることだろう。頭が狂っているのは尾行をしている自分の方かもしれないな、小原はそう思った。
 ある夜、赤木はいつもと違う駅で降りた。地下道を進んでいき、別の路線に乗り換えた。電車が渋谷に着くと、ハチ公前の人だかりをすり抜けて、東急電車のホームにむかった。それは小原がよく知っているホームだった。赤木が電車に乗りこんだのを見届けると、小原は隣の車両に乗り、乗客をかきわけて赤木の姿を確認できる位置に立った。赤木は吊り革を持ち、イヤホンで音楽を聴きながら、文庫本を読んでいた。ときどきカーブで車両が揺れたり、急ブレーキで人の塊が押し寄せてきたりした。しかし赤木は表情一つ変えなかった。まるで新しい靴の履き心地を確かめているような落ち着いた表情で、文庫本のページを淡々とめくっていた。
 やはり世田谷の駅で赤木は電車を降りた。改札を抜けると、何の迷いもなく住宅街に伸びる道を進んでいった。帰路につく人々が目の前を行き交っていたが、小原は赤木の背中を見失わずにいた。彼がいつも通い慣れている道を赤木も進み、いつも曲がっている角を赤木も曲がっていった。やがてブルーヒルズを目の前にすると、まるでレンタルビデオ店にでも立ち寄るような軽い足取りで赤木は地下への螺旋階段を下っていった。腕時計の針はちょうど七時を指している。
 やはり私が部屋を訪れていることをあの男は知っていたのだろう、冷たいコンクリートの壁にもたれながら小原はそう確信した。私が今こうして後をつけてきたように、赤木は私の後をつけてきたことがあるのだろう。いや、それだけじゃないかもしれない。私が部屋を訪れるずっと前から、あの男は私の生活を物陰から観察してきたのかもしれない。もちろんそれは小原の想像で、現実的な証拠は何もなかった。しかしそういうふうに考えると、赤木が小原に対して接していたときの妙にわざとらしい態度や、会社を辞めさせるまでに小原を追いつめた計画が、ある一つの感情に貫かれているように彼には思われた。それは憎しみだった。赤木は自分を憎んでいる。あるいは自分のような人間を憎んでいる。その感情は激しく、生々しく、蛇のように小原の心臓に絡みついてくる。彼は街灯に照らされたブルーヒルズを見つめた。その地下では、すべてから解き放たれた赤木が気持ちよさそうに空中を飛んでいる。やはりそうなのだと小原は思った。あの男は私のことを憎み続けてきた、そして同時に、私もあの男のことを憎んでいた。赤木のような人間を私は憎み続けてきた。そして今、あの暗闇で自分と同じように飛んでいる赤木のことが憎くてたまらない。そこは私のための場所だ。私が自由であり続けるための場所なのだ。それなのになぜあの男が今そこで飛んでいるのか。
 そのとき何かが小原の唇を濡らした。雨かと思い、指先で拭ってみた。それは雨水ではなく、血だった。鼻孔から赤黒い血がぽたぽたと流れ落ちている。こめかみの奥が痛みはじめ、目の前の景色がぐらりと歪んだ。小原は手で鼻を押さえ、その場にうずくまった。白いシャツの胸元が汚れている。小学生の頃にバスケットボールが顔面に当たったとき以来鼻血を出したことなどなかった。気持ちを落ち着けようと、彼は地図の赤い交差を思い浮かべようとした。いつかすれ違ったドーベルマンを連れた男が遠くからこちらを見ている。もしかしたらまた警官に声をかけられるかもしれない。小原は地面に手をつき、なんとかして立ち上がろうとした。ネジのはずれた機械のように膝が震えている。
 やはり汲子の言葉のとおりだと小原は思った。たしかにこの足元の大地が崩壊することを自分はずっと待っていた。そしてたぶん今それが実際に起ころうとしている。小原は手の甲で鼻のまわりを拭い、喉の奥にたまった血の塊を路上に吐きすてた。そして覚束ない足取りで駅にむかった。姿の見えないドーベルマンが夜の闇にむかって何度も吠え続けている。

 赤木がはじめて私たちの部屋を訪れたのは五年前である。ある夜、何時間も違法なハッキングを楽しんでいる最中に、彼は偶然私たちのサイトを発見した。「空を飛ぶ」ことなど彼は頭から信じていなかったし、どうせ頭のおかしな集団がやっていることだろうというぐらいにしか思っていなかった。だが私たちは赤木剣一郎という男を調べていくうちに、彼が空を飛ぶために必要な素養を充分に持ち合わせている人間だと確信した。最初の日、彼はただ興味本位で私たちの部屋のドアを開けた。しかし二時間後、部屋を出ていくときの彼の表情は固く険しいものに変わっていた。闇は彼の精神を解放し、風は従順な奴隷のように彼の体をどこまでも持ち上げてくれたのだ。それからというもの私たちが指定した日時に合わせて彼は自分のすべての予定を調整し、一度も欠かすことなく部屋を訪れるようになった。彼に与えられたコードは【月島】だった。
 東京文京区にある寺の二人めの子として、赤木剣一郎は生まれた。江戸時代から続く浄土真宗の寺で、住職は世襲によって継がれていた。赤木の父親は三十歳まで証券会社に勤めていたが、その後は住職の地位におさまった。彼は仏教の説く謹直な生活を守り通すようなタイプではなかった。サラリーマン時代に甘い汁を吸った経験もあって、いろいろ便宜を図ってやった檀家から必要以上の金を袖下で受け取ったりしていた。それを元手におこなった投資が成功すると、車を買い替えたり、自宅を改装したり、海外旅行に出かけたりした。見合い結婚だった妻は家事と境内の掃除さえしておけば不自由のない生活を送れることに満足していた。
 赤木の姉は学生時代から活発な娘だった。勉強やスポーツに精を出し、休日はいつも派手な色の服に短いスカートをはいて、友達と一緒に渋谷や池袋に出かけていた。将来はセラピストになることを目指して、大学で臨床心理学を専攻し、上位の成績で卒業した。彼女は人を惹きつける魅力を備えていた。自分の意見を臆することなく発言でき、その上他人の意見にも柔軟に耳を傾けていた。大学の教授たちからは社会に出て華々しく活躍することを期待されていた。
 七つ歳が離れていたこともあって、赤木は小さい頃から姉によく面倒をみられていた。勉強を教えてもらったり、誕生日には必ずプレゼントをもらったりした。二人で一緒に映画を観に行くこともあった。近所からは今どきめずらしい仲の良い姉弟だと褒められた。赤木は姉ほど成績が良くなく、運動神経も抜きん出るほどではなかった。友達も少ない。好きなことといえば、父親に買ってもらったコンピューターにむかって一日中ゲームをしていることぐらいだった。だからといって彼はくよくよと劣等感を持つような子供ではなかった。輝かしい魅力に恵まれている姉の方が特別なだけで、自分はそのあたりにいる普通の少年の一人なのだと思っていた。
 赤木が中学生になると、母親はよく外出するようになった。昼間は生け花や俳句のカルチャースクールに通っていたが、夕食どきもサランラップを被せた皿をテーブルの上に用意して、家を空けることが多くなった。そんなとき赤木は自分の部屋に夕食を運んで、コントローラを握りしめながら一人で腹を満たした。姉は大学卒業を控えて、研究やアルバイトに忙しかったし、父親は檀家との付き合いで家族と一緒に食卓を囲むことは滅多になかった。赤木はネットワークゲーム上で見ず知らずの相手が操作している戦闘機を夢中になって撃ち落としていた。その腕前はソフトの開発者並みに見事なもので、彼は一流パイロットの気分に浸っていた。一方で彼はすでに気づいていた。両親が二人とも外に愛人を持っていて、家の中ではただ仮の役目を果たしているだけのことを。父親がいろんなものを自分に買い与えるのも、母親が手のこんだ料理をつくるのも赤木にとっては薄っぺらな猿芝居に見えた。そんな面倒くさいことを忘れることができるのは、ドットで描かれた戦闘機が燃え落ちていくのを見ているときだけだった。
 あるとき赤木はそのことを姉に話してみたことがあった。両親のおこないに対して姉がどんなふうに思うか聞いてみたかった。
「ああ、知ってたんだ。剣ちゃんも」姉はバスタオルで髪の毛を拭きながら言った。「わかるよね、もう剣ちゃんも中学生なんだから。あの二人だって普通の人なんだし、そういうこともあるさ。毎日毎日朝から晩まで顏を突き合わせてるんだから、たまには外に出たくなるときぐらいね。まあパパの方はかなり前からの常習者だけどね。もしうちが貧乏な家だったら私も困るし、言うことはきっちり言うよ。でも経済的にかなりの余裕はあるみたいだし、今のところ二人とも自分の小遣いの範囲内で楽しんでるだけだから、別にいいんじゃない。ただ、私はそんなこと絶対しないけどね。夫婦揃って不倫なんてありえないな。あ、そうだ、来年結婚するんだよ、私。一つ上の先輩でね、製薬会社に入った人。今度うちに連れてくるよ。まあ、剣ちゃんは頭のいい子だからわかると思うけど、不倫してるからって、パパややママに素っ気ない態度とっちゃだめよ。気づいてないふりして、仲良くしていかなくちゃ。なんだかんだ言っても結局うまいことやっていくしかないんだから。いずれはこの寺を継ぐ身なんだし、しっかりしてもらわないと、私もおちおち嫁にいけないわよ。頼むわね。ははは」
 一週間後、姉は恋人を連れてきた。木みたいに痩せた男で、青白い顔色をしていた。まさに薬がないと生きていけないような風貌だった。男の勤めている会社が東証一部上場企業だと聞くと、父親と母親は笑顔を保つことを忘れずに、ぜひとも仲の良い家庭を築いていってほしいということを飽きるほど口にした。そして二人で顔を見合わせては頷き合っていた。
 その夜、赤木はベッドの中で、壁を通して聞こえてくる姉と男の声を聞いた。男は低く小さな声で卑猥な言葉を呟き続け、姉は男の名前を口にしては短い喘ぎ声を上げていた。スプリングの軋む生々しい響きを耳にしていると、やがて赤木は自らの手で射精することを抑えられなくなった。
 両親と三人だけの生活になっても、赤木は大人しく毎日を過ごしていた。小遣いをせびることもなく、母親の勧める予備校にも通い、高校の試験では中の上ぐらいの成績をとり、休日には寺の仕事も手伝っていた。両親はあいかわらず不倫を続けていて、二人が会話を交わすことはほとんどなくなっていたが、赤木に対してはいつも優しい口調で話しかけていた。赤木も何も知らない息子として明るく話しかけることにしていた。ただ、真夜中になると赤木はこっそり外出した。ポケットにオイルライターを忍ばせて、足音が響かないようにゴム底の靴を履き、マウンテンバイクで夜の街へとむかった。彼が選んだのは会社や店舗の多い千代田区や新宿区だった。そのあたりの街角にはその日にまとめられたごみ袋が大量に積み重ねられている。彼の目的はその端っこに火をつけることだった。大体月に一度ぐらいのペース。警戒が強められると、半年ぐらいは出かけない。家に帰っていく途中、消防車のサイレンが聞こえてくると、背筋がぞくぞく震えるのを感じ、ペダルを漕ぐスピードを速めた。
 高校卒業を間近に控えて、赤木はコンピューターグラフィックの専門学校に進むことを決めた。息子が大学に進学しないことに両親は困惑した。息子には有名大学に合格できるぐらいの学力は充分備わっていた。彼らの目論見では大学で人間関係を広げさせ、就職して一般社会を何年か経験させてから、住職になるための研鑽を積ませるつもりだった。いずれ寺は継ぐ、と赤木は言った。専門学校を卒業したら、仏道に入るための修行を必ずはじめる。でもその前に二年間だけ自分の好きなことをさせてくれ。今まで自分が夢中になれたことに一度でいいから精一杯打ちこんでみたいんだ。お願いします。それまで反抗期らしい反抗期もなかった息子の真摯な態度を考えると、両親は認めざるをえなかった。
 だが赤木には寺を継ぐ意志などほんの少しもなかった。寺がどうなろうと自分の知ったことではなかった。高い入学料を支払った専門学校の授業にもろくに出席しなかった。彼はすでに企業でも通用するような知識を独学で習得しており、退屈な講義を聞いているよりはプログラミング系のアルバイトで実務経験を積み、金を稼ぐほうがはるかに合理的だった。二年後、彼は貯めた金でワンルームの敷金を払い、軽トラックを借りて自分の荷物を運び入れた。もう二度と家に帰るつもりはなかったし、正確な住所も両親には伝えなかった。もしあの二人と同じ屋根の下で暮らしていくのなら、いずれ寺ごと燃やすことになるだろうと彼は思った。

13

 その部屋の住人だけが行方不明だということに、警察は疑いを持っていた。ごみ置き場から出火したと思われる炎は、五階建てワンルームマンションの三階までを真っ黒に焦がした。プラスチックが溶けるような臭いに気づいた者が非常ベルを押し、真夜中だったにもかかわらず住人のほとんどが若い独身者だったため、全員速やかに避難することができた。風の強い夜だったが、狭い道路にひしめき合った三台の消防車がなんとか延焼を防ぎ、怪我人が出ることもなかった。ただ、三階にいるはずの小原薫の姿だけが見当たらなかった。彼の部屋にあったものは何もかもが燃え尽きていた。壁紙はどろりと溶け落ち、ベッドの脚から黒い木屑がぼろぼろ崩れ、重なり落ちた本や雑誌はすべて灰になっていた。年代物のパワーブックは有害ガスを発生させるだけの黒い板に変わり果てた。まるで戦争記念館にでも展示されているような崩壊ぶりだった。警察は小原の身辺を調べた。彼が無職で、夜になると外出していく姿を何度も目撃されており、両隣の住人からは不審がられていたことはすぐにわかった。
 マンションが燃えていく様子を赤木は高台から眺めていた。割れた窓ガラスから黒煙が立ちのぼり、細かい灰が虫のように空中を飛び交っている。人々が続々と集まりだしているのを見ていると、マウンテンバイクのハンドルを握る力が強くなった。小原は死んだだろうか。いや、たぶんうまく逃げ出しただろう。だが赤木にとってはどちらでもよかった。ただ単純に小原の住んでいる部屋を燃やしたかっただけなのだ。
 自分と同じように小原が部屋に通っていることを知ってから、赤木は彼のことを疎ましい存在と思うようになった。特別なのは自分だけだ、飛べるのは自分だけだと思っていたのが、小原の登場によって裏切られた気分だった。気持ちよさそうに空中に浮かんでいる小原の姿を想像すると、強い嫉妬を覚えた。彼はそもそも小原のようなタイプが気にいらなかった。いつだって中立的な立場を取ろうとして、自分の意見をはっきり打ち出そうとしない。口にするのは当たり障りのないことだけで、腹の底では何を考えているかわからない。まわりを気にしながら、あくまで自分のペースを守ろうとする。毎日そんな人間の隣に坐っていると、なぜか両親と住んでいたときのことが思い出された。まわりを透明なガラスに囲まれて、自分が誰にも相手にされない人間になってしまったような気がして、赤木は苛立ちを抑えるのに必死だった。ガラスの壁を打ち壊して小原を徐々に追いつめていくこと、いつからかその計画を徐々に組み立てていった。
 赤木はマウンテンバイクにまたがり、新宿方面へとペダルを漕ぎだした。遠くではいくつものビルやマンションが小さな窓明かりを灯らせている。もしかしたらと赤木は目を細めた。明かりの灯っていない部屋では誰かが空中を飛んでいるのかもしれない。あそこの窓のすぐ隣ではそんなことがおこなわれているかもしれない。でも俺は違う。俺は誰よりも高く飛べる。俺は誰よりも高く飛べる資格を持つ人間だ。ぐんぐんとスピードを上げながら、マウンテンバイクは坂を下っていった。

 赤木にとって飛ぶことは、人生に開けられた秘密の深い穴の中に入っていくことだった。彼はその中でオリジナルの世界を構築することができた。その世界を内に持つことで彼は現実にうまく馴染むことができたし、会社の人間とも問題なく付き合うことができた。いつからか飛ぶことは彼の人生にとって不可欠な行為になっていった。だが問題を起こしたのは彼自身だった。彼は小原のマンションに火をつけてしまった。そのことがあってからというもの赤木は二度と飛ぶことができなくなった。なぜなら彼が通っていた世田谷の部屋を私たちは閉ざしてしまったからだ。
 警察はあいかわらず小原の行方を追っていた。彼には放火の容疑がかけられていた。だが一方で、放火現場に落ちていた小さなフィギュアが捜査員の目にとまった。それは赤木が沖縄旅行の土産としていろんな人間に配っていたものだった。その証拠品を糸口に、警察が赤木のもとを訪れるまでの時間はそう長くかからないはずだ。ただ私たちにしてみれば、逮捕されるのが赤木であろうと小原であろうと大きな違いはなかった。私たちが即座に実行しなければいけないことは、逮捕者から話を聞いた警察が事情を調べにくる前に、部屋を引き払ってしまうことだった。もちろん警察の中にも部屋を利用している者は何人もいる。だが私たちの方がむこう側の眩しい光の中に引きずり出されることは絶対に避けなければいけない。もしそうなったら私たちは完全な暗闇を永遠に失ってしまうことになる。
 警察同様、私たちも小原の行方を追っていた。赤木が彼のマンションにむかった夜、小原が自宅の部屋にいることを私たちは確認していた。彼はシャワーを浴び、歯を磨いた後、パワーブックにむかっていつものように何かを書きとめていた。だがそれからごみ袋につけられた火が建物に燃えうつるまでのあいだに、小原は私たちの前から忽然と姿を消してしまったのだ。そんなことは初めてだった。私たちがユーザーから視点をはずすのは、ユーザーがユーザーとしての資格を失ったとき、あるいはユーザーが死んだときだけだった。それ以外に私たちがユーザーを見失うことなどありえない。何をしようが何を考えようが、ユーザーが私たちの認識の外へ脱出することなど不可能なはずだった。小原の失踪は、私たちに少なからず動揺を与えた。いったい彼がどのようにして私たちの視線をくぐり抜けられたのか、その方法に論理的な推測が立てられないでいた。一つ考えられたのは、それほど遠くへは行けないだろうということだった。なにしろ彼には頼るべき人間も金もない。
 小原は私たちの存在を意識し始めていたかもしれない。私たちの視線を感じ、私たちの影を察知し、私たちの足音に耳を澄ませていたのかもしれない。そしてそれらから逃げ出す方法を見つけ出そうとしていたのかもしれない。
 小原がパワーブックに保存していた文書。火事の直前までのデータを私たちは入手している。マンションが燃えた前日の夜、彼はフォルダの中に一つのファイルを加えていた。ファイル名は〈空を飛ぶための生活法〉だった。
「……いろんな人間が丘B2を訪れては出てきた。一人が駅のほうへ去っていくと、三十分ほど間隔をあけて一人の新しい訪問者がやってくる。朝も夜も関係なかった。新聞配達の自転車が走りまわる時間帯でも、野良猫たちが盛りはじめる真夜中でも、人々は一定の間隔で部屋を訪れていた。年代も性別もばらばらだった。買い物袋を提げた主婦や髪の毛を染めた学生がいれば、中年のサラリーマンやハンチング帽を被った老人もいた。なかに一人、小学生ぐらいの女の子もいた。彼女はランドセルを背負い、習字用具の入った鞄を手にして、まわりの様子を窺っていた。誰にも見られていないことを確認すると、そっと螺旋階段を降りていった。二時間後、彼女は微笑みを浮かべて現れた。どうやらうまく飛べたようだった。
 丘B2に通っている者は予想以上に多かった。それは組織の大きさを意味しているんだろう。彼らは多くの人間を集め、一人ずつ暗闇の中で空中に飛ばしている。もちろん最初からわかっていたことだった。飛んでいるのは自分だけではない。自分もユーザーの一人にすぎないし、あの赤木もその一人にすぎない。飛ぶことを求めている人間はたくさんいるのだ。
 だが何かが腑に落ちない。いったい何のためにそんなことをするのか。私一人のことを考えた場合、そこには理由があった。自分は普段得られないようなものを暗闇の中に求めている。だが、彼らはなぜそんな人間たちを集めているのか。いったい何をしようとしているのか。そこにどんな意味があるのか。そもそも彼らはいったい何者で、どこにいるのか。何をして、どんなふうに生活をしているのか。そんなことを考えながら部屋に出入りする人々を観察していた。今日で一週間になる。
 朝の九時頃だった。一人の男が部屋に入っていった。ベージュ色の軽そうなスーツで、紺色のネクタイを締め、髪を短く切りそろえていた。学生時代にラグビーでもやっていたような体格で、力強い歩き方だった。一瞬見間違ったほど楠によく似ている男だった。男はすぐに螺旋階段を降りて姿を消してしまったが、その体格や歩き方や表情を思い出せば思い出すほど、自分の中にある楠のイメージとぴったり重なっていった。男が部屋から出てきたのは十一時過ぎだった。部屋に入っていく前よりも、覇気のある表情になっている。颯爽と駅にむかっていく男の後ろを私はつけていくことにした。もちろん男が楠とひどく似ていたこともあった。だがそのことよりも、部屋を訪れる人々がいったいどんな生活を送っているのかを見てみたかった。
 男の背中を見失わない程度の距離をとりながら私は歩き始めた。男は改札を抜けると、渋谷方面にむかうホームから電車に乗った。車内にはほとんど乗客がおらず、四月の柔らかな光が差しこんでいた。男は七人掛けの座席のいちばん端に腰を下ろした。反対側には化粧をした二人の老婆がかなり大きな声で話しこんでいた。だが男は別に気にする様子もなかった。鞄の中から取り出したイヤホンを神経質そうに耳に押しこむと、膝の上の鞄の位置を調節し、太い腕を窮屈そうに組んで固く目を閉じた。
 電車は渋谷を通り過ぎ、地下鉄の路線を進んでいった。次第に乗客の数が多くなってきたが、男は目を閉じたまま身動き一つしなかった。だが神保町の駅に近づき、電車が徐々にスピードを落としていくと、男はゆっくりと目を開け、まわりを見回した。ドアが開くと鞄を手にし、背筋を伸ばして大きく息を吸いこんでからホームに降り立った。大勢の人間が行き交うあいだを男は素早く通り抜けていった。まるで行き先までの最短距離を熟知しているかのようだった。地上はちょうど昼飯どきで、外に出てきた会社員たちがいろんな店で買い物をしたり、行列をつくったりしていた。空には雲一つなく、暖かい風が吹いていた。人々はみんなどこか幸せそうに見えた。だが男はそんなことは自分に一切関係がないように水道橋にむかう道をまっすぐ進んでいった。しばらくして脇道に入る角を曲がった。さらに進んで、角をいくつか曲がっていった。道はどんどん細くなっていく。
 男が姿を消した場所は、灰色の長細い雑居ビルだった。隣は半分だけシャッターが閉まっている文房具店、もう片方は車のないコインパーキング。男は慣れた手つきでガラスのドアを開けると、エレベーターに乗りこんでいった。玄関には郵便受けもフロア案内もない。廊下は廃虚のように暗い。
 男が出てくるのをしばらく待つことにした。少し離れたところにある煙草の販売機の前で、携帯電話をいじりながら人を待っているようなふりをした。私はまわりの光景の一つ一つに目をやった。そのあたりは歩いたことがあるはずの場所だった。歩き尽くしたはずの場所だった。地図の上では赤線が何重にも交差しているはずだ。だがいくら見まわしても、そのビルの前の道を通った記憶を思い出すことができなかった。確認してみたかったが、ポケットに地図は入っていなかった。見落としていたのかもしれない。車一台通るのにも苦労しそうな細い道だし、真夜中ならば気づかずに通り過ぎてしまうかもしれない。しかし私はそれまで地図を手にしながら、どんな道も一つ一つ確認しながら通ってきたつもりだった。地図も古いものではなかったし、地図に載っていない路地のような道でも見逃さなかった。それではなぜ見覚えのない道が存在しているのか。存在しないはずの道が目の前に伸びているのか。
 三十分ほど待ったが、男は姿を現さなかった。三十分間、誰一人としてそのビルから出ていく者もいなければ入っていく者もいなかった。私は立ち去ることにした。たぶん男は仕事をしているのだろう。部屋で飛んでいた満足感を秘めながら、何事もなかったようにデスクにむかっているのだ。そう思ってビルに背をむけた。その瞬間、どすんと何かが落ちたような鈍い音がした。反射的に振り返ると、コインパーキングの中で人が倒れていた。まるで放り投げられた人形のように手足がばらばらの方向をむいている。ベージュ色の軽そうなスーツ姿。ちょうどそばを通っていたOL風の女が甲高い叫び声を上げた。通行人が何人か足を止めている。私はそのまま足早に駅にむかった。女の叫び声はまるであの男を死なせたのは私なのだと訴えているように聞こえた。それからどんな道を通って、どの階段を降りて、電車に乗りこんだのかまったく憶えていない。私は取り乱していた。誰かと肩がぶつかったかもしれないし、信号も見ていなかったかもしれない。ただ、ひたすら歩き続けていく背後から、どすんという音が何回も何回も聞こえていた。まるで私のことを追いかけてくるように何人もの人間が次々とビルから飛び降りていた……
 ……もう何日も飯を食っていない。残りの金は五万円をきった。もう家賃も払えない。引っ越しをする金もない。方法は一つしかない。働き出すこと。わかりきっている。無精ひげを剃り、風呂に入り、歯を磨き、アイロンのかかったスーツとシャツを着て、満員電車に乗りこむこと。簡単なことだ。だがこの音は消えてくれるのだろうか。いつまでも耳から離れないこの鈍い音は、現実の世界で働き出すことで消えてくれるのだろうか。たぶん消えないだろう。消えるはずがない。この音は私の脳味噌の奥に焼きつけられたものだ。楠はきっとこれから解き放たれることを望んでいたのだ。だからビルの屋上から飛び降りてしまった。
 そうだ。そもそも最初から楠は私にもう一つの方法を提示していた。この現実で飛んでみせること。いつか大地は崩れて落ちてしまう。その瞬間にできるだけ高く飛びあがること。たとえ飯が食えなくなっても、家賃が払えなくなっても、最後にはできるだけ高く飛ばなければならない……」

 これを書いたときから翌日の火事が起きる未明までの時間、たしかに彼は部屋の中でパワーブックのキーボードを叩き続けていた。
 この文章に信憑性は認められないと私たちは判断している。まず飛び降り自殺したユーザーは今のところ楠しかいない。あるいは飛び降り以外のどんな方法であれ、自殺したユーザーは楠以外に誰一人いない。これは客観的な事実だ。病気や事故で死んだ数人のユーザーを除けば、彼ら・彼女らのほとんどは今でも部屋を訪れている。さらにすべてのユーザーの中に、小原が見かけたような容姿の男は存在していない。部屋に出入りするユーザーを彼が観察し続けていたのは私たちも知っていた。だが〈ベージュ色の軽そうなスーツで、紺色のネクタイを締め、髪を短く切りそろえ〉、〈ラグビーでもやっていたような体格〉の男はユーザーの中にいない。そもそも小原がその男を見かけた時間帯は誰も部屋を利用していないし、それは私たちの記録に残っている。
 彼が書いたことは彼の夢、あるいは妄想にすぎない。ユーザーの中にはときどき小原や楠のように実際の空を飛んでみようと考える者がいる。あるいは他人とうまく話せなくなったり、精神に多少の異常をきたしたりする者もいる。そうなってくると彼ら・彼女らはますます暗闇で飛ぶことを求めるようになる。それでなんとかバランスをとろうとする。そういうパターンになっているのだ。彼ら・彼女らはパターンから決して逸脱することはできない。小原は再び私たちにアクセスしてくるだろうと私たちは予想している。彼は他のユーザーと同じようにこの暗闇を強く求めているのだ。

 小原からのアクセスを待ちながら、私たちは彼が現れそうな場所の監視も続けていた。楠が飛び降りた横浜のビル。その屋上に小原がやってくるのではないかと推測した。そのビルから楠と同じように飛び降りる可能性は否定できない。小原と楠との暗闇での繋がりは現実のそれよりも深く複雑に絡みあっていたものだったし、小原が楠と同じ道を選ぶことは当然考えられることだった。それに小原はもう現実的にゼロの人間だった。仕事も金も友人も女も家もない。残っているのは彼自身だけだった。自殺という方法を選んでも不思議ではない。
 屋上には毎日必ず点検の作業員が姿をみせていた。そして計器をいじったり、数値を紙に書きこんだりしていた。彼は作業中いつも眉間に皺を寄せてぶつぶつと独り言を呟いて、煙草を一本吸うと、あっさりと階段を下りていった。人が飛び降りたような場所でわざわざ景色を楽しみたい者などいなかった。一度、楠の父親があらわれたことがあった。彼は足元に張り巡らされたパイプを慎重に跨ぎながら、息子が飛び降りたと思われる場所まで進んでいった。そしてそこに手に持っていた花束を置くと、鉄柵にもたれて空に浮かんでいる雲をしばらく眺めた。高級なスーツにネクタイをしっかり締めている。彼の会社はあいかわらず景気がよかった。中国製の安価な洋服が売れているおかげで業績は右肩上がりだった。社員数も増え、海外支社も起こそうとしていた。だが彼は引退することを決めていた。以前のような仕事に対する情熱はすっかり失われていた。なぜ息子が死んだのか。なぜこんな遠い横浜のビルから飛び降りなければいけなかったのか。彼には何一つわからなかった。息子の死体を目にしたときも、火葬場で見送ったときも、そしてそれから半年近くが経った今になっても、彼の中にはいつも掴むことのできない空気の固まりが漂っているだけだった。涙が流れたことは一度もない。涙が流れるための何かが完全に欠けていた。彼にできるのは息子の死を現実的なレベルで処理するぐらいだった。
 私たちは一ヵ月間監視を続けたが、結局その場所に小原が現れることはなかった。

 広田汲子に対しての監視も続けていた。最後のメールを送信してから、汲子は小原に何の連絡もしていなかった。だがそれでも、小原が彼女のもとを訪れる可能性はゼロでないと私たちは考えた。
 汲子は神戸に帰った後、通信販売の注文を受ける電話オペレーターの仕事に就いていた。東京で働いていたときよりも給料の額は落ちたが、決まった時間に帰宅できることは彼女にとって重要な条件だった。アパートに帰ると、母親の世話をしなければいけなかったのだ。仕事帰りに買い物をし、夕飯をつくって、母親を風呂に入れ、ベッドに寝かせなければいけない。息子に背中を刺された肉体的な後遺症と精神的なショックで、母親は退院後も一人ではうまく歩けなくなっていた。できるだけ切りつめていたものの、二人で暮らしていくには経済的にかなり苦しかった。貯金を切り崩していくのを避けるため、汲子は週末もスーパーマーケットでレジを打つことにした。
 ときどきアパートに警察が訪れた。変わったことはないか? 兄さんから連絡はないか? 母親の体調はどうだ? いつも彼らは貧乏くじを引いてしまったような疲れた表情を浮かべていた。いいえ、別に、変わったことは何もありません、汲子が答えると、じゃあ何かあったら連絡ください、そう言い残して警察は立ち去った。そちらでは何か進展はありましたか? と汲子が訊ねても、警察は何も答えてくれなかった。すみませんね、捜査上の秘密がありますから、ズボンのポケットに手を突っこみながら彼らはそう言う。あのときも同じだったと思った。地震の後に借金を取り立てにきたヤクザも自分の用件だけを大きな声で言い散らかして去っていった。
 汲子の母親は一日中ベッドの上でテレビを見ていた。汲子が帰ってきてもほとんど何も喋らなかった。頭には白髪が増え、目はくぼみ、口臭がひどくなっていた。とても六十歳には見えないほど老けてしまった母親を目にすると、汲子は互いが別々に暮らしていた時間のことを考えざるをえなかった。東京にいた十年近くの年月が母親をこんなにも変えてしまったのかと思うとやりきれなかった。息子と同年代のタレントや歌手がテレビに出てくると、母親は声もなく泣き出すことがあった。汲子は黙って、母親の背中をさする。ふと母親の口臭が鼻につく。テーブルに出しっぱなしにしていた漬け物のような臭いだ。汲子は何もかもが嫌になってしまう。
 日曜日の昼休み、汲子はスーパーマーケットの店長に呼び出された。事務所に入ると、店長が腕を組んで深刻な表情を浮かべていた。最初彼は言いにくそうにしていたが、やがて汲子が担当していたレジの金が伝票の額とどうしても合わないことを慎重な口調で告げた。なぜか彼は、汲子の兄が母親を刺したことも知っていたし、汲子の家が経済的に苦しいことも知っていた。決して頭から決めつけていないような態度をとりながらも、低く落ち着いた声で汲子に迫っていた。
「一度だけとちゃう。実は今まで何回かあったんや。たしかにたいした額やないけど、そういう問題じゃない。わかるやろ。もちろんいろんな見方ができると思う。なんでいつも君のレジやねんと。なんでそんなにわかりやすいねんと。でもな、こういう職場では従業員同士の関係がいちばん大事やねん。すごくデリケートで、神経を使う部分なんや。君がまだ若くて、綺麗で、肌もつるつるで、せやのに苦労してるっていうのは、ある人たちから見たらあんまりよく思われへん場合もあるんやわ」
 月曜日になっても、汲子の心は空ろだった。モニターにむかい、ヘッドフォンから聞こえてくる客の声に対応しながらも、どこか自分とは別の人間が勝手に話しているみたいだった。窓も何もない真っ白な部屋の中に閉じこめられてしまったみたいで、客がややこしい問い合わせをしてきても、何をどうしたらいいのかうまく判断できないでいた。だからその奇妙な電話を取ったとき、汲子は相手が何も話し出さないことにしばらく気づかなかった。汲子も相手も十数秒間無言の状態でいた。
「もしもし」汲子は我に返って言った。電話だ。モニターが「通話」の赤い文字を光らせている。まわりのオペレーターたちの声がざわざわと耳元に押し寄せてくる。一瞬、なぜ自分がそんなところに坐っているのか思い出せなかった。
「もしもし」自分を現実に結びつけるように彼女はもう一度声を出した。ひどく掠れた声だ。相手は何も言わない。ただの悪戯だろう、汲子はそう思い通話を切断しようとした。
「太股の下に手を入れてみて」
「はい?」
「手を入れてみ」相手は繰り返した。「何もないはずや」
「あの失礼ですが」
「目を閉じて、鼻でゆっくり息を吸いこんでから、しばらく呼吸をとめる。そしたらもっと高く飛べるはずやから」
 電話は切れた。男の声だった。悪戯にしてはやけに神妙なトーンだったなと汲子は思った。そのような類いの電話は日常茶飯事だった。世の中にはものすごく暇な人間がいて、そんな相手をトラブルなくこなしていくことも仕事のうちだった。だが汲子はそのとき、その電話をマニュアルどおりに受け流すことができなかった。男の言ったとおり、彼女の太股の下には何もなかったからだ。片手を椅子の座面に接地させて、恐る恐る左右に動かしてみたが、太股の下にはたしかに二センチほどの空間が生まれていた。隣のオペレーターは汲子の体がほんの少し宙に浮かんでいることにまだ気づいていない。ただ眉間に皺を寄せながら、申し訳ございませんと何度も繰り返している。
 汲子は目を閉じてみる。そして鼻から静かに息を吸いこむ。肺が充分に膨らんだところで呼吸を止める。いくつもの同じデスクが整然と配置されたオペレータールーム。彼女はそこでもう少しだけ高く浮かび上がろうとする。

 警察はあいかわらず汲子の兄、あるいは小原の行方を掴むことができないでいた。そのかわり赤木剣一郎に事情聴取するところまでは辿り着いた。現場に落ちていたフィギュアから赤木の名前が浮かびあがり、さらに彼のクローゼットの中には目撃者の証言にあった赤いマフラーが吊り下がっていた。赤木は断固として犯行を否認した。沖縄でフィギュアを買ったことは認めたが、土産としていろんな人間に配ったものだし、別に自分だけが持っているものではないと反論した。たしかにフィギュアには赤木以外の指紋もついていた。フィギュアを渡した相手の名前を赤木はすべて列挙した。その中にあった小原の名前に警察は反応した。この小原薫という男はいったいどういう人間なのかについて警察は赤木に質問していった。
 汲子に電話をかけた相手が小原なのかどうか、私たちは判断できないでいた。発信場所が札幌駅の東通り北口にある公衆電話であったことはすぐにわかった。受注センターのコンピューターにも記録が残っている。ただ汲子が電話を受けた時間に誰がその公衆電話の前に立っていたかを特定するのはなかなか手間と時間がかかることだった。汲子には男の声に聞き覚えがあった。だが回線状態は良くなく、遠くこもった声だったのではっきり識別することはできなかった。彼女が思い浮かべた男は三人。彼女の兄、彼女の父親、そして小原薫。このうちの誰かが自分に電話をかけてきたのかもしれないと彼女は思った。
 そのうちの一人である汲子の父親は、大阪にある病院のベッドの上にいた。破産の手続きを済ませた後、咽頭癌を患い、長期にわたって入院せざるをえなくなっていた。もうほとんど声を出すことができず、誰かに電話をかけて話ができるような状態ではなかった。日を追うごとに彼の意識は明瞭さを失っていった。彼は離ればなれになった二人の子供のことを思い出していた。だが記憶に残っていたのは、まだ単身赴任をして間もない頃の幼少時の姿だけだった。クリスマスの夜、父親の帰りを心待ちにしていた子供たち。新しく発売された玩具や高級な洋菓子の包装紙を破り開けるときの二人の表情は、今でも彼の中にしっかり焼きついていた。あの二人はいったい今どこにいるのだろう。それぞれ一人の大人として立派に生活しているのだろうか。二人が世の中でたくましく生き続けていくために、父親として与えるべきものを与えられなかった。彼にとってそれが心残りだった。彼はもう一度子供たちに会いたかった。だがもう遅かった。彼はすでに棺桶に片足を突っこんでいた。唯一できることといえば瞼を閉じて、夢のようなものを見ることぐらいだった。
 彼の子供の一人は、その頃新宿歌舞伎町を徘徊していた。銀行のATMから少しずつ貯金を引き出したり、パチンコ屋で日払いのアルバイトをしたりして、なんとか食いつないでいた。寝床はほとんど漫画喫茶だったが、暖かい夜は公園の草むらの中で身を横たえることもあった。包丁を川に投げ捨てて衝動的に新幹線に乗りこんだとき、彼は引き返すことのできない一線を越えてしまったと思った。唇は白く乾燥し、頭の先から足の先までがたがた震えていた。だが歌舞伎町という場所はそんな彼さえも無感覚にしていった。そこには一線も何もない。巨大なローラーで引き伸ばされたようなのっぺりとした暮らしに、彼は次第に溶けこんでいった。母親を刺した理由もどこかで忘れてしまった。しかし、毎日腹を満たすためにはそこから抜け出すことはもうできなかった。その街の中で日銭を稼ぎながら、ぐるぐる回転していく生活しか彼には残されていなかった。
 アスファルトに視線を落としながら、汲子の兄はいくつもの雑居ビルの前を歩いていく。彼が通り過ぎていくその一棟の地下に私たちは新たな部屋を設けていた。かつて世田谷の部屋を訪れていたユーザーたちは私たちからのメールを受け取った後、そこで再び暗闇を飛ぶようになった。場所を選ぶ際の厳密な条件というのは特にない。ただなるべく人目につかず、まわりの風景に同化していて、見過ごしてしまいそうなほど目立たない建物であれば良かった。そういう場所に漂っている空気が静かな風を生み、濃密な影を生み、ユーザーたちを宙に浮かせるのである。
 私たちは小原薫にメールを送らなかった。そもそも彼がメールを受信できるような環境にいるのかどうかはわからない。だが私たちがメールを送らなかったというのは、彼からユーザーとしての資格を剥奪したということだ。つまり私たちは小原の行方を追うことをやめた。同時に赤木に対してもメールを送らなかった。私たちはもう彼ら二人との繋がりを完全に絶ってしまった。もし小原か赤木かのどちらかが逮捕されて、私たちの存在について話し、警察が動き出したとしても、世田谷の部屋はすでにもぬけの殻になっている。管理会社は中身のよくわからない会社が借りていたということしか知らないし、たとえその会社名から様々な記録を調べていったとしても、警察が私たちに辿り着くことは不可能だ。彼らが目にできるのはペーパーカンパニーの羅列だけである。そこには何の実体もない。どこまでも続く合わせ鏡の像に囲まれているようなものだ。警察はやがて捜査を中止するだろう。彼らのような人間には他にしなければいけないことが山のように積み重なっているのだ。誰も私たちを捉えることなどできない。なぜなら私たちはすでにそこに存在していないからだ。

 雨の日だった。歌舞伎町の片隅にある映画館から椅子やテーブルや看板が次々と運び出されていた。前日に閉館してしまった小さな映画館だ。レインコートを着た作業員たちはみな黙々とトラックに荷物を効率的に積みこんでいる。だからといって私たちも彼らと同じように雨に打たれているとは限らない。映画館の前で労働に勤しむ男たちを見下ろせる場所にいるとは限らない。私たちがいるのは、あくまでそこにはいないという場所だからだ。
 その日届いたメールは一通。送信者名には小原薫とあった。メールが送られた場所はすぐに突き止められた。不可解だった。そのメールが送信されたのは、あの真っ黒に焼けてしまった部屋にあったパワーブックからだった。

 このメールはあなたたちを混乱させることができただろうか。
 ほんの少しの混乱でも引き起こせたなら
 私の目論見は成功したことになる。
 私は今、あの部屋にはいない。パワーブックも使っていない。
 もちろんあなたたちはすでに知っているだろう。
 それなのに、あなたたちは私の行方をいまだ掴めないでいる。
 私はそれを知っている。
 あなたたちが歌舞伎町に部屋を移したこともすでに知っている。
 私はそのあたりの道を充分に知り尽くしている。
 そこにどんな店が並び、電信柱がどれぐらいの間隔で立ち、
 どの路地とどの路地が繋がっているのか、
 すべて知り尽くしている。
 それらはすべて私の中で繋がっている。
 あなたたちが知らなくて、私が知っていること。
 赤木が火をつけた部屋の中からどうやって私が抜けだしたのか、
 あなたたちはそれを知りたいと思っている。
 汲子に電話をかけてきた相手についても
 あなたたちは知ることができなかった。
 それはあなたたちの視線が届かない場所だからだ。
 そして、私が今いる場所もそこだ。
 汲子が宙に浮かんだとき、あなたたちはきっと嫌な汗をかいただろう。
 あなたたちにとって、それはあってはならないことだった。
 あなたたちの暗闇で起こることは、
 現実の世界で起こることはない。
 それがあなたたちの前提だからだ。
 私はこう考えている。
 たぶんあのとき、楠は飛べたんだ。
 ほんの一瞬のことだったかもしれない。
 でもあのビルの上で、彼はすべてから自由になることができた。
 私はそう信じている。
 でもあなたたちが地面に叩きつけた。
 あなたたちが彼を地上に引きずり落としたんだ。
 私は今、あなたたちのすぐそばにいる。
 あなたたちの息づかいが聞こえる距離にまで近づいている。
 あなたたちがずっと私を見ていたのと同じように、
 私は今、あなたたちをずっと見ている。
 あなたたちの喉元に冷たいナイフを突きつけることだってできる。
 白く柔らかいものをえぐり出すことだってできる。
 私は警察につかまらない。誰にもつかまらない。
 ただ、あなたたちを一人一人ばらばらに解体して、
 眩しい場所に引きずり出すためにナイフを突きつけている。

 暗闇の中で振り返ってみる。そこには振り返る前と同じ暗闇が広がっている。だが何かが違う。その中に何者かが存在しているのを感じる。何者かがじっとこちらを見つめている。別の暗闇に移動してみる。だがそこにも何者かがいる。一瞬、暗闇の中で何かがきらりと白く光る。やはり何者かが私たちの知らないところに潜んでいる。
 いま、そこにはあるのは沈黙だけだ。永遠を思わせるほどの巨大な沈黙が暗闇をおさえつけている。だが何か一言でも言葉が発せられた瞬間、何者かは素早く私たちにナイフを突き立てるつもりなのだろう。その瞬間がやがて訪れるのを私たちは、そして闇の中の何者かは息を殺して待ち続けている。

(2008年作)

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