日々の生活の中に檸檬
私は本を読むのが好きだ。ハリーポッターシリーズや守り人シリーズなどのファンタジーものから、太宰治などの純文学まであらゆるジャンルを読んできた。その中で今回は、梶井基次郎の「檸檬」という本について書こうと思う。
この短編小説との出会いは、本屋でも図書館でもなく高校の教室だった。不真面目な生徒だった私は国語の授業中に、資料集や教科書の関係ないページを読んで暇を潰していた。資料集や教科書なら誤魔化しがきくからという理由だったが、そんな時に教科書に載っていた檸檬と出会った。文体に惹かれて夢中で読み進め、そのラストに衝撃を受けた。後に授業でその作品が扱われた時は、珍しく真剣に授業を受けたくらいだった。
檸檬は主人公の「私」が京都の街をあてもなくさまよう話だ。その道中で「私」は憂鬱を吹き飛ばしてくれるレモンを1つ購入する。そのあと丸善という店に入るが、「私」はまた憂鬱な気持ちになってしまう。そんな時に思いつきで画集の上にレモンを置く。そしてレモンが爆弾になって、丸善が木っ端微塵になるという想像をしながら、レモンを置いたまま歩いて帰る。そんな内容だ。「私」の想像力とユーモアが詰まったこのラストが、これまで読んだ本の中でもトップクラスに好きだ。私にとっては教科書の中で見つけた檸檬という作品が、国語の憂鬱を吹き飛ばす爆弾だったわけだ。
檸檬に出会う少し前、私はとある写真を撮った。それは道端に放置された卵のパックの写真だった。なぜ撮ったのかハッキリとは思い出せないが、多分珍しい光景だと思ったからだろう。その写真が最近目に入り、ある思いつきで絵を描いてみた。
この写真を撮った時の私はただ物珍しさで写真を撮ったわけだが、後から見た私は卵パックがレモンと同じだったら面白いなと考えた。卵がいくつか割れていたし、誰かの落とし物を親切な人が見えやすい場所に置いたことは想像できる。しかしそれでは面白くない。もしもこの卵パックが誰かにとってのユーモア爆弾だったとしたら、それはとても面白いことだ。その人はユーモアの天才かもしれないし、檸檬という作品を愛している同志かもしれない。そんな妄想をするだけで、何の変哲もない写真は素晴らしい芸術作品になる。少なくともそんな妄想をしている私にとって、あの卵パックはレモンと同じ意味を持っていた。
今回の話はかなりトリッキーな例だが、本は人生を豊かにしてくれると私は信じている。日常を忘れて本を読む時間は幸せだが、本が人生に影響を与える瞬間にはそれ以上の喜びを感じるものだ。また、文章だけで人を感動させたり、影響を与えたりできる作家の人々をことをとても尊敬している。私もそんな文章が書けるようになりたいなと思うと同時に、言葉の選び方には細心の注意を払う必要があると感じている。片思いだとしても、死ぬまで言葉と向き合おうと思う。いつか私の言葉が、誰かにとってのレモンになることを願って。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?