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思考、散らかり、海のように

海が好きだ。私は海と山の間にある田舎の町で育った。家、通学路、いつも近くに海があった。友人と海へ泳ぎに行ったり、釣りに行ったりするのが好きだった。辛い時は海辺で沈む夕日を見て、何度も生きる勇気をもらった。大学からは気軽に海へ行けないが、実家に帰ると毎日のように釣りに出かけている。魚を釣るのも、魚を調理して食べるのも好きだが、正直釣れなくても全く問題ない。ただ海辺で波の音を聞いて過ごす時間が好きだ。

東日本の震災から1年と少し経った夏休み、私は父親と岩手県を訪れた。実家のある関西から車で片道1000キロ以上の長旅だった。住所だけを頼りに、父親の学生時代の友人宅へ向かった。住所が示す場所にはコンクリートでできた家の基礎と、それを覆う草むらだけが残っていた。近くにいる老夫婦に声をかけたところ、その友人の向かいに住んでいたらしい。今はその方々も父親の友人も、仮設住宅で暮らしていると教えてくれた。老夫婦の訛りがきつく、仮設住宅の詳しい場所はわからなかった。他の人に聞いてまわればきっとわかったはずだが、結局その友人とは会わずに帰った。「生きているならそれで良い。」父親の言葉を今でもハッキリと覚えている。

高校生の頃、生きるのに疲れ果てたことがあった。家から抜け出して夜中の海へ出かけた。それは私の知っている海ではなかった。底無しで真っ黒で今にも引き摺り込まれそうな引力があった。怖いという気持ちと、楽になりたいという気持ちの半々だった。結局気づいたら家に帰っていた。どのくらいの時間ぼーっとしていて、どうやって家に帰ったのかハッキリとは覚えていない。都合がいいかもしれないが、多分「まだ」だったのだと思う。その時がくれば、海はきっと迎え入れてくれる、そんなことを思ったりする。

東日本の震災から13年が経った。基礎だけになった家、打ち上げられた大きな船、どこまでも続く海辺の更地、そこに咲くひまわり、10年以上経ってもはっきり覚えている。5年ほど前から3月11日にSNSで震災のことを発信するようになった。直接被害を受けていない人間が発信することについては今でも迷いがある。もしかしたら当事者を傷つけてしまうかもしれない。そこに触れなければ安全だとは思う。しかし、東北で見た景色は忘れられないし、忘れるべきではない。押し付けがましいが、私の周りの人たちにも震災なことを忘れてほしくはない。その気持ちだけで発信を続けている。

昔父親と墓参りに行った時、寺にある慰霊碑の前で、そこに刻まれた名前の中に、祖父の兄の名前があることを教えられた。そこに慰霊碑が建っていることは知っていたが、気にかけたことはなかった。父親曰く、祖父の兄は若くして大型漁船の事故で亡くなったらしい。その話を聞いた時に私は驚いた。祖父は子どもたちが大きくなってから漁師になったということを知っていたからだ。未だに祖父に兄の話や、漁師になった理由を聞いたことはない。

南海トラフ地震が起きて大きな津波が発生したら、私の実家はほぼ確実に無くなるらしい。私が育った田舎の町は大きな被害を受けるだろう。その時私は何を思うのだろうか。こんなことは考えたくないが、もしかすると大切な人がいなくなってしまうかもしれない。その時私は「海が好きだ」と言えるだろうか。すぐには無理だろう。それは今でも容易に想像できる。その先、私の人生が続くとして、海を嫌いなまま死んでいくなんてあり得るのだろうか。全てが起きた先のことは、今は全く想像ができない。

私は海と生きてきたし、海に生かされてきた。そしてこれから先もずっと、そうであってほしいと願っている。これは何も失ったことがない者の綺麗事なのかもしれない。ただ今の私にとってはそれが全てだ。

13年経ったが、事実は無くなったり変わったりしない。全てがあの日から途切れることもない。3月11日は追悼の日であり、忘れてはならない日である。それと同時に誰かの誕生日であり、誰かの特別な日でもある。忘れてはならないが、前に進む必要もある。そのバランス感覚は難しい。きっと第三者が口出しできるものでもない。私は今ある平穏な日々に感謝して、ただ平和を祈ることにしよう。黙祷。

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