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三題噺小説版『珈琲』『歩く』『箱』

落語の三題噺の小説版を友人と遊びました。
【ルール】
☆三つ単語のお題を出して小説を書く
☆私から一題、友人から一題、適当な本を目隠しパラパラ指差しで一題
☆三題はちょい出しでもガッツリ主軸でも可
☆ジャンルはフィクションのみ、ノンフィクションは不可。フィクションであるならミステリーでも純文学でも可。
☆制限時間:一週間




 マナは自分の名前が嫌いだった。『愛』と書くからである。
 マナの母親はシングルマザーであった。父親はわからない。「あの頃はすっごくモテてたから」と宣い、母親自身にも心当たりがあるのかないのかはっきりしなかった。少女のまま歳だけ重ねたような人であり、物心ついた頃からマナは母親より祖母に世話されていた記憶の方が多い。母親は少女の精神がそうさせるのかいつまでも若々しく美しかった。男たちが放っておかず、母親自身もそれを喜んで受け入れていたため、日々遊び呆けていた。遊ぶのに子供は邪魔である。母を恋しがる幼いマナを母親は引っ叩いて蹴っ飛ばしては華々しい夜の街に躍り出ていった。それでも時々思い出したようにマナを可愛がる日があった。そんな日は天国のような心地でマナは母の膝の上で甘えた。
「マナは愛しい愛しいママの宝物よ」
 そう歌うように話す声が綺麗だった。そんな時の母親からは珈琲と煙草の匂いがした。夜を遊んで帰った母親からはアルコールと煙草の匂い。酒の匂いは嫌いで、珈琲の匂いは天国の匂いだと思った。珈琲の匂いの母親の手が優しく揺すり起こしてくれる、そんな目覚めを待っていた。
 マナが中学校に上がる頃、母親は家にほとんど帰ってこなくなった。マナは祖母に預けられていて、その頃はまだ母親が好きだった。同級生のどのお母さんよりも若々しくて美しい、珈琲の優しい匂いのする大好きなママ。もう抱き上げてもらうほど小さくはないけれど、時々自分の作った料理やお菓子を気まぐれに褒めてくれる時、マナはやはり天国の気分だった。
「真実の愛を見つけたの。あの人と結婚して今度こそ幸せになるわ」
 祖母とマナにそう告げて、母親は出ていった。マナが十四歳の頃である。マナは連れていってもらえなかった。マナへの愛は『真実』とやらではなかったらしい。祖母は怒り狂って母親を探し、母親とその交際相手にマナをどうすると迫ったが金持ちらしいその交際相手から手切金とばかりに養育費が振り込まれたのを最後に連絡が取れなくなった。
 マナは呆然と人形のように日々を過ごし、やがて自分は捨てられたことを理解した。

 もうひとつ、珈琲の匂いは青春の頃を思い出す。
 支配的な祖母とその管理下の檻の様な家から、半ば逃げるように入学した専門学校の寮は、マナにとって人生で初めて掴んだ自由であった。自分の生活を自分で決めて生きる。そこに負うべき責任があったとしても、行先を決定できる自由はそれでも得るべき価値のあるものである。放課後何をするか、何を食べるか、何時に眠るのか、誰と話すのか。そんな日々の些細な選択が楽しかった。大人になるって自由に選べるってことなのかもしれないとマナは考えた。
 授業や実習など、校舎でのことで覚えていることは今となっては少ない。楽しくなかったわけでも、辛かったわけでもない。試験や実習はそれなりに大変な思いをしていた気がするが、何故か印象が薄く、どんな教室だったのか、どんな講師がいたのかなどは断片的にしか思い出せなかった。
 覚えているのは寮のことである。こちらはしっかりとベランダやキッチンの細部まで脳裏に思い浮かべることができる。それになんと言っても珈琲の匂い。それを嗅ぐとき、あの日々のあの時間の感情ごと、色鮮やかにマナの脳裏に蘇る。
 寮のキッチンは各階にひとつであり、その階に住む学生が共同で使っていた。夜の寮内は静かだった。昼間のように誰かが歩き回る音や誰かが料理している音、姦しく響くお喋りの声は聞こえない。だが、みんなが寝静まっているという静寂ではなかった。耳を澄ますと、紙の擦る音や音量を落とした音楽、備え付けの古い椅子が小さく軋む音が漏れ聞こえて来る。学期末の時期になるとどの学年も忙しかった。試験勉強や実習後のレポート作成で寮内のほとんどの生徒が夜中まで起きていた。昼間は寮生同士顔を合わせては賑やかに過ごしているが、夜になると寮内の空気はどこか緊張感を纏い、少し張り詰めたようになる。
 そんなときの息抜きにキッチンで珈琲を飲むのがマナの楽しみだった。珈琲が特別好きであったわけではない。夜のキッチンには息抜きに飲み物や軽食を作りに来る学生が他にもいた。そこで会うと昼間とは少し違う顔をして話すのである。いつもは心の奥底に隠しているような生温かくて柔らかいものが垣間見えるようだった。おしゃべりをするために会うのではないから長い時間ではない。お湯を沸かして、食品を温めて、食べて飲み終わるまでの短い時間だった。そこではみんな曖昧で生々しい心を持った『生きている人』に思えた。マナも聴いて、話して、心を見せ合った。それが心地良かった。記憶の中の時間は歪んで、その頃だけがやけに大きく明瞭に覚えている。

 卒業後、管理栄養士の資格を取得し専門学校近くで数年働いた後、マナはそこを退職して別の街に引っ越した。卒業後就職したのは福祉施設であった。そこでは介護士や看護師など他職種と連携をとって業務を行う必要があった。利用者の食事摂取状況や嚥下について話しあい、食事内容を提案して提供してはその結果を再度検討するといった、人と多分に関わる業務が多かった。マナは他人とコミュニケーションをとることを苦手とはしていなかったため特に問題なく働くことができていた。しかしチームワークが求められる業務はマナの精神を酷く疲弊させた。できないことはないが過剰にエネルギーを消費するのである。毎日ぐったりとして帰宅し、仕事や環境に慣れれば楽になるかもしれないと数年耐えてみたが、仕事には慣れても疲労するのは変わりなかった。人と協力して取り組むことは向いていなかったのである。そのため個人業務が多い職場への転職をと、企業の社員食堂の採用を受けた。そこでの業務は福祉施設に比べればチームワークは求められず、ある程度自分のペースで働くことができた。マナの精神は安定を見せた。また、社員食堂を利用する社員たちから直接意見やお礼を言われることも多く、自分の働きに対する率直な評価がもらえるようでマナは気に入っていた。前より合っている気がする、とマナ自身自覚するほどにはその職場は向いていたと言える場所であった。
 退職した福祉施設には学生時代の先輩や同期も数人いた。また専門学校近くの職場を最初の就職先とする学生は多く、引っ越す前の街を歩くと知り合いに会うことは多かった。しかし時間の流れと物理的な距離の離れは関係性を段々と希薄にしていく。意識的に会おうとしなければ会うこともなくなり、そうしていくうちに疎遠になっていくのである。就職して数年、そこから転職してさらに数年。引っ越しもしている。疎遠になってしまった友人ばかりである。寂しいことだとは思う。だが新しく作ってきた今の人間関係や距離感も気に入っている。時が過ぎれば関係性が変わっていくのも自然なのかもしれないとマナは思い始めていた。

 新しい街でマナはお気に入りの喫茶店ができた。そこは古い店でいつも薄暗かった。だがその薄暗さがあの夜の量のキッチンのようでマナは好きだった。それから川のすぐ脇に建っており、窓辺の席に座ると川の流れがよく見えた。幼い頃母と住んでいたアパートがそんな場所だった。珈琲の匂いを感じながら水の流れを見ている時、母を憎む気持ちがすうっと遠くなって、あの天国の気持ちが少しだけ思い出せるのである。また、専門学校は海辺の街にあった。時折海辺まで散歩することあの頃の思い出の中にあった。海と川では流れ方も匂いも違うが、水の近くというのはなぜだかマナを安心させるものだった。
 ある日、一通のメールが届いた。その日も仕事終わりに喫茶店で川を見ていた。専門学校の同期の一人からだった。同窓会をするらしい。楽しかった日々が濁流のように脳裏に思い描かれる。当時の友人たちの近況はたまにSNSで流れてくる投稿や写真を見つける程度にしか知らなかった。結婚した、子供が産まれた、というものはマナ達の歳では『時期』としてちょうどいいらしい。同期の中にも何人もそういう者がいるようだった。
 マナは自分を振り返る。自分は何にもなっていない。妻にも、母にも。現状に満足はしている。しかし職場や環境は変わったとしても自分自身に何も変化がないのはなんだか負けているような、落第者のような気がしてしまう。変に焦ってしまうような気分になる。行っても惨めになるだけなのではと思う。
 携帯電話を持ったままぼうっと考えていると、注文していた珈琲が届く。
 懐かしさの匂い。
 一口飲んで、返信の画面を立ち上げた。

 同窓会当日の朝、マナは懐かしい街の駅前のビジネスホテルにいた。メールへの返答は未だ無い。何度か時間や場所を尋ねるメールを送っていたが返信はないまま当日を迎えてしまったのである。それでも諦めきれずに有給を申請してホテルまで予約してしまったのである。昼過ぎにチェックインして荷物を整理する。もう一度メールを確認するが何も受信していない。
 夕方になって、やっと諦めがついた。きっと幹事の子に上手くメールが届いていないのだろうと。マナは学生時代に親しんだ駅前をぶらついてみることにしてホテルを出た。変わったところと変わってないところがあって、寂寥感と懐かしさに酔いそうになる。友人達とよく行ったカフェがまだあって、そこで食事をとる。店を出てから、どうせなら学校や寮の方まで散歩しようとホテルとは別方向に歩き出した。
 夜の街を歩いていると海辺まで散歩に出たことを思い出す。何度か友人も一緒に歩いた。一番多く一緒にいたのはナナだった。ナナにはよく話を聞いてもらっていた。性格も育った境遇も違うのに、ナナとはウマが合って共に過ごすことが多かった。夜中に寮を抜け出して夜明けの海を見にいったこともある。楽しかったな、とマナは思い返す。前から女性が数人固まって歩いてくる。狭い歩道いっぱいに広がって歩いており、少し迷惑じみている。マナはそばの電話ボックスの横に避けて集団が通り過ぎるのを待つことにした。
 マナの目の前を女性たちが通る。
 それはどれも知った顔だった。
 駅の方は向かうその集団は喋るのに夢中で、電話ボックスの影のマナに気づいていないらしい。魔が差す、とでも言えばいいのか、マナはその集団が通り過ぎた少し後に隠れるように後をつけた。不自然にならない距離を開けて、時々隠れながら駅前まで戻ってきた。
 コーヒーショップに入っていく。マナの知らない新しい店だ。マナも珈琲を買って、慎重に彼女たちの近くのテーブルに着いた。
「ていうかさー、カナミも酷いよね。全員にお知らせ出したのに呼びたくないヤツには返信しないんだから」
「まあおかげで私らは気の置けないおしゃべりができて良かったじゃん」
「ナナ、あの子は良かったの?仲良かったじゃん、マナちゃん」
「……マナってさぁ、たまにウザくなかった?いや、嫌いとかじゃないんだよ。でもあの自分は不幸です、親にも愛されなかった可哀想な子ですってアピールがカンベンしてって思ってた」
 一瞬、場が白ける。
「あー、分かるわ」
「うん、私も思ってた」
「無駄にキッチンにいたよね。珈琲くらい部屋で飲めっての」

 歩く。疲れて止まって、また歩き出す。
 夏の夜明けは近い。東の空の淵が明るくなってきている。
 マナが浜辺で足を止めてほんの一瞬の後、地平線が煌めいて陽が登り始めた。
 抱えていた箱を砂の上に置く。蓋を一度開けて中のものを全部取り出して膝の上に広げた。一枚一枚、印刷されたかつて確かにあった『幸せ』を眺める。眺め終わったものから箱に戻していく。思い出の写真たちは夜明けの光に輝いている。
 最後の一枚を箱に入れると、蓋をそっと閉じた。途中のコンビニで買ったライターで火をつける。全部が灰になるまで見届けてから、マナは立ち上がった。
 夜明けの浜辺に、いつかのナナとマナが走っていくのを幻視する。



2023.8.23

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