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三題噺小説版『走る』『屋上』『不安定』

落語の三題噺の小説版を友人と遊びました。
【ルール】
☆三つ単語のお題を出して小説を書く
☆私から一題、友人から一題、適当な本を目隠しパラパラ指差しで一題
☆三題はちょい出しでもガッツリ主軸でも可
☆ジャンルはフィクションのみ、ノンフィクションは不可。フィクションであるならミステリーでも純文学でも可。
☆制限時間:約一日



 古びた鍵は少し錆びついていて、鍵穴に差し込むのにも回すのにも工夫が必要だった。数分の格闘の末、ガチャリと音がして扉が開いた頃には圭は少し汗ばんでいたくらいだった。扉を押し開ける。夏の屋外のムワッと湿気をはらんだカビと埃の匂いの屋内の空気が、外の空気と混ざり合う。外は、夕焼け。琥珀色の光が空を染め上げていた。放課後の学校は部活動なんかで残っている生徒たちの声でいつも喧しいくらいうるさいのに、ここは不思議とそんな喧騒が一つ層を隔てたように遠く感じられる。圭はやっと息をつけたような気がした。プールで長く泳いだ後に水面から顔を出した時みたいだ、と思った。とはいえ九月に入ったのにまだまだ暑い。屋上の扉のすぐ先は日向で、圭の皮膚を焼くように日が差している。見渡して貯水槽の影に日影を見つける。ひとまずそこに避難しようと額の汗を拭きながら足を進めたとき、吹奏楽部の楽器の音よりも近くから旋律が聞こえるのに気がついた。ギターの音。これから向かおうとした日影から聞こえてくる。驚いて足を止めた時、上履きがコンクリートに擦れて音が鳴った。ギターの音が止まる。
「なんだ、ここ知ってるヤツ俺以外にもいたんだ」
 ギターの音の主は恐る恐るといった風にこちらを振り向いて、生徒とわかって安心したように肩に力を抜いた。圭が細く小柄で威圧感がなかったのも警戒心を解く一因になったのかもしれない。相手は圭よりは少しがっしりしているがやはり小柄で、比べてもさほど身長に違いはなさそうである。
「美術室で、誰かが隠した鍵を見つけた。来たのは初めてだよ」
 圭はボソボソと返す。追い出されたら嫌だなと思った。
「知ってるやつは知ってるんだな」
 圭の心配に反して相手に追い出す気はないらしい。「そこ、暑いだろ。来いよ」と日陰に招いてくれた。
「なあ、人がいない隠れ場所探してここに来たんだろ。俺もそうなんだ。だから提案、詳しいことはお互い聞かずに良い隣人として共犯者にならないか」
「そうだね。学年も、名前も適当でいい。詮索はしない。それでいいかな」
「おう。まあ適当に仲良くしようや。なんて呼べばいい」
「……圭」
 適当な偽名でも考えようとしたが何も思いつかなかった。まあいいか、と名乗った本名に相手は面白そうに笑みを浮かべた。
「ケイ?じゃあ俺はジェイな」

 圭が所属している美術部は部室に行くのは週に一回でよかった。それぞれ好きな場所で作品制作を行うのが許可されており、その感想会や進捗の報告のために集合する以外は個人での作業が主だったためである。もちろん集合の日でない日も美術室を利用して制作をしてもいい。圭は夏休み前までは美術室でスケッチブックやキャンバスに向き合う日が多かった。先輩たちにアドバイスをもらえたり、他の部員の作成途中の作品を見せてもらうのも楽しかった。それが変わってしまったのは、夏休み直前に発表されたコンクールで一年生の圭の作品が他の部員や先輩を押し除けて入選したときからだった。部活動に力を入れている学校で、美術部には幼少期から絵画や彫刻を習い、美術大学や芸術学部を志望している生徒も多かった。圭はただ絵が好きなだけの、言ってしまえばお遊びで絵を描いているような部員として認識されていた。習い事などで勉強もしてきていない、芸術家を志してもいない。警戒する対象ですらなかったお遊びの一年生に負けたことでプライドを傷つけられた者が少なからずいたらしい。小さな嫌がらせが始まった。無視や聞こえてないふり、陰口や仲間はずれ。制作は個人作業であるから絵を描くこと自体にはそこまで問題はない。しかしそういった雰囲気や関係性の変化は美術室での制作には集中力を欠くものであり、気が散って仕方なく、圭は美術室や部室での制作をやめることにしたのであった。
 そんなときだった。夏休み明けの集合の日のあと、部室の掃除を押し付けられた時に古いキャンバスの木枠の隙間にねじ込まれた鍵を見つけた。鍵はノートの切れ端に包まれており、開いた紙の中には『旧部室棟屋上』と書かれていた。旧部室棟は新しくできた部室棟の部室に入りきらない備品や、体育祭や文化祭の時にしか使用しないような大きな看板や幟が仕舞われている、物置のような扱いの場所であった。その人の出入りの少ない、さらに鍵のかかった屋上である。誰にも邪魔されずに絵を描くには絶好の場所だと思った。

 ジェイは毎日同じ曲を弾き続けていた。練習をしているのかと思えばそうではないらしい。楽譜らしきものはないし、間違えて旋律が止まることもない。抱え込んだスケッチブックに鉛筆を走らせながら、なんとなく聞き流すうちに、その旋律が毎回違った奏で方をされていることに圭は気がついた。音の強弱やリズムの速度が微妙に違っている。それによって曲自体の雰囲気も違った印象に聴こえる。
「今日のは、なんだか夕焼けみたいな音色だね」
 ある日ついに圭はジェイにそう声をかけた。うっかり不可侵の条約を破ってしまった。ジェイは話しかけられたことに気にする風もなく、少し目を細めて圭を見ながらギターを鳴らし続けている。
「夕焼けみたいか、面白い言い回しだな。そうだぜ、夕焼けが綺麗だなって弾いてるんだ。こういうちっちゃい思い出とか気持ちってすぐに忘れちまう。何かに表現してやらないとそう思った俺自身ですら忘れる。そんなのもったいないだろ」
 圭はその歌うようなジェイの声を眩しく思った。
「ねえ、ジェイのこと絵にしてもいい?」
 ジェイは面映そうに笑った。

 圭が絵を描くのは、その方法が表現を行う手段として自分に合っているからだと思っている。歌や楽器が得意なら音楽でも、文章が上手ければ小説でも良かった。ただ『表現』がしたかったのである。圭にとって感情というものはひどく不安定なものに思われた。心は喜怒哀楽だけでは分類できず、その間に無限のグラデーションがあって、自分で自覚するにも人に伝えるにも正体が不明瞭で曖昧であった。喜びの中に悲しさもあって、それが怒りとも隣り合っている。そんな複雑怪奇で矛盾に満ちている心というものをどうにか形あるものにして自覚と伝達を促す。圭にとって『表現』とはそういう作業だった。不安定な存在だった感情や情動が表現というフィルターに通すことで安定した存在になると感じていた。
 だからジェイの「忘れてしまうから何かに表現したい」というのは圭の『表現』への信念に似ている気がしたのだった。ジェイの表現方法はひどく限定的である。圭は絵という手法の中で様々な題材を様々な画材で描くが、ジェイのものは一つの楽器でたった一つの曲のみで為されている。自分とは違うのに、根っこのところは似ているようで面白かった。

 雨の日は屋上に出られない。そうは思っていても他に場所はなくて、圭は結局そこへ向かう階段を登っていた。屋上への扉の前にはジェイがいて、だらしなく階段に足を投げ出してギターを抱えていた。扉は開け放たれて雨の音が聞こえている。階段を登ってきた圭に気がつくと「よう」と片手をあげる。
「なんとなくケイも来る気がしてたんだ」
 自分もそう思ったと圭は笑った。ジェイの座っている何段か下の段に圭も腰をおろしてスケッチブックを開いた。ギターを弾く圭の絵はほとんど完成している。細かな部分を書き足したり修正したりして、この絵は色をつけずに鉛筆画のまま完成させようと思っていた。ジェイも弦を掻き鳴らし始める。
「……雨、明日にはやむかな」
 独り言のようにジェイがつぶやいた。音色が、どうしてか悲しみとほんの少しの安堵が混ざっているように聞こえる。圭は唐突に気がついてしまった。

 汗が流れる。拭いもせず流れたままにして走り続ける。今日ばかりは早く屋上に着かなくてはならない。雨は上がった。快晴である。空気の色に琥珀が混じり始めている。扉の鍵を開ける。コツを掴めば内側からも外側からも開け閉めできてしまうから、鍵が閉まっているからといって相手が来ていないとは限らない。スムーズには回ってくれない鍵に焦りが募る。はやく、はやく。扉が開くとわずかに涼しさを感じる風が汗ばんだ首筋を撫でていった。夏が長引いているようでいて、風の感触は季節が少しずつ進んでいることを感じさせる。荒い息を整えながら見渡す。貯水槽の影、フェンスの前にも人影はない。ふっと息をついて足を進めた。その一歩が終わる前に手首を掴まれる。
「……ケイ」
 扉の影にいた圭もまだ少し息を切らしていた。
「一分、君の方が遅かったよ」
 ジェイは何も返せず手を掴まれたまま立ち尽くしている。圭は薄く笑って「暑いから日陰に行こう」と手を引いた。今日は日陰に入ってもお互い座らなかった。
「ジェイ、僕気がついちゃったんだ。君も僕と同じ目的だったんだね」
 ジェイはハッとして顔をあげる。無意識に後ずさろうとして、掴まれたままの手に引き留められる。
「ジェイはいつにしようと思ってたの?僕は、最初は描きかけだった絵を描き終えたとき、そのあとジェイの絵が完成した時にしようって変えたけど」
 笑っているのに泣き出しそうに眉間に皺を寄せている。その表情に、ジェイはケイも本当に同じ目的だったとわかった。理屈じゃない。同じだとわかるときはいつだって感覚的だ。死に場所を探していたのである。
「……俺は、晴れた日の夕焼けの中がいいと思った。その中で、あの曲をギターで弾いた後。……そしたらあの日ケイが来た。あの日描いてた描きかけの絵を見て、もうちょっとだけって思って……、その後俺の絵を描きはじめて、それが完成したらって思ってた」
「うん。絵、描き終わったんだ」
「……見てもいい?」
「いいけど……」
 圭は言いながらジェイに背負われているギターを見た。
「今日もあの曲聴かせてよ。あと、曲名教えて」
 ジェイは脱力するように笑ってギターを抱えて腰を下ろした。圭も隣に座る。
「まったく、計画は上手くいかないし、不可侵の約束は破りまくるし、どうしようもないな」
「こっちだってそうだよ。……でも、ここでの時間は全然嫌じゃなかった」
 ケースから取り出して軽くチューニングを始める。
「で、曲名は」
 圭が急かす。ジェイは手のひらを上に向けて差し出した。絵を見せろと急かす。圭が持っていたスケッチブックを開いてジェイの方に差し出した。こんな顔して弾いてるのか、ケイにはこんな風に見えるのか、と不思議に思う。もっと思い詰めた顔をしていると思っていた。圭をみる。ジェイからみた圭も死にそうには見えない。そんなもんかと思った。絵を見せたのだから曲名を早く教えろと圭の目が言っている。苦笑して前奏を奏でながら答えた。今日はどんな音色になるのか考えながら。
「めぐり逢い」


2023.9.1

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