見出し画像

三題噺小説版『雨』『白鯨』『薔薇』

落語の三題噺の小説版を友人と遊びました。
【ルール】
☆三つ単語のお題を出して小説を書く
☆私から一題、友人から一題、適当な本を目隠しパラパラ指差しで一題
☆三題はちょい出しでもガッツリ主軸でも可
☆ジャンルはフィクションのみ、ノンフィクションは不可。フィクションであるならミステリーでも純文学でも可。
☆制限時間6時間



 雨の音がしている。雨音がうるさいくせに世界がいつもより静寂に感じる。矛盾している。雨雲で日が差さないせいで部屋が薄暗い。うるさくて、静かで、暗いのに、何処か安心する。雨は、矛盾だ。
 嫌々ながら瞼を押し上げる。眠りが浅くて、目覚めはいつもどろりと重い。ぐったりと瞬きをしながら布団の波間から顔を出す。
 雨の音。
 ああ、うるさい。
 それから、鮮烈な赤色が目の水晶体を透過して刺し貫いてくる。
 薔薇の花。三本。たった三本の癖に豪華な花束。
 薔薇は特別な花だった。薔薇は「ショウビ」とも読む。そのショウビが自分の名前だったから、薔薇の花は昔からなんとなく仲の良い友達のように思っていた。
 昨日までは。

 昨日、恋人に振られたのである。その男は別れの言葉を吐きながらショウビの手に薔薇の花束を押し付けてきた。よりにもよって薔薇の花である。あの男は薔薇の花言葉も知らないのかとショウビは呆れた。そのすぐ後に、私の花なのに、とじわじわ惨めさが胸の内に毒のように広がった。自分の名前と昔馴染みの良き友人がいっぺんに悪い思い出の烙印と変えられてしまった。もっと別の花もあったのにどうしてこの花なのか。こんなことでこの別れが美しい思い出になるとでも思ったのか。花束を押し付けて逃げるように去った男に憤りすら感じた。

 薔薇の花は椅子の上で少しくたびれたように横たわっている。昨日、花瓶に生けることもせずに花束のまま放置したから、萎れてきてしまったのかもしれない。ショウビは重いため息を吐いてベッドから起き上がる。花束を引っ掴んでやや乱暴に包装を剥がした。ラメの入ったリボンも、ドレスのような包装紙も、暴くように剥ぎ取る。その勢いのまま花に手を伸ばして、ショウビの指はびたっと止まる。しばらく静止してから、指先を手のひらの中に丸めて、またのろのろと開いて花びらをそっと撫でた。眉間に皺を寄せて目を細める。今度は殊更丁寧な手つきでその赤い花を抱き上げた。キッチンの棚から一番素敵に思える空き瓶を探して、水切りして、そっと瓶の中に茎を下ろした。

 ショウビがユウと出会ったのは高校の図書室だった。ユウは図書委員で、週に2回カウンターで当番として座っていた。色が白くて少し髪が長い、加えて小柄で細身だったから、ユウは大人しく座っていると女の子にも見えた。ショウビはその頃、親に勝手に入れられた学習塾が嫌で、反抗の真っ只中だった。火曜日と金曜日、その日は家に帰らずに図書室で時間を潰して塾が終わる頃に帰宅する。当然塾から家に連絡が行く。言葉で言っても聞いてくれないからには行動で訴えるしかないと思ってのことだった。その火曜日と金曜日がユウの当番の日だったのだ。
 ショウビは本を読む方ではなかった。本よりは漫画で、読書より流行りの音楽を聴くことが多い。図書室に通い始めた当初、何を読んだらいいかわからず適当に取った本をパラパラめくっていたが、目が滑るばかりでいまいち内容は頭に入っていかない。ユウはカウンターでいつも本を読んでいた。最初、カウンターで隠れて男女同じデザインのブレザーしか見えなかったから、清楚な文学少女だな、というのが第一印象だった。立ち上がって骨格やスラックスから男子なのがわかって二度見した。
「ね、おススメの本とかない?」
 上履きに入ったラインの色が同じだったから同級生なのは分かっていたし、文学少女改め文学青年らしいから本にも詳しいだろうと話しかけてみたのである。ユウはショウビを見てゆっくり瞬きをしてから少し俯いて視線を斜め下に落とした。頭の中の書架を巡ってくれているらしい。やがて「ちょっと待ってて」と言って席を立った。声は初めて聞いたが思ったより低くて、やっぱり男の子だったんだなと思う。やがて戻ってきて何冊かショウビの前に本を並べた。
「これは、青年が荒野を旅する話。ノンフィクション系。こっちは母と娘の話。暗い話だけど俺は結構好き。それからこれは鯨と戦う話」
 最後に指さされた本の表紙の絵が好みで手に取ってみる。濃い青に白いクジラ。
「しろくじら?」
「はくげいって読むんだ。実は一番好きな小説。俺の名前だから」
 ユウは照れたように笑って適当な紙を引き寄せて何かを書いた。
 勇魚
「俺の名前、ユウナっていうんだ。漢字はこう書く。本当はいさなって読む漢字で、クジラの古い呼び方なんだけど。クジラって世界で一番大きい生き物だから、なんかかっこよくて気に入ってるんだ」
「クジラ、好きなの?」
「なんとなくさ、同じ名前だと思うと目につくし。愛着みたいな?そんなふうに追いかけてたら……うん、好きだな。俺、クジラ好きだよ」
 分かる気がした。理屈じゃなくて感覚的なところで、似ている感情を抱いたことがある人だと感じる。
「私、ショウビって名前なの。薔薇って書くんだ」
 ユウはパッとショウビの顔を見た。さっきよりもずっとしっかり目が合っている気がする。瞳が透き通っている。ユウはその後4冊目の本を持ってきてくれて、ショウビはそれを読んだ。薔薇が出てくる本だった。

 花束を貰った後からユウとは連絡が取れなくなっていた。何度か家にも行ってみたが不在であり、引っ越してしまったかもしれない。ショウビは塞ぎ込んで、薔薇の花が萎れきった頃、それまでの職場を辞めた。大きな総合病院の医療事務だったのだが、ちょうど人間関係のゴタゴタに巻き込まれて転職先を探していたところにユウとのことがあり、心機一転生活を変えてみようかと思ったのである。医療事務の仕事内容自体は嫌いではなかったし人間関係と環境さえ一新できれば良かったので、転職先は小さな心療内科クリニックの医療事務である。転職と同時に部屋も引っ越した。どうにかして立て直さなければと必死だった。ここで心が折れたら死んでしまうような気がした。気を抜くとユウの事を惨めったらしく責めてしまう感情ばかり浮かんで溺れそうだった。ユウのことは考えないようにして、日々の忙しさに駆け回っていたらいつの間にか季節が変わっていた。
 雨。
 朝玄関を開けると小雨が降っていた。音もしないような静かな雨。お気に入りの白い傘をさす。新しい職場まではバスで十五分程である。バスの中で天気を調べると、今日は一日雨の予報。車窓から眺める雨はどこかキラキラと瞬いている。景色が滲んで優しく見える。あの日薔薇の花と眺めた雨はもっと陰鬱だったと思って、ショウビはユウとのことを極自然に、さほど強い感情もなく思い出していることに気がついた。ユウが「思い出」になってしまった。それは寂しいことだとショウビは思った。転職をして引っ越しもして、諦める努力をしたのは他でもない自分自身なのに、いざ気持ちが落ち着いて見ればそれはそれで悲しく思うなんて矛盾している。
 決めたのは自分じゃない。
 そう思うことで寂しさも悲しさも振り切ろうと雨粒の当たる窓から目を逸らした。

 職場について制服に着替える。ショウビの働くクリニックでは医療事務は二人で業務に当たっている。主に受付から診察室への案内までが一人、次回診察の予約や会計が一人で、そのほかの雑務は二人で協力して行う。診療の予定などが書かれているホワイトボードには自分の名前の横に「後担当」とあった。受付が前担当で会計が後担当と呼ばれている。ショウビは会計窓口となっているカウンター内に座ってパソコンを開き、今日の診察予定患者の一覧表を印刷した。ざっと目を通して氏名と診察回数などを確認していく。読み流す中に馴染みのある文字の並びを見つけて視線が止まる。えっと小さく声が漏れた。
 ……白井勇魚
 どうして。うち、心療内科だよ。いつから。どうしたの。どうしていたの。
 取り留めなく溢れ出す。混乱。心配。思い出へと、過去のものへと変質しかけていたユウへの感情が生を持ったものに戻っていくのを心のどこか冷静な部分が感じていた。電子カルテからユウの情報を開きかけてぐっと思いとどまる。ここで見てはいけない。ショウビとしてユウと向き合うには医療者と患者という関係の中の情報ではなく、ユウの口から語られるもので知らなくては。
 私はユウともう一度話がしたい。
 心療内科や精神科ではスタッフの知り合いが通院している時にはなるべく当人同士が顔を合わせることが無いように対応する。患者は医療者としての対応を求めているからである。プライベートでの関わりがあると医療者と患者という関係性が複雑化してしまうこともある。
「あの、この午後の4番目の白井って方、知り合いなんです。対応変わっていただけませんか」
 今日のもう一人の医療事務員に声をかけると、少し驚いた顔をした後に快く了承された。小さなクリニックで知り合いが来院することは少ない。
「じゃあその人が来たら奥に引っ込んでてね。ああ、カルテのメモにも知り合いにつき対応不可ってあなたの名前入れようか」
 先輩事務員がカルテのメモ機能の立ち上げ方を教えてくれる。これで次回以降の来院時も配慮してもらいやすくなる。

 午後の診療が始まる。二人目の患者の診察後の処理をしていたとき、受付業務をしていた先輩から声がかかる。ユウが来たらしい。クリニックは事務室兼受付・会計カウンターを中心にコの字型に廊下があり、患者は受付側の入り口から入り、診察室で診察を受けた後、逆側の廊下へ進んで会計カウンターへ行き、出口から出る一方通行の造りになっている。受付カウンターと会計カウンターは背中合わせになっており、受付側から会計カウンターにいるショウビは見えない。ショウビはユウが診察室に呼ばれたタイミングで受付の事務員と位置を交換し一時的に受付業務をすることになっていた。
 今、同じ建物内にユウがいるんだな。そう思うとなんだか不思議な感覚だった。あれだけ会おうと思っても会えなかったユウがこんなに近くにいる。話をしたいと思っている。だが、今日話しかけるわけにはいかない。ここにいるショウビは事務員でしか無いのだから。カルテを見てしまうのもユウに対して誠実では無い気がしてできない。どうにか肩書きのないただのショウビとして会いたい。どうしようか、仕事が終わった後クリニックの周りを少し歩いて探してみようか。なかなか良い案が浮かばないまま業務を行なっていると、会計カウンター側が俄かに騒がしくなった。先輩事務員の声がショウビを呼ぶ。
「看護師さん呼んできて!過呼吸みたいなの!」
 心療内科である以上、診察中や診察前後で過呼吸を起こす患者は珍しくない。先輩事務員から指示されて事務室から飛び出る。扉の横は会計カウンターである。
 蹲っているのはユウだった。
「青山さん早く!」
 惚けたショウビに檄が飛ぶ。呼ばれた名前にユウが顔をあげた気配を視界の端で捉えながら、診察室の扉の方へ駆け出した。診察室の看護師と医師に過呼吸を起こした患者がいることを伝える。看護師が医師から診察室横の処置室へ案内して落ち着くまで様子を見るように指示を受けている。看護師は車椅子出して会計カウンターに向かう。自力で歩けないときは車椅子に乗ってもらうためである。ユウは切れ切れの呼吸の合間に看護師と受け答えしている。息を吐くのを意識するように言われて少しずつ呼吸が落ち着いていく。その間、ずっとユウはショウビを見つめていた。
「……ショウビ、……ショウビ」
 ユウの口から、ユウの声で、久方ぶりにその響きを聞いた。縋るような音だった。恐る恐るショウビが近づくと弱く手が握られる。
 診察に当たっていた医師はユウの様子からショウビと対面しても大丈夫だろうと判断したらしい。落ち着いた後医師に状況を報告した看護師はそうショウビに言った。
「あなたが大丈夫であるなら少し話をしてあげて欲しいんだけど。……ずっとあなたを呼んでるわ」
 個人的な関係でのことになるからもちろんあなたが嫌であれば行かなくていいと前置いた上で提案される。その間業務は先輩事務員が請け負ってくれるとのことである。

「……ユウ」
 声をかけるとユウは弾かれたように顔を上げた。処置室のベッドに腰掛けたユウは呼吸こそ落ち着いたもののまだ顔色が悪い。座っていい?とベッド横の椅子を指すと頷く。椅子に移動して腰を下ろすまでユウはショウビから目を離さない。
「ショウビ、幻覚じゃないよね」
 ユウが恐る恐る手を伸ばすから握ってやるとほうっと息を吐いて握り返してくる。ショウビはユウのカルテは見ていないこと、ユウが話したくないことは聞かないことを伝える。
「ユウ、もう一回話がしたかったんだ。ユウのこと何にもわからないままお別れは嫌だったんだよ」
 ユウはしばらく黙ったままだったが、やがて話し出した。

 ユウは、ユウの両親の二人目の子供だった。ユウの前には姉が生まれていたが、その姉は幼くして亡くなったらしい。娘が死んだ後、母親はしばらく塞ぎ込んでいたがある時思い立った。「もう一度あの子を産みなおせばいい。きっと私のもとへ帰ってきてくれる」と。父親はその考えを間違っていると思いながらも、妻の気が晴れるのであればと思い、もう一度子供をもうけた。育児の中で死んだ娘と新しく生まれる子が違うことに気がつけばいいとも考えていた。そうしてユウは生まれた。男の子である。母親はそれでも娘が帰ってきたと思ったらしい。幸か不幸かユウは姉と瓜二つだったのだ。母親はユウが男の子であることを否定し、ユウがユウであることを否定した。可愛らしい女の子であることを求められて、それを演じて。そうすれば家庭内は平和だった。父親は何度も説得しようとしたが母親のヒステリックな勢いに敵わずに、それでも時々こっそりユウを連れ出しては息抜きをさせてくれた。ユウが第二次性徴期を迎えると母親のヒステリーはもはや病的になっていた。ユウの骨格は角ばっていき、声も低くなった。とうとう母親は精神疾患患者として入院することになった。ユウが大学生の頃である。そして、数年穏やかな日が続いたある日、母親は病院から脱走しそのままビルから飛び降りて死んだ。病室には娘のところに行くと書き残されていた。
「その後からなんだ。クジラが見える。白いクジラ。……幻覚や妄想だってわかってる。でも雲やビルが白鯨になって俺を殺しにくる。きっとユナだ。母さんを死なせてしまった俺を姉さんが許さない。そんな気がしてならない」
 幻覚や妄想であることを自覚しつつも、振り回されて疲弊していって、心療内科に通うようになったという。その頃がちょうどショウビに別れを告げた時期だった。
「ショウビまで殺されると思ったんだ。……いや、それ以上にこんな俺と一緒に居させちゃダメだって。母さんがいなくなって俺はどう生きたら良いのかわからないんだ。あんなに自由を求めていたのに。いざ自由になったら何をして何を思ったら正解なのかわからない。ショウビを大切にしたいのに、どうしたら大切にできるかわからなかったんだ。君はとても綺麗で僕なんかが触れていい存在じゃない。そんな気もするんだ。それなのに、……ねえショウビ、薔薇の花なんか渡してごめん。きっと知ってたよね。薔薇の花言葉。未練たらしく好意なんか寄せられてきっと混乱したよね」
 ショウビが口を開こうとすると、処置室の扉がノックされた。もうクリニックを閉めるらしい。業務は後回しにできることは残して今日中に熟すべきものだけ先輩事務員が片付けてくれたそうだ。ショウビはなるべく急いで着替えて荷物をまとめる。ユウを促してクリニックを出た。
 外は雨が降っている。夕暮れも終わりかけの薄暗い空。雨や水たまりに街の電灯や照明が反射して目にみえる風景はいつもより賑やかだ。そのくせ雨音は音を吸い込んで喧騒を遠のかせる。相変わらず雨は矛盾を孕んでいる。
「ユウ、私ね、薔薇の花が好きなんだ。自分の名前と同じだから。だからお別れの花束に薔薇を渡されてすごく悲しかった」
 ユウが口を開きかける。ごめん、と声になるだろうことがわかって、その前に続きを紡ぐ。
「ユウがなんであってもいいよ。怖がりでも、矛盾してても。一緒にいるって知っていくってことでしょう。私、ユウを知りたい。ユウにもっと私を知ってほしい。」
 話しながら、ああそうかと心の中で思う。
 矛盾だらけは私の心もだ。……雨のように。
「完全に正解とか完全に間違ってるものって実はそんなにないんだと思う。人の心については特に。好きと嫌いが一緒でも、生きたいと死にたいが同時に存在しててもおかしくない。曖昧で、柔らかくて、矛盾に満ちてる。……でも、それでいい。矛盾したままでもいいんだよ。ユウに薔薇の花をもらって悲しかったのはほんとう。私がユウを好きって気持ちもほんもの。どっちも間違ってなくてどっちもあるよ」
 ゆっくり歩いて公園の前に差し掛かる。東屋を見つけて屋根の下に逃げ込む。喧騒がさらに遠のいて雨の音と静寂が濃い。雨を眺めていたユウがショウビの方を向く。薄く微笑んだその唇が言葉を紡ぐ。



2023.8.14

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?